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久々にかくわよ。うつけんスクール2023.8.31 松元ちえ先生

2023年夏、夏が終わると思えない暑さだけれど、夏っぽいことはひとつずつ終わりを迎えている。甲子園も終わり、ってたいして見たいなかったけれど、私が推していた慶応が優勝するという嬉しい出来事があった。推しの理由はもちろん監督の姿勢(お背中ピンの意味ではない)です。自分たちのスポーツが超超優位なところにいながら、そのことを自ら指摘できるってなかなかすごい。言ってみれば、自分が男でありながら、男の生まれながらの特権、優位性みたいなもんを気づいてこれはあかんやろ!と指摘するようなもので、私だったらその優位性にのっかってしまうんじゃないかって思う。気づいてるんだけど、手放せないというか、自分がそういう立場にいる方が間違いなく生きるのが楽だし、それなら気づかないふりして生きていけばいいわよね、ほほほという感じになってしまいそうだ。誰かわかってくれたらうれしい。わかってくれなくても私がわかるからいいよ。でも、できるならその監督のように自分がマジョリティーの立場に属していたとしたら、自分はこの場でマジョリティーに属す人間だということをちゃんと自覚したい、それから、できれば、マイノリティーの側にいる人たちとナチュラルに付き合いたい。そして、できる限り、そのマイノリティーの人たちが孤立しないように、理不尽なことがあるとすればそれに抗える環境をつくっていかねばと思う。すんごい小さいことしかできないんだろうけど、自分がマジョリティーにいる場合、その小さいことをやろうとする勇気はもちやすいはずだと思う。マイノリティーの立場にいたら、そもそも追い詰められた状況にいるので潰されてしまいやすいし、恐怖も大きいと思う。私が社長だとして、いじめられている社員がいたとしたら、社長の私が助けるのに勇気がいるだろうか?いじめっこにやり返されたらどうしようなどという心配はうすいんじゃなかろうか。なんかそんな感じ。

久々にかこうと思った、そう、2023.8.31スーパーブルームンの日。眠かった。でも、うつけんスクール。講師はジャーナリストの松元ちえ先生。主に労働組合の話で、日本国内の話はもちろん、海外の事例なんかもあわせて話してくれた。イギリス在住中、しょっちゅう地下鉄のストがあったのは記憶に新しい(新しい・・?ってもうかれこれ10年か。新しくないやん。)海外の方々を見て思うのは、まず、意見の主張に躊躇がない。わーって言えるし、わーってなれる。自分はというと、頻繁に心では、わーーーってなれる性質だけれど、なかなか友達にも、そのわーーーを伝えない、伝えられないのに、どうして公共の場でさけぶことができようか。といつも思う。彼ら彼女らは、それを難なくやってのけるように見える、見えてしまう。もちろん、勇気を出してそこにいて、そこで発言しているわけだけど。「我々はひるまない」そうだ、あかんと思うこと、言うべきこと、あきらめちゃいけない、わかってる。でも、うずうずとしてしまう。世間の空気を読んでしまう。本当は、その空気に抗っていかなきゃいけないのに。自分の中に芽生えた、ようやく発見できた宝物ていうかな、大切な気持ちをやすりにかけてしまっているそんな気がする。そりゃ心すりきれるよな。あと、、個人が評価されることをどこかで望んでしまって、その評価の弊害になるのではないかと、自分の意見を発することをあきらめがちなんかも。曖昧な言葉を並べて、相手に葛藤や苦悶を与えてしまうような事柄はNGなのだろうか。と、だいぶ話はそれている。こんなことをかくつもりはなかったよ?

松元さんから紹介された、日本の労働組合法、労組法がこんなにいい法律だったとは!いいとこあるじゃねーかよお!と思う一方で、活用されていない現実に悲しくもなる。でもこの法律は今現在もちゃんとそこにいるから、有効活用ができる。希望がわく話だ。さ、きちんと法律読んでみよかな。法律は知ってれば知ってるほどいいと私は思う。法律にもこうかいてあるということを知っていれば、実際の生活の場面でかなり使える。(私個人の経験の話。まじです。)生きてると、理不尽な目にあうことってある。その理不尽の度合もあるけど、その理不尽なことに抗うひとつの手段になる。(と、信じている)法律を知っていても、我々はまだまだ社会に起こりうる理不尽に抗う方法をあまりに知らなさすぎるのではないか。

労働について、改めて考えてみる。お金にならないといわれる、家事労働だったり、育児や介護。これらが「労働」とみなされないことについての議論がとても印象深かった。自分も心のどこかで、給料が支払われない労働を軽視しているところがあるような気がする。軽視しているというか、それをきちんと「労働」という枠組みに入れてあげられてないというか。人(私自身も含む)は気づかずに、お金をものさしにして人を見てしまうところがある。だから、格差が生まれ、そこから差別に発展していくように思える。差別って、自分で差別してるなと意識しながら差別しないよね。知らず知らずのうちに、一方に不利益の生じる区別をしてしまって、それはもう差別してるってことなんだと思う。家で家事や介護、その他の雑務をしている人は、働いていない人ということろになり、いわゆる無職扱いされてしまうのが現実で、我々はそれで「そうか〜そうなんだね〜」と納得してしまってないか。これ、きちんと考えていかないといけないことだよ。と、自分にいう。誰かが無意味な我慢をする社会はもう見たくないんだよなって日々思う。誰か一人が料理して、料理を運んで、みんながそれを問題なく食べて、お茶がない、お箸がない、お皿が足りないと言われ、一人であたふた、料理してる人だけが座れなくて、へとへとで、でも、この状況に抗えないみたいな・・・うーん、この例えはなんかちがうかな。ちがうなぁ。どうだろう。かくことで、思考がまとまっていくとは言い難いんだけど、この自分の中での対話みたいなもんが、いつかわからない未来、ほわっと繋がっていったりする・・・ことがあるので、まとまってなくてもかいておこう。

この講義を聞いて、私は一人の子を育てているのも十分に立派な責任ある労働だと思おう、そう決めてみた。しばしば、子育てはボランティアという言葉を耳にするし、そう思っているが、ボランティアも立派な労働ですという意味で。自分の子が理不尽な目にあったり、不利益な区別をされたときに、どう抗っていくか、(闘う場合もあるだろう)そういうことを、教えてあげられたらいいなと思う。口で教えるんじゃなくて、きっとこれこそ、親の背中を見せるってやつなんじゃないかな。社会の問題に目を向けて、政治でよくないことが起きていれば、文句を言い、微力ながらできることをやろうとすること。無力ではないんだぜって!抗う/闘う を見せてあげないと、そういうことが起きた時、たとえそれが、自分自身に起きてなくても、目にしたとき、見たくないものを見ないように、見せないようにするのはきっと間違ってる。問題があることを知っていたら、少なくとも私は沈黙するということは避けようと誓いたいし、そう教えられたらいいな。(これ、なかなかできないんだけど)この場合の沈黙は、中立な立ち位置をなんとか保とうとしているだけで実際は逃げているんだよな。そもそも、中立な立場なんてとろうとしちゃだめだめ。ただひたすらに白黒はっきりさせるのも違うけど、きっと中立な意見なんて存在しないんじゃないか?ここでまた、あれ?こんなことかくんだっけか?と私の偏りまくった意見が噴出警報である。いつものことやん。

ツイッターを開いたら、相変わらず気持ちが萎える情報があふれていて、あーもう寝よ。
となる。
1つだけいいことがあるとすれば、岩手県知事 達増拓也氏 当確ということくらいだろうか。トリチウムというワードをみるたびにげんなりする。今だけ金だけ自分だけ いつになったらやめれるんだろう。お行儀悪ーーく、にトリチウム海洋放出に反対したいし、反対している。

とりとめのない、文章だけど。自分メモ以上。

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