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生きている喜び、動ける喜び

 僕は今幸せだ、生きて今を感じられるから。
 今はまだ、体力が戻らず足の力もだいぶ弱いが歩くことは出来る。景色を見るにしても窓枠で切り取られた限られた範囲の景色ではなく、360度全方位の景色を見る事が出来る。それに視覚のみではなく、その時降り注ぐ太陽の光を感じ、海から吹いて来る風を感じ、そして海の匂いを感じる事も出来る。そう、身体全体で景色を感じる事が出来る。そうして景色を見ていると肩の力が抜けて、自分の周りに真っ暗な壁を感じる事なくフラットな気持ちでその場の事を感じる事ができ、心も満たすことが出来る。そして何より僕は生きている。昨年までの入院治療や更にその前の事を思い出すと、生きて今を感じられるこの瞬間が僕はとても愛おしく感じてしまう。

 2024年のゴールデンウィーク後半の初日。
 骨髄移植を受けてから10か月以上経つが、未だに免疫抑制剤を飲んでいるため生活上の制限は多い。生物を食べる事は禁止されているし、県外への旅行も未だに許可が出ていない。でも我慢出来なかった。海も見たくなるし、潮風にもあたりたくなる。食べる物を気をつければ大丈夫だろうと思い海を見に来た。

 昨年そして一昨年は、この時期は病院のクリーンルーム(=無菌室)にいた。見えていた景色はクリーンルームの窓枠で切り取られた景色。ゴールデンウイーク中の記憶は、朝の採血結果において血小板が治療に必要な基準値より低い事が多く、高速道路を走って届けられる血小板の輸血パックを待っていた事。その合間にスマホのニュースで各地が観光客で賑わっているのを見ては羨ましく思い、自分は来年こそはこの観光客と同じように海を見たり、制限はあるかもしれないけど食べたい物が食べられるのだろうかと思いを巡らせていた。しかしそれとは裏腹に、ゴールデンウィークを迎える数週間前に起きた敗血症により生死をさまよった事から、死をより身近に感じて色彩豊かな未来を描けなくもなっていた。
 そして1年経った今日、僕はどこまでも深い青色が広がる海を見た。雲ひとつ無い青空の下を歩いた。潮の香りを感じて、心地良い風を頬に感じる事が出来た。足に心地良い疲れを感じる事が出来た。この海を見るまで抱えていた心の中のドロドロしたものが目の前に広がる海と空に薄められていき、狭くなっていた心が目の前の海と空に繋がっていく。ずっと感じられなかった感覚、もう忘れかけていた気持ち、白血病になるまで当たり前だと思っていた今周りにある全ての存在、その些細な事一つ一つが今僕に幸せを教えてくれる。

 人間いつ何があるか分からないと人はいう。
 そのとおりだと思う。「白血病だ」と言われたのも突然だ、生死の境をさまよったのも突然だ、骨髄移植後自分が1ヶ月もベッドから起き上がれなくなるのなんて予想もしてなかった。うつ病を患った事もそうだ。自分がまさかそんな病気に長く苦しめられることになるとは思わなかった。この世の中に存在するあらゆる事が、自分に関係ないと思って見ないようにしていた事が、ある日突然自分に降りかかる。関係ない事なんて無いんだなと思わされた。

 うつ病を発症した頃、心配してくれる人がたくさんいた。きっとその時期に治ってくれれば良かったんだと思う。なぜなら、人間関係や周りの誹謗中傷に悩まなくて良かったのだから。
 他の精神疾患の事は分からないし、他のうつ病患者の事もよく分からないけど、僕の場合は視野が狭くなっていたと思う。そして自分の周りに壁を作り、人とのつながりを無意識のうちに断とうとしていた。だから周りのアドバイスも耳に入って来なかった。周りの気持ちを察する事も出来なかった。今にして思えば「精神疾患になった僕は“悲劇のヒロイン”でしょ、それを周りが理解してよ」という感覚。そしてそうなった原因を周りに押し付けていた。今思い返すとそのような感じがする。
 仕事や日常生活を営んでいれば、必ず大なり小なりのストレスを感じる事は普通にある。それにストレスも自分にとって気分の良くない事ばかりではなく、気分の良い時にもストレスを感じる事があるという。そしてその受けたストレスをどのように自分の中で処理していくのか、どこに落としていくのかが大切だと思う。

 うつ病を発症した頃、僕には逃げる場所がどこにもなかった。職場にも家庭にも、さらには一人でいる時も。いつも何かに追われているというか、外部的な要因で逃げられないのであれば自分の心や頭の中、内部的な部分に逃げ道を作れば良かったのかもしれない。それに職場でも家庭でも“こうあるべき”という気持ちが強すぎたのかもしれない。周りに頼らず、自分で何でもなんとかしようとし過ぎていたのかもしれない。自分というモノを持っていなくて、他人と比較する事によってでしか自分という存在を認識できなかったというのもある。それに今思えばそんな強いわけでもないのに、変に虚勢を張っていたのもあるかな。なにしろ、それまでの自分とは真逆の事、自分が自分らしくいられる事、自分の許容範囲以上の事をしようとしていたんだと思う。また心や身体が病んでいく前は、自分の立ち位置も間違っていたのかもしれない。例えば、仕事においては本来の自分の役職の仕事があるはずなのに、自分の今の役職以上の事をするといった具合に。そこに仕事上での人間関係やプライベートでの逃げ道の無い状況が加わり、僕は壁を作り視野を狭くしていったのだと思う。
 ただ発症から治療完了までの間は本当に苦しかった。日々ズレていく身体の感覚、周りと話している内容に追い付かなくなる思考、眠れない日々、増えるお酒の量、訳も無くイライラして周りが敵に見えて来る。全てがうまくいかなくなり、全ての流れが負の連鎖に巻き込まれ、そして全ての出口は閉ざされていく。
 うつ病の間の事はほとんど覚えていない。思い出そうとしても思い出せない。ただ自宅に居ても家族から、そして職場でも周りからの誹謗中傷の声。今にして思えば言われて当たり前。みんな一生懸命仕事しているのに、その中に何しているか分からない奴がいるんだから。でもあの頃の僕には分からなかった。ただ辛かった。なぜこんなに言われなければならないのか、僕は僕で頑張っているのに。こんなに身体が辛いのに、誰も理解してくれない。あれから何年も経つが、未だに言われた言葉や状況を思い出すことがある。ただ最近では生きていれば色々あるな、あの時のあの状況を経験したからこそ特に白血病の再発後の治療を乗り越える事が出来たんだと捉えられるようになった。

 SNSを見ていて時々「死にたい」という言葉を見かける。基本的に精神疾患を抱えた方に多いように思う。僕も精神を病んでいた時に無意識のうちに飛び降りようとしていた事があった。発病から何年も経ったある日、突然歩いていて日々の誹謗中傷を思い出し、そして突然僕の目に地面が近づいてくる映像が見えた。その瞬間「はっ」と思い正気に戻った時、僕は柵を乗り越えて飛び降りようとしていた。そしてその時周りにいた人達がその僕を止めようとしていた。その状況に急に恥ずかしくなり、その場からすぐに逃げた。この他にも何回も自傷行為をしようとした事もあった。暗闇の中どこへ逃げようとしてもすぐに高い壁にぶち当たる。その壁を乗り越えようとしても出来ない。右に行っても左に行っても全て壁。体調が良くなり普通に動けるな、と思っても数日しか身体が動かない、いや動けないが正しい表現かな。朝になると身体が固まってしまったかのように。周りからは理解なんてされない。怠けているだけだろ、と思われるくらい。

 そして僕は入院した。同じくらいの年代の患者が何人もいたが、初めてそのグループを見た時に感覚的に“気持ちの悪さ”のようなものを感じて距離を取っていた。そのため入院当初の僕は一人で音楽を聴いたり本を読んだり、あとは何も考えずに外を眺めている事が多かった。その時お見舞いに来た両親や病院スタッフはそんな僕を心配してか、誰かと交流を持たせようとしていたが僕は正直嫌だった。外の世界の人間関係に煩わしさを感じていたのに、なぜここでも人と交流を持たなければならないのか、そんな思いが強かった。
 でもそんなある日、僕に話しかけて来た奴がいた。僕に興味があったと言っていた。後から知ったが、それはそいつだけではなく、そこに入院していた同じ年代の人達みんなが、のようだった。そこから何日かして、そのグループの人達と話をするようになった。その中でその人達から、
「病気も個性だよ。」
と言われた。初めて聞いた、初めて言われたその言葉が心地良く僕の心に、そして身体に染み渡った。うつ病になり、うつ病になる前に交流のあった人達が離れていった寂しさもあったんだと思う。しかし「病気も個性」この言葉でここのコミュニティのみんなと徐々に繋がり、そしてそこに身を置く事に本当に居心地の良さを感じていた。それまでのコミュニティでは否定されていた事が、このコミュニティでは肯定される。もうあんな苦しい誹謗中傷に耐え続ける位なら一生このままでもいいのかなとも思った。

 でもだんだんお互いがお互いに依存し合う、なれ合いの世界に僕は気持ちの悪さを感じ始めた。ここから抜け出したい、元の世界に戻りたい、と思い始め再びうつ病と戦う事にした。
 戦う事にした僕に今度はここのコミュニティの人達からの誹謗中傷が始まった。裏切り行為に見えたのか、僕はそんな風に思って聞いていた。社会復帰を目指し、主治医の許可で気持ちが耐えられない時には随時安定剤の点滴をしてもらえることになった。その点滴を受けている最中、処置室に来たそのコミュニティの人達からは、
「頑張るからそうなるんだよ。こっちの方が楽でいいじゃん。馬鹿みたい。」
「早く今の仕事、クビになっちゃいな(笑)」
こんな事ばかり言われ続けた。そして僕の周りからは、こっちのコミュニティの人達もいなくなった。それはそうだよね、一人だけその輪から抜け出そうとしてるんだから。でも、それでも這い上がりたかった。普通に生きていたって1年間のうち気分よく起きる事が出来る日なんてそんなにない。ただ起きて外に出れば、些細な幸せに出会う事が出来る。天気がいいな、今日は道が空いてるな、桜が咲いてきたな、山が今日は澄んで見えるな、身体が軽いな、他にもたくさんの幸せと石に躓くように容易く出会う事が出来る。僕はただそんな毎日を送りたいと思い、精神疾患を克服しようと思った。
 そして初めて精神疾患で病院にかかってから12年が経ったある日の診察で、主治医から、
「今日で治療完了にする?」
と聞かれた。嬉しかった。思えばこのように言われる半年くらい前から体調は良かったから、そろそろ病院に行きたくないな、とは思っていた。もちろん主治医の言葉に僕は頷いた。
 治療完了を迎える頃には周りに誰もいなくなった。だからこの時、人の繋がりなんて儚い物なんだな、そんな事も考えていた。

 それから仕事に取り組んだ。嫌な事はたくさんあったけど、それ以上に充実感の方が勝っていた。うつ病になる前の人達とは離れたままだったけど、新たに仕事をともにした人たちと過ごす事ができた。この中で頑張ろうと思えた。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」こんな言葉がある。
 日々周りに落ちている偶然に気付かずに過ごして、そして僕は日増しにそれが当たり前のように毎日を送るようになってきていた。
 春になり桜並木を見る事も、その後に咲き誇るハナミズキの花の元を歩くことも、毎日仕事に行く事も、そして妻と毎日過ごすことも。
 全てが当たり前になり、そこにあった温かな気持ちが冷めていき、毎日のルーティンをこなすような生活に、そして生き方になってきていた。

 ある日、そんな毎日が崩れ去る。
 うつ病の治療完了と言われてから1年が経とうとしていた頃、朝起きると疲れが取れていない、日中何度も目まいが起きる、夜寝ていても寝汗で起きる事がある。こんな日が続いた。
 そして2021年12月23日木曜日午後1時頃、地元の大学病院で急性骨髄性白血病の診断を受けた。自分はそんな病気とは無関係だと思って生きて来たからショックはあった。しかし病気の事自体よく分かっていなかったのもあり、医師に言われた治療を受ければ大丈夫だろうと思っていた。
 翌日12月24日、世の中は12月の最大イベントのクリスマスイブで盛り上がっていた。もみの木にはクリスマスカラーを中心とした飾りつけとイルミネーションが施され、街のお店は夜のディナーに備えて店内をクリスマス一色にして、お客さんを迎える準備をしている。僕もこの日は妻と予約しておいたクリスマスケーキを仕事の後受け取りに行き、夕食後美味しいアールグレイと共に二人で食べようと予定していた。そんな普通のありきたりなクリスマスイブの予定が崩れ去り、僕はこの日から入院する事になった。ただこれも最後の試練かと思い、抗がん剤治療4クールに耐えて、翌年7月上旬には本退院。
 治療開始当初は不安はあった。病気の事を知るうちに再発する場合もある事を知った。白血病が直接的な原因ではなく、治療中には身体の中の免疫力の低下により死に至る事もある事を知った。この時の治療では関係ない骨髄移植の事も聞いたり調べたりもした。
 でもこれらの事は僕には関係ない事だと思っていた。僕は今回の治療で完治するはずだ、どこから沸き起こって来たか分からない、今にして思えば笑ってしまうような変な自信が僕にあった。そう、最初の治療で医師や看護師、その他医療スタッフから聞いた白血病の知識、SNSで実際に再発した人の話も見たが、その全てが自分には関係ない事だと思っていた。

 初発の入院治療が終わり職場復帰。以前よりも仕事が楽しく感じられた。半年間の入院で体力が落ちていた事はあるが、それでも「今ここに居る」という思いが強かった。それだけで幸せだった。
 ただこの気持ちも半年で終わった。
 本退院して半年後の経過観察の通院時、採血で腫瘍マーカーが基準値以上に増えていたので詳細な検査をした。そして急性骨髄性白血病が再発していた事が分かった。
 この時心の中を駆け巡った言葉が、
「何で俺ばかり。」
「死にたいとか日々言っている奴がなればいいのに。」
もう僕はこの病気が治らずに人生を終える事になるのかもしれないとさえ思った。諦めたくなかったけど、どう戦っていいのかが分からなかった。どんな治療をするのかも分かっていたので、死の恐怖や治療への恐怖が幾重にも重なりあい、そして僕の心を覆い尽くし生きようとする心を蝕んでいった。

 白血病の再発まで幸せというのはどういう事か、よく分かっていなかったように思う。人と比べて人より勝っている事が幸せという事なのか、自分勝手に人の話を聞かずに生きる事が幸せなのか、お金がいっぱいある事が幸せなのか、僕は僕自身の幸せの基準というモノを持っていなかった。なんかずっと勝ち負けを身近にいる人達から言われ続け、それが当たり前になってしまったようだ。でもそれを求めていくとだんだん苦しくなる。そして逃げ出したくなる。いつしか自分が逃げられる場所を探すようになった。ただ現実社会ではなかなかそんな場所はない。それで空想の世界に入り浸るようになった。そこがただ一つ、誰にも邪魔されずに心を癒してくれる場所だったから。こんな事だから何しても身に入るはずがない。僕は負のループに完全に飲み込まれていた。

 再発後の治療は初発の時の治療と違い、治療により起こる副作用に度々悩まされた。その度に動けなくなったり、時には生命の危機に直面した事もある。
 再発時に受けた治療の流れは、抗がん剤治療においては寛解導入療法を1クール、地固め療法を1クール、そして同種造血幹細胞移植、いわゆる骨髄移植を受けた。
 抗がん剤投与の1クールのカウントの仕方については、抗がん剤を僕の場合は寛解導入療法では1週間、地固め療法では4日間投与する。その後数週間かけて骨髄抑制という副反応が起きて造血機能が低下していく。そしてその後さらに1週間から2週間かけて機能が回復していく。回復の目安としてはヘモグロビン値が8,000、血小板が20,000、そして白血球については初発の時からばらつきがあり一概には言えないが1,000から1,500。この数値が自分の力で維持できるようになったところで、ここまでの治療の評価をするために骨髄検査をする。ここまでで1クールになり、期間として個人差はあるが1か月から1か月半位。そしてこの間白血球の低下による免疫力の低下により、外部の細菌などから感染症にならないようにクリーンルーム(=無菌室)で過ごすことになる。またヘモグロビン値と血小板値が朝の採血において、目安と上げた値を下回る事があると赤血球と血小板の輸血をする事になる。あと寛解導入療法と地固め療法の違いについては、寛解導入療法において数種類の抗がん剤(初発時はイダマイシンとシタラビン、再発時にはノバントロン・エトポシド・シタラビン)を使用して骨髄検査により確認された白血病細胞の数を1,000分の1以下にする事を目的に行われる。地固め療法においてはシタラビンという抗がん剤を寛解導入療法の時に使用した20倍の量を投与して、身体全体に存在している白血病細胞を根絶する事を目的に行われる。

 地固め療法の時には、抗がん剤を投与して1週間ほど経ったある日の午後、春の日差しを受けた景色を眺めている時に急に寒気に襲われた。そして僕は気を失った。名前を呼ばれている気がして目を開けた時、4人の医師と2人の看護師がベッドを囲み、いつもと違う険しい表情で何かをしているようだった。僕は意識が朦朧としながらその光景を眺めていて、時々針を刺す痛みなどを感じていた。どのくらい時間が経っただろうか、再び意識を失い我に返った時には外来時からの担当医がベッド脇に立っていた。その時初めて自分が敗血症を起こして生死の境をさまよっていた事を知らされた。

 骨髄移植については、移植日が決まるとその一週間前から移植前処置としてドナーより提供される骨髄を受け入れるための準備をする。その時に僕が持っている免疫力で、提供される骨髄を攻撃しない様にするために。そのため放射線治療や強い抗がん剤を使用して僕の骨髄を破壊していく。そして骨髄移植当日を迎える。ちなみに移植前の説明では、移植したとして4割くらいの人は再発する事、移植による免疫反応で2~3割位の人は亡くなる事を聞いた。また最も強力な治療であるため、移植後様々な症状が出てしまい動けなくなるとも聞いた。そして提供される骨髄が根付く(=生着という)目安としては、好中球が3日連続500を超えた日の初日と聞かされた。この生着を迎えるとだいぶ身体が楽になる。
 僕の場合は、移植後3日経った頃に酷い倦怠感から身体が動かなくなった。そして翌日には口の中が口内炎だらけになった。熱も連日40℃を超え、血圧の低下や血中酸素濃度が低下する日が続いた。多臓器不全を起こしそうになった事もある。また両肺とも肺炎を起こしてしまい、少し身体を動かすだけで咳き込む事も多かった。痰が絡んで自分で吐き出す事も出来ない、起き上がる事が出来ないのだから紙おむつに尿を出す管を入れた事もある。移植後1か月位はそんな日が続いた。もう治療から逃げ出したかった。何か処置されるのが怖かった。もう誰も関わらないでくれとも思った。看護師が来て着替えさせてくれる事でさえ苦痛に感じた。
 そんな中でもみんな優しかった。移植後3週間程度経過した時に生着の確認が取れたが、以前から、そしてこの時も今これを書いている時も思っているが、僕はここのスタッフの手でこの強力な治療を受ける事が出来て心から感謝している。もちろんボランティアなのに痛い想いをして、しかも仕事をしている方なら、まだあまり世間では認知されていない骨髄移植のドナーになるために職場に休む事を伝える事も大変だったと思う。他にもドナー候補になり検査に行かれた方も何人かいる。本当にありがたい、感謝の気持ちでいっぱいになるのと同時に、この方々のおかげで僕は生きる事が出来ている。

 クリーンエリアから一般病棟を眺める事がよくあった。リハビリでストレッチや軽い筋トレをした後、歩いていた時に自動ドアのガラス越しに真っ直ぐ伸びる一般病棟の廊下を見ていた。自動ドアを出て左側から差し込んでくる光はデイルームの窓から差し込まれている光。その他に目に見える情報は、廊下を行き交う病院スタッフやリハビリでウォーキングしている数人の患者のみ。だけど以前見た記憶が目に見える情報を膨らませて、見えていない景色を僕に見せる。僕の目に見えている景色と記憶の景色は重なり合い、廊下の突き当たりにある非常ドアのガラスやデイルームの窓からは、僕が生まれ育った町や病気になる前には趣味のランニングで走っていた田園地帯や山々、その細部までも蘇らせていた。

 骨髄移植を受けて退院してから半年以上経過していたある日の診察。
 ここまで順調に増えていた血小板が3万近く減少していた。医師の説明では、感染症による影響か、それかこの頃服用していた薬の影響により血小板が減少する事があるとも言っていた。結果は翌週には分かるという事だった。ただこの二つのどれにも該当しないようであれば骨髄検査を行い、白血病細胞が増えているかどうかを確認するために骨髄の様子を見るという事だった。それは、また急性骨髄性白血病の再発を疑わなければならないという事。

 目まいが起きるのも怖い。急性骨髄性白血病と診断される数か月前から目まいがよく起きていた。これは血液中の赤血球の減少によるために起きていたという。ただ治療後も目まいが起きると、白血病になる前も疲れれば目まいは起きていたのに、また再発したのかと不安に思ってしまう。少しの出来事が全て白血病と結びついてしまう、そんな思考回路になっている。

 再発と言われてから1年以上経過した春に職場に復帰した。まだ体力も完全に戻っていないが、外の仕事が無ければ復帰可能と医師からの許可が出たために復帰できた。また職場においても、休職前は外の仕事もある部署であったが配慮をしてくれて、完全にデスクワークのみの部署に異動をさせてくれた。内容はもともと興味のある分野ではあった。今までの仕事で見ていた物事を別の視点から見るような感じの仕事で、日々覚える事が新鮮である。
 またこれは何も仕事の事だけではない。通勤中自分で車を運転する、それも入院中何度も運転したいと思っていた自分の愛車を運転する喜び、通勤しながら見える周りの景色、制限速度で走っている車もあれば通勤サーキットでもしているかのように僅かな隙間を見つけてはアクセルを踏み込んで前へ前へと行く車。歩道には登校を見守る地域の大人達、そして学校に通う小学生達。中学生や高校生は昔ながらのママチャリで通学する子もいれば、最新のロードバイクで颯爽と前を急ぐ子もいる。それらの姿を守るように桜並木、その後はハナミズキの花。そして視線を上に向けていくと久しぶりにみる緑豊かな山々と、更にその上には青空が広がっている事もあれば、雨の日で雲に覆われている事もある。毎日同じ景色は無いが、毎日色々な景色をこの世の中は僕に見せてくれる。

 今僕はこれを喫茶店で書いている。
 店内は多くの人で賑わい、友人同士でおしゃべりを楽しむ人たち、一人パソコンに向かう人、スマホを眺める人、コーヒーと一緒に食事を楽しむ人など、それぞれの楽しみ方をしている。この瞬間に立ち会える喜び、この一瞬でしか感じる事が出来ないこの感覚、そして今しか見る事が出来ないこの光景、これも治療を乗り越えた今があるから、色んな人の支えがあり生きて動くことが出来るようになった今があるから経験出来る事。そして何より、ここまで何度か命を落としそうになりながらも周りの支えで命を繋ぐことが出来たから、今のこの瞬間を楽しむ事が出来ているのだと思う。
 これから先の事なんて分からない。これから経過観察のための通院も年単位で続く。それに免疫反応が出る事もある。再発の可能性もゼロではない。でもそれを意識し過ぎては前に進めない。僕は今回の治療を乗り越えた事で前に進みたくなった。動けるし、何より生きているのだから。この喜びが今の僕を突き動かしている。

 だから、
「さあ、動こう!生きているんだから。」



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