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福田村事件を深々考える

この映画、考えることが多すぎてきっと1日ではまとめられないだろう。(まとめられませんでした)重いんだろーなぁと思っていたけれど、これは見なきゃな、そうだ!どんなことがあっても(それは言い過ぎだけど)観に行かねばと思って行く。吉祥寺アップリンクへ。福田村事件という出来事を知らない人は、きっと多い。こんな事件があったとは知らなかった、こういうことが二度と起きないようにと、うーん、なんかそんなんじゃない。もちろん、二度と起きてはいけない。そら、みんな思うだろう。当時の日本では、起こるべくして起こってしまった事件だといえる。偶然が何個も重なって、不運が不運をよんでこうなっちゃったっていう事件じゃない。

自分が日本人というカテゴリーに属しているからこそ、日本人独特の共同体意識みたいなんを自覚してみる。有色外国人だったり、貧しい人、つまりは日本において、立場の弱い人、あるいは、社会的にみて立派だと言われない人を見下して、誰かより自分が優位な立場にありたいとか、誰かより自分が上である、そういう態度や心を自ら直視する必要がある。その姿勢を正すとか治すとかじゃなく、まず自覚すべきだと思う。
歴史的にみて、江戸時代、ペリー来航〜開国した段階では日本には「人権」とか「尊厳」みたいなものがなかったこともあり、いわゆる不平等条約を結ばされるなど、不平等な扱いを受け、日本人=野蛮な人々として扱われてきた。つまりは、見下される側、弱い立場にあった。人間というのは、弱い立場にいるときこそさらに弱い人をいじめたくなるものらしく、きっとこの時代、それが大きいんだろうなと感じる。(今もかもしれない)やられたことをやりかえすじゃないけど、結局やられた=弱かったので、じゃあ強くなってやられた相手にやり返すより、さらに弱いものを見つけて同じことをやる方が手早く強くなれる みたいな、そんな感じなのかなぁとか思う。映画の中でも瑛太演じる行商御一行リーダーの沼部新助も「俺ら弱いもんはもっと弱いもんから金をしぼりとらなあかんのや」的なことを言っていて、これに関しては、怒りもこみあげるのだが、それを理解した上でそういう商売をしている仕方なさみたいなもんを感じてやるせない思いになる。新助は、殺される前に「日本人やったら殺したらあかん、鮮人(せんじん)やったらええんか」と問う。彼はいわゆる学校教育など受けていない、学のない人物だったが、自分で考える力をもっていたんだなぁと、教育って本当にお勉強だけとは全然違う、自分で考えて、疑うことだったり、自分の中の軸を見出すみたいな作業なんだろーなーと、うまくまとまらないことを思う。新助率いる行商御一行の中には、本を読んで自ら知識を得る人もいて、水平社宣言を読み上げていたり、でもやっぱり、朝鮮人を「にほんじんのが上、せんじんは俺らより下だ」と言い切る者もいたことが印象深い。そこでは特に意見の違いで言い合いになったりはせず、そもそも自分の立場も弱いし、自分らの生活をなんとかまわしていかないといけないので、他者のことで言い合っているひまなどないのか?とも受け取れた。現代で言えば、困っている人いっぱいいるの知ってる、女性の貧困、生活保護受けたいのに受けられない人、老々介護等々、、そら助けたいし考えなあかんけどえも、自分らのことで精一杯、社会問題や政治に興味もってる時間なんてない みたいなところと少し似ている気がした。

群れることによって、「自分たちの共同体を守るため」という大義を掲げていじめを正当化していくのがわかりやすかった。わかりやすすぎた。実話なのに。。自分を守るため!家族を守るため!村を守るため!と主張して、自分たちの共同体という群れの枠からはみ出すした人間をいじめる。そう言うことで、自分たちのいる共同体を盛り上げるし、その共同体に属していることが心地よくなっていく。それがだんだんエスカレートしていく。共同体の一体感や、結束力、精神性を美しいと思わされていく。それは、大人から子どもへと伝染していく。そうやって、今の日本(だけじゃないのか?世界も?)はつくられてきてるんだなーと改めて思う。自分らより弱いものをつくり、いじめることで、自分たちを高め、自分たちはすごいんだ、強いんだと悪質な自己肯定感をつくりあげる。日本は未だかつて「市民革命」みたいなものが起こっていない。お上にたてついて、そのお上の権力を奪ったこともなければ、自分たちの権利を大々的に主張した歴史が少ない(だからといって、今からそれを起こそうといっているのではないが)どちらかというと、やられていやだったことを、いやだー!というのではなく、我慢して、さらに弱い立場の人をみつけて同じこと、ないし、さらにひどいことをやる文化なのか?とかそういうことを考えてしまう。そんな文化、悲しすぎるだろうーー。でも、自分は、絶対にしないって言い切れるかな?と考える。先輩にやられたこと、後輩にやるみたいなそういう小さい世界だけど、そういう現場は今でもあるわけで。でもって、やっぱり、大きいものに巻かれてたい、みんなが言ってるから、お上からの命令だから・・・なんか、そうやっていっておけば、自分の意思を示さずに、大きいものに守られてる気がしない?すんごく楽じゃない?さらには、自分を高められる気がしない?そう、これが正義だ!と勘違いを起こして、みんなで一致団結する。そうすることで、自分を守れる。自分の弱ーーい部分を守ってくれる。それが賢いし、そうするしかないとされてる風潮さえもある。その結果、福田村事件のような悲惨な事件が起きても、団体行動だったということもあり責任の所在をうやむやにしてしまったりして、みんなそこから目を背ける。なんつー悲しい社会なんだと心から嘆きたい。嘆いている。

そんな中でも、「いい人もいれば悪い人もいる。」というセリフの通り、殺戮を止める者もいたし、朝鮮人差別について意義を唱える者もいた。集団が主張する大義に対して「それは間違っている」と反対意見を発するということは、どれだけ勇気のいることか。自分にはそれができるか。集合体に対してだろうが、お上に対してだろうが、自分の権利を主張し、抗う術を知らなければいけない と思う。差別されている人の抗う術もだけれど、差別されてない側の人の中で、差別されている人を見かけた時の抗う術というべきか・・・。

福田村事件のようにあからさまな差別からの無差別殺人事件、これはさすがに現代の世の中に起こりえないでしょうーって簡単に言えなかった。というか、言ってはいけない。こんなのもうありえないよねと言っちゃうことが、歴史から学んでないし、学ぼうとしていない。差別なんてない、と言ってしまうように。まず、自分はどの立ち位置にいてそれを発言しているか考えようと思う。ないと言ってしまえば、問題を見なくてすむし、自分には関係なくなる。自分から切り離してしまうこと=知ろうとしないこと=無知ほど罪なことはないと改めて無知の罪を自覚した。

この映画は、関東大震災後に起こった本当の話、ドキュメンタリー映画であるが、自分ごととして振り返る必要があるんじゃないかと思った。関東大震災から100年、我々はこの事件の事実を直視する必要がある。森監督が参考にしたといわれる本「福田村事件ー関東大震災・知られざる悲劇」(辻野弥生著)もあわせて読みたい。いや、必ず読む。

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