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音楽雑感その1 発表会

先日、講師をしている音楽教室の発表会があった。
音楽教室の発表会という行事は、運動会や学芸会同様、緊張感と同時に、出演者を応援し暖かく見守る熱量のようなものが会場全体に漂っていて、日常のなかでたまにポコっと起きる祝祭感がある。頻繫にあるとしんどいけど、たまにあるとスペシャルな思い出と化す、試練と祝福の行事。
そんな発表会で繰り広げられる演奏は、どんなレベル・完成度であれ、毎度心打たれるものがある。
プロの音楽家のはしくれとして日々音楽に向き合っていると、どうしても音楽を聴くときに分析的なフィルターを通してしまう癖があって、楽しんだり感動しながら聴きつつも、どこかで分析したがる自分、評価や比較などの批評的な思考にとらわれている自分がいる。それはよく言えば探求心だし、深い聴き方をするために必要な姿勢ではあるのだが、理性に偏りすぎているとも言える…
さて、話を発表会に戻して、私が発表会での生徒さんたちの演奏を聴くときに心打たれる感じは、ふだん音楽を聴くときとはまた違ったもので、分析フィルターは相変わらずあるが、そのフィルターを突破してじんわりと胸にしみわたる感動のようなものがあって、それはあえてシンプルに言ってみると、「ああ、音楽するってこういうことだった」という気づきだ。有り体に言ってしまえば、初心に戻されるような感じ。
学校や塾と両立しながら、一生懸命練習を重ねてきた小学生、音大受験を目指す高校生、忙しい仕事の合間にコツコツ練習を積み重ねてきた大人の方、退職して新たな趣味として楽器を始めたシニアの方、それぞれの日常がありながら、その傍らに「楽器の練習(=音楽)」があって、発表会という舞台で日々の成果を披露する。緊張して思うように指が動かなかったり、音を間違えたり、いろいろある。もちろんとても上手な子もいて、その努力と才能に、すごいなーと感動もする。一人一人の演奏に、それぞれの思いやストーリーがあると思うし、それは演奏のレベルや完成度といった尺度では測れない、測ることに意味のないものだ。
とかく、何かについて経験と知見を深めていくほど、過去の未熟な自分を恥じたり、否定したくなる。また、現在進行形で、至らない自分にガッカリすることも多々あり。
だが、なぜ音楽をやっているのかという根本のところを置き去りにしては、「その作品の魅力をきちんと引き出す演奏」とか「聴き手を満足させるための演奏」それ自体が目的になってしまう。
小4のとき部活で偶然チェロを初めて、徐々に好きになって、チェロを弾いてるときのなんとも言えない「これしか自分にはない」感覚とか、学校の演奏会で舞台で弾いたあと、客席から満面の笑みで同級生たちが拍手してくれているのをみて「これがしたい」と思ったときの高揚感。その時の演奏そのものは今から思えば下手くそで未熟だったろうけれど、先日の発表会の生徒さんたち同様、輝いていたに違いない。
「未熟だった自分には戻りたくないけれど、その頃の気持ちを忘れたくはないな」と思わせてくれる、そんな発表会の一幕なのでありました。


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