囲碁6回目、基本をコツコツと

2021年12月12日、6回目の囲碁。
今回は8子局(私の石が8個多いハンデでスタート)合格。

前回の囲碁が終わってからというものの、次の囲碁に取り組むことが少し憂鬱で、囲碁をやるのが怖くなっていた。

その理由は、また自分の嫌な部分を思い知らされるから。やっぱりそうだったんだって、なんだか情けない気持ちになるから。

自分の嫌な部分に目をそらして、逃げたくなるような気持ちになる。

だからってやらない選択肢はないけれど。

だって自分と向き合うと決めたから。
今の自分を打破して成長したいから。
それが、今囲碁をやる私の理由だ。

今日はどんな自分の嫌な部分が明らかになるんだろう。見たくはないけど、見ないと先へ進めないし、どんな私がまた見えるんだろう…。そんな怖いもの見たさみたいな、もやがかったドキドキ感を胸にさっそく石を打ち始めた。

1回目の結果は、負け。

また私の癖があらわになっていた。

なぜそこに置いたのか?
囲碁の先生、人生さん(じんさん)と一緒に一手一手を振り返る。

それが、これ。

同じことばかりして石がとれないから違うところへ置く。
攻めてばかりだから、今度は自分の方も見て守りに入ろう。
どこにおいても一緒じゃん。全部同じパターンに見えるから、ちょっと変えて全然今までとは違うところへ置く。

これ、普段の私の思考そのまんま。

穴があったら入りたいとはこういうことかって、なんか相当恥ずかしかった。

ダメそう、良くわからない、できないから、次。
ずっと同じパターンだから変える。
みたいに、何一つとして長く続くものがない私そのものだった。

じんさんからの教えは「1つのルールを全体に適用する。」だった。

1つのルール?

例えば、子育てでルールを決めているか?

漠然としたルールしか決めていなかった。

自分の気分や、その時の感覚で決めて子どもに毎回言うことが違ったり、統一感がない時もある。

例えば、おやつの時間。
遅くなったら、夜ご飯が入らなくなるからもう食べたらだめだよって。

何時までとか基準を設けてないもんだから、私の感覚的に今日はいい、今日はだめ。今日は特別だからいい。とか。



囲碁のルール(基本)は?

ルール(基本)を守ってやったのか?

・・・やってなかった。

石をとられる焦りや、自分のずっと同じような動きにこれ正解なの?って不安になって、途中から基本を無視して、自分の感覚で今までと全然違う場所に置きだした。


そして2回目、基本をとにかく守ってひたすら打ち続ける。

そしたら、勝った。

そのあと、なんとなく開いたオンライン囲碁でも、不思議とどんどん勝っていった。今まで1回も勝てなかったのに。

ただただ基本を守って、諦めずに最後まで続けてうつだけで、どんどん勝つもんだから、勝つ度にいちいち「ええっ?!」って心の声が漏れてしまい、信じられなかった。


ルールや基本、基準を決めたら、それをちゃんと全体に適用する。

いかに基本が大事なのかを初めて体感した。基本をコツコツとやり続ければ本当に勝てるんだって。

今まで何度も何度も「基本が大事」って習っているのに。自分の思考の癖というのは、そうそうすぐには変わらないんだなということもよくわかった。


勝った時の気持ちは、なんだか「嬉し恥ずかし」な気持ちだった。

なんでそんな曖昧な感情なのかというと、こんなことを思ったから。

「私が勝てたのは、じんさんがうまい具合に置いてくれたから勝たせせてもらえたんだろうな。」って。

じんさんにそういうと、返答は「まったくしてないよ」との事。

そんなことして世の中で役に立つの?って。

じんさんは、全部全力で教えてないことをどんどん複雑になるようにめちゃ必死にうっていると。

じゃあ何をやってるか?

それを聞いた私の気持ちは「それなら勝ってめっちゃ嬉しい!」に変わった。つまり全て私の思い込みだったのだ。


じんさんから言われたこと。

それってこっちから与えてるんじゃなく、私自身が作っている「圧」なんだよって。

自分で相手をこうってきめつけて、自分でそうしてる。

相手は囲碁の先生だから手加減してくれてるんだって。

確認もしてないのに勝手に相手が圧をかけてくるって思って、その圧につぶれていく。自分で。

日常で自ら作り出している圧はあるか?って聞かれて、思い当たることがスラスラ口からでてくる。

夫とのこと。どうせ私を見下してる。いつもなんかいちゃもんばっかりつけられる。その一言一言が、私がサボっているの確認したいのか?とか。

いつも優しくて穏やかで大好きな人のある一言。それって、本当はこういう風に思ってるんじゃないか?とか。

確認をしなければ「意味付け」は自由にできる。

どんな意味付けでも私がすればいいだけ。
その意味付けが自分の望む世界ならそれでいいって。

私のアイデンティティ。私はこういう人間だっていう映画をつくるには、私の場合は私を見下しているっていうのがいるんだと。

見下すためにそうやって聞いてくるでしょ?って自分が意味づけしてるだけ。

これがものの見方なんだとか。

結局全ては私自身が自分で決めて、作っちゃっている私だけの世界。

それを聞いた私は、まるで悲劇のヒロイン気どりのイタイ自分を自覚して、また、穴があったら入りたくなった。

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