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私がフリーランスという生き方を選んだ理由はなんだろう

「なんでフリーランスになったの?」

わたしは9月に開業したばかりなので、こういったことを最近よく聞かれます。

そのたび、「確かに、わたし、なんでフリーランスになったんだろう...」と改めて考えさせられ、自己分析のためにも理由や気持ちを書き残していました。

今日は、そのなかでも「これはわたしなりの理由だな」と思う点を3つ、まとめてみます。

自分の興味過多に従ってあげたい

「好きなことを仕事にする」

これは、フリーランスの代名詞とも言えるほど、よく使われるフレーズですよね。

でも、「好きなことを仕事にしたいのか?」と自分に問うたとき、わたしの答えは「そういうわけじゃないな〜〜」です。

なぜかというと、わたしは好きなことや興味関心がたくさんあるから。

わたしには、好きなことや知りたいこと、やりたいことが、たくさんありすぎる。特に、「好きなこと」をひとつ、突き詰めるのが苦手。

ある時はそのひとつと向き合えているはずが、
気づけば、興味関心があっちゃこっちゃへいってしまう、といった具合に。

そういうことをわたしが最初に自認したのは「趣味」でした。

小学生のころ、周りと波長を合わせようと、努力したのに報われなかったこと。
努力してまでも、好きになろうとしたこと。
でも無理だった。

アイドルやアーティストを追っかけたり、ゲームを熱心にやり込んだり、グッズを集めたり、好きなブランドの洋服や、コスメをそろえたり。そういったことが、わたしの人生のなかにはありません。

言わば、「好きで好きで仕方ない」というような、「盲目的な好き」。
わたしにはここしばらく無いので、うらやましくもあります。

そう、たとえ、自己紹介で「好き」と言っている事柄であっても、一歩身を引くと「ああそうでもないな」なんてことが、よくある。

でもその代わり、なんでも好きになれるし、なんでも興味がある。なんでもやってみたいし、勉強したい。

好奇心旺盛

とでも言えば、救われるかもしれません。
でも、こういう性質は、たいてい悪いほうへ流れてしまうものです。

例えば、「一貫性のある大きな意味を持った組織」に所属すること。
これは、どうもうまくいきません。

なにかへの所属は、わたしにとって、好きなことや趣味と同じようなものです。

意思を固くして所属したくせに、気づいたときには興味関心が別の方向に向かってしまう。いてもたってもいられなくなってしまう。そんなことが何度もありました。

ほんと、つくづく、向いてません。

この性質のことを、わたしは『興味過多』と呼んでいます。

『興味過多を弱みでなく、強みにしてあげたい。自分の興味過多をすくってあげたい。』

そんな想いもあり、わたしは、フリーランスという道を選びました。

ちなみに「すくってあげたい」は、『救う』と『掬う』どちらの意味も込めています。好きがあついうちに、こぼれないうちに、すくってあげたい。

自分の名前で仕事がしたい

時代も急速にかわりつつあり、社員が個人として発信をしている会社もちらほらみかけるようになりました。

しかし、世の中の多くの会社はかなり閉塞的です。

会社という大きなおうちに守られている代わりに、
『個』を主張することは望まれない組織なのではないでしょうか?

また、会社で自分がどれだけ頑張ったとしても、その成果は会社のものになりがちです。(職種にもよりますが)

そしてその会社に所属することで、自分の胸にきらきらのバッヂをつけることができても、のちに問われるのは結局「そこで、なにをしてきたのか」。

一方で、「フリーランス」はどうでしょう。

自分のことは自分で守らなくてはいけない代わりに、『個』として仕事できるのが大きなつよみだと思っています。

そして、結局問われるのが「なにをしてきたのか」であるのならば、所属の苦手なわたしでもなにか成せるかもしれない

さらにわたしは、『個』の主張や発信がすこぶる得意です。今まで続けてきたものとして思い浮かぶのは、そういった発信の数々。

特に、7年続けているTwitterはもはや呼吸。そのくらいに、わたしには欠かせない行為となっています。だから、いまさらやめろと言われても、きっとやめられないし、わたしには『個』として生きるつよみがある。

それに今はじぶんの名前が唯一の看板ではあるものの、これはむしろ、こいずみきょんが「なにをしてきたのか」絶対的に見てもらえるチャンスだと、考えることにしました。

自分の名前で仕事がしたい

これも、わたしがフリーランスを選んだ大きな理由のひとつです。


仕事する意味を考えて、理解していたい

「なんのために働いているのか」

と、自分を問いただしたことはありますか?

でも、よくよく考えれば、
実は、労働って義務です。

労働は、国のためであり、本来なら「なんのため」とか考える隙もないはずです。国を動かすために、わたしたちは働いているはずなんです。

それなのに、
「働き方改革」「ライフワークバランス」「育児休暇」「フレックス」「リモート勤務」…
そんなことが叫ばれている世の中。

なぜでしょう。

「やれと言われてやること」に疑問を感じるようになった
というのが、ひとつの要因ではありませんか?

「やれと言われる」ことのうっとおしさは、多くの人が子ども時代に痛感しているはずです。

そういう時、たいてい、その意味なんて考えもせず「やれと言われたから」やってきたことでしょう。しかし、受動的にやることのほとんどは、自分の考えによってはおこなわれていません。

逆に言ってしまえば、「自ら、能動的にやること」のすべては、自分の考えに基づいている。わたしはそう思っています。

だから、仕事も能動的にやりたい。

その仕事ではじぶんがどのような役割を担っていて、どんな効果を生み出せて、何に、どうやって影響していくのか。

そういうことを考えて、じぶんにいま必要だと思う仕事を、試行錯誤しながら進めていきたい。かならず成長につなげて、納得したい。

ちなみに、わたしにとって最も悲しいのは、仕事が『作業』になってしまうことです。バイトでもなんでも仕事は楽しめる質ですが、そういう作業はやっぱり自己満足のやりがいでしかない。自分でなくてもできるし、その作業自体に意味はなく、虚しいだけ。

だからこれからは、自他共に満足し、じぶんが仕事していることの意味を理解できるような働き方を、フリーランスとしてやっていきたいのです。

つまり

フリーランスとして生きることは、わたしにとって、
自分をいちばん大事にできる手段です。

『選んだ』とかかっこよく言ってしまいましたが、
実際は、消去法の人生です。(ハハハ)

以下は余談ですが、

こういうことを誰かが言うと「わがままじゃん!」「そんなの甘え!」「社会に適応しろ!」という声が、かならず、上がります。

でも、20年生きて、これだけ考えれば、もうあるていど、じぶんのことくらいじぶんがいちばんよくわかっているはずです。

その人の人生は、誰のものでも、ましてやあなたのものでもなく、その人だけの人生じゃないですか。

我、あるがままに生きたって、じょうずに甘やかしたって、問題ないんだぜ。

ブーブー言ってるだけじゃなくて、そういうことちゃんと行動で示せる大人になりたいよね。

(ハッッッッッ!!!!!わたしもう大人では!!!!!!!?!!)


おわり

P.S. 今日はうまいさけのみました。

本日のサムネ
公園

☀︎アオイアサ編集舎☀︎
こいずみきょん


ふつうの暮らしを愛しながら、 東京のすみっこで猫たちと生活してます。 おいしいごはんとお酒が好きで、映画をたくさん観る🎥 年内に登山と釣りがしたい。