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消化方法 how to digest

先日、94歳の祖母が亡くなった。
危篤期間おおよそ20日。長かった、、
「そろそろです」が4月の間に何回もあった。何度もありすぎたので、そろそろってだいたいどれくらい?と思っていた。もう死なないのかもしれないと思ったとき亡くなった。

葬儀は金曜日土曜日に行われることになった。
たまたま金曜日小学校が創立記念で休みだったので息子AY(6歳)と共に葬儀場へ向かう。故人を悪く言うようなことはしたくないのだが、
死期がせまってきてからが長かったことと、やはり、母を苦しめた
(少なくとも苦しませているように見えていた)祖母が亡くなった
時の感情はホッとしたという言葉に置き換えられる。きっと最後は
なかなか肉体を脱げず、それはしんどかったと思うし、ふわっと
逝けて、楽になってればいいなぁと祈る。これぞまさにご冥福を祈る!実際に死顔が穏やかな表情をしていたので、あぁ、これで全てを手放すことができたんだろうとほっとした。

AY氏ですが、死体を見てびっくりするかな?怖がるかなと思ったが、
「あぁ死んでるねー」「これが死んでるっていうんだー」と
納得したような反応を見せていた。お葬式の後の、棺桶にお花を
入れるあのシーンでも、たくさんお花をいれて、死体に手を触れても
「うわぁ冷たいねー」と言っているくらいけろりとしていた。
私は、小4のころ初めて死体をみたのだが、正直触ろうなんて全然思わなかった。それは田舎のお葬式だったので、広い広いお座敷に布団が敷かれて、白い布が顔にかぶされて、小さい子が「じーちゃん死んでんねんでー」と言って、その白い布をとろうとしているのを見て、「とらないで!見たくないよー」と心の中で叫んでいたのを思い出す。私は既に10歳だったからなのか、性格的な問題なのかはわからないが、死というもの、死体という物体の捉え方が人それぞれ違うんだなぁと思う。今はというと、できる限り触れている。死体そのものには「おばあちゃん」が不在なので、おばあちゃんにというか、目の前にある肉体というものに対してお疲れ様と声をかける。よくがんばった、体!という意味で。もう全く機能していないことが理解できると、体もモノにすぎないと思えて、使わせてくれてありがとう、時には抱っこしてくれたり、手をつないで一緒に歩いてくれた体、お疲れ様でした、どうもありがとうでしかない。それが今の私の死体との向き合い方なんだろう。

出棺して、焼き場へ向かう。
我々(私の弟Hと息子AY)は、父の車に乗りたくなかったのでタクシーで向かう。タクシーの中で、おばあちゃんの死に対しては、おばあちゃんが死んだというだけでなく、我々の母との「あの関係」の終わりという意味も含まれるので泣かなかったねという話に落ち着く。我々が感じていた母と祖母の「あの関係」については、既に受け入れることができる年齢に達していて、それが浄化されたんだと思うと、おめでとうと思わずにはいられなかったんだろう。それは死を喜んでいるというわけではなく、新しい出発なんだなぁと、この一連の、祖母の死を含む彼女たちのあれこれ全部ひっくるめて、それが一旦終わったことを「祝福」に変換することができたんだろうな。そして、死期がせまったある日、おばあちゃんは、私の母のことを「いい子なのよ、大好き」と施設の職員さんに伝えていたことが「あの関係」を浄化する元になったように思うし、今は、あれが浄化されたんだと嬉しく思える。余談になるが、弟Hは、別れに弱いタイプというか、卒園式/卒業式は我先に号泣、出産に立ち会っても号泣、とにかく感情が揺さぶられるとすぐ涙が溢れるタイプ・・・お葬式の前日、母と「Hは泣くだろとりあえず」と話していたのにも関わらず1ミリの涙も流していなかったことに驚いた(という後日談。)とはいえ、涙を流す、流さないでその別れ(や事柄)に対する向き合い方を測れるものでもないし、いろんな感情があり、その表現もさまざまなので泣いているからといって思い入れがあるとか、泣いてないから悲しんでいないということは一切ないということを付け加えておく。

焼き場に行き、諸々の、というか最後のお別れの儀式がスムーズに執り行われていく。肉体との最後の別れである。私としてはそのあたりになってくると、その儀式に対してとても冷めているように思う。いよいよ焼きますとうとき、AYは、おばあちゃんエレベーター乗るの?上いくの?下?と言っていたことが印象深い。はい、確かに。あの焼き場のお釜みたいなやつ?間口の狭いエレベーターみたいだったから。まぁ、葬儀の間、質問質問、質問ばっかりで、それは初めての経験だから質問もあるだろうが、とにかくよくお話されていました私の息子。
死体を焼いている間70分も、ずーーーーっとおしゃべりをしており、本当に「1回黙ろっか」と声をかけたのは70分のうち一度ではない。ここまでただの私の葬式参列日記となっているが、ここからが本題です。前置き長すぎ♡

質問マンAYにはあらかじめ、死体を焼いて骨になってでてくるのだよということを伝えておいた。骨になっていたらびっくりするし、あの場で「コレナニ!!!」の質問を省くためだった。焼かれた骨を見て、感じることがあったのか、急に彼は表情をかえた。その表情は、いつもの顔から、まじめな顔に、少しびっくりしたような、ちょっと胸をぎゅっとつかまれたような、想像していなかったことが目の前でおきてどうしようという表情。血の気がひいたという感じはなかったけれど、彼の中でとうてい言葉にできない感情、名前のない感情が沸き起こった感じだった。すると急にお坊さんの横にスタスタ歩いていって、「ナンマイダーナンマイダー」と唱えるように合唱し、お坊さんと並んでお経を唱えることになった。おばあちゃんが焼かれて骨になった、焼かれるとこうなるのかという新しい発見は、彼を静かにさせ、自然と故人を弔っているように見えた。「死」を受け入れた瞬間だったのかもしれない。滅多にみられない瞬間を捉えたなぁと思う。それから、お骨を拾い、また葬儀場に戻る。(戻りはしぶしぶ父の車に乗る。HとAYに母、そして私+運転手の父)我々が車に乗ると聞き、父もいやな顔をする。まさに「お互い様」であった。

葬儀場に戻ってからは、急いでお弁当を食べて、帰る準備をして、さぁ帰ろう!となったとき、AYは泣き出す。理由は私の母(彼にとってはおばあちゃん)とバイバイするのが悲しいといっていたが、きっと骨になったおばあちゃんを見たときのあの感情を消化しきれず、完全消化のために泣いたように思えた。もちろん、みんなとバイバイが寂しいという気持ちもあったのは事実だし、自分でもそれで泣いていると言っていたし、そう思っているのだろうが、これは感情の消化方法なんだろうなぁと感心した。初めての経験によって彼の心が動かされて、その動かされた心についていけない、どうしたらいいかわからない、それで「わーーー」って泣いて消化する。それが自然で、動物的で、人間にそなわった本能で涙を流しているのを目の当たりにして、わー、この子すごいな〜って思いました。

かいておきたかったお葬式の話以上。

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