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いとしの渋谷新南口

こんばんなまらステ💚Kyoskéこと厚沢部煮切(あっさぶにるぎり)だべさっ✨

7月21日にJR渋谷駅の新しい新南口がオーペンして、それに伴い前夜にいまの新南口がクローズされることになる。

なるほど新しい新南口は理想的だ。

東側の渋谷ストリーム、西側の渋谷サクラステージと繋がっていて、渋谷ストリームを介して東急東横線、東京メトロ副都心線にも乗り換えられる。

ここは基本的に東急の縄張りということになるけれど、うまく共闘体制をつくれたということになる。

一方で、もとの新南口は遠く離れたところにあり、このあたりの地価向上には繋がったのかもしれないけど、少なくても「渋谷駅」ではなかった。

ただし副都心線、東横線のC2出口が開設されたことで、晴れた日なら渋谷駅の人込みのなかを歩くより乗り換えはしやすく穴場ではあった。

大学生の頃は新南口周辺の渋谷三丁目に割と用があって、当時は東横線に乗っていたから渋谷駅の混雑を避けるべく代官山で降りて歩いたりもしていた。

歴史を調べると戦前の東横線には渋谷と代官山の間に並木橋という駅があり、青山学院・実践女子・国学院といった各大学には渋谷よりこちらの方が便利だったという。

渋谷と並木橋の中間あたりが新南口ということになるけども、東横線が高架線だった頃は渋谷のホームが満杯になって、それこそ並木橋のあたりで入線待ちをしていた。

並木橋駅のホームだったと思われる跡はくっきり残ってたし、今調べてみてもそれは当たっていたと思う。

祖母と中央快速線に乗る度に戦前の万世橋駅(神田―御茶ノ水間、長らく交通博物館として使われ、それを大宮に鉄道博物館として移転させたあとにJR東日本のオフィスビル・商業施設になった)の話をしてくれたことや、並木橋と比較しても露骨に残っている京急の平沼駅跡(横浜―戸部間)を見て育ったから、勘が身に付いたといえる。

並木橋が復活してくれたら渋谷三丁目に行きやすくなるのにな、なんて思いながら、現実は真逆で東横線は地下に潜ってしまった。

ただし、地下前述のC2出口ができたことで東横線からこのエリアへは従前よりずっと行きやすくはなった。

さて、歴史を辿ると1885年に現在の山手線・埼京線にあたる品川―赤羽間の鉄道ができたとき、渋谷のホームは旧埼京線・湘南新宿ラインホームのところに置かれた。

といってもホームの北、渋谷の街側に駅舎が置かれ、新南口のあたりから乗ることはできなかった。

1920年に山手線を複々線化して旅客線と貨物線を分離するにあたり、当初のホームは貨物駅となり、宮益坂と道玄坂に囲まれた今の位置に旅客ホームを置いた。

旅客線が今の山手線、貨物線が今の埼京線・湘南新宿ラインね。

この間1907年に現在の東急田園都市線の前身である玉電、1911年に都電の前身である東京市電が渋谷に乗り入れてくるけれど、渋谷が総合ターミナルになっていくのはやはり1920年の山手線ホーム移設が大きい。

現在の東横線、京王井の頭線、東京メトロ銀座線が続々と集まってくるのだから。

また鉄道が来るまでは円山町が栄えていたけれど、渋谷駅が便利になるにつれて街が東に移動していった。

戦後は都電と玉電が廃止され、代わりに田園都市線と半蔵門線ができた1970年代以降、しばらく路線に変化はなかった。

武蔵野線ができて貨物列車は基本的に山手貨物線を通らなくなると、山手線の快速線としての旅客化が模索され(新幹線転用論もあった)はじめた。

東北新幹線の赤羽―大宮間は新宿発着の上越新幹線との複々線として計画されたけど、沿線住民の反対運動の結果として上越新幹線も当面は東北新幹線と東京―大宮間の複線を共用することになり、赤羽―大宮間の上越新幹線スペースを使った通勤新線が建設されることになった。

東北新幹線に遅れること3年、通勤新線は池袋―赤羽間の赤羽線、川越線の大宮―川越間とセットの埼京線として1985年に池袋―川越間で開業、翌年に山手貨物線を使って新宿まで運行区間を延長する。

国鉄民営化を挟み、そこから10年後の1996年にやっと恵比寿まで運行区間を延長して渋谷に埼京線が停まるようになった。

新宿も渋谷も貨物駅スペースを活用して山手線より南にズレたところにホームを置いたのだけど、それでも新宿は半分程度しかズレておらずそこまでの苦情はなかった。

むしろ埼京線ホームに合わせて甲州街道の南側に新南口を開設したことで、新宿の街が拡大した。

JR東日本もそーだけど、新南口付近に土地を持っていた小田急もこれをチャンスと捉えて、サザンテラスや商業施設、ホテルを建てていった。

JR東日本と小田急は新南口周辺の開発については息をぴったり合わせているという感じ。

現在はこの連携を新宿に集まる京王、東京メトロ、東京都交通局、西武に拡大して、新宿駅全体をグランドターミナルというかたちで協力し合って再構築している。

これと比較すると渋谷はなんだか残念な感じがする。

まず、埼京線ホームは山手線ホームとはまったく重ならない位置に置かれ、新南口もとんでもなく遠くに置かれた。

それでも山手ホームの南端と埼京線ホームの北端の間に通路があればもう少し乗り換えはしやすかったのに、そうもされず通路はそれぞれの中央から延びていった。

新南口には一応JR東日本のホテルやカフェは置かれ、周りも多少コンビニやカフェくらいはできたけれど、ほぼ開発はされていない。

まあ村田製作所の東京支社やパチンコメーカーの三共は新南口に合わせてオフィスを構えているけれども。

並走する東急もこれをガン無視していて、新宿における小田急とは対照的に新南口周辺になんの投資もしなかった。地下化でそれどころじゃなかったのかもしれないけど。

新南口への不満はもうひとつあって、線路の東側の渋谷三丁目にしか行くことができず、西側の桜丘町への出入口はできなかった。

そちらはそちらで専門学校が多かったり、少し行けば代官山の方にも出られたのに。

新南口ができた当時、東横線が地下化して副都心線と繋がるなんて話はまだ決まっていなかったはず。

将来的に東横線の地下化で空いたスペースに埼京線ホームを移すから、暫定措置としてあえて新南口を便利にしない、なんていうことは考えにくい。

東急との連携がなかったのも悲しいけど、JR単体としてもどーしてこんなに残念なことをしてしまったんだろう。

新しい新南口から旧新南口までデッキを造るような話もないから、新南口のホテルも閉鎖だろうか。

ただ、東京全体のホテル不足を思えば、むしろ駅スペースを使って増床することも考えられる。

飯田橋の旧貨物駅(正式には飯田町)にあるJR東日本のホテルだって、飯田橋のホームが遠くなってもバリバリ残ってるしさ。

新南口はとても残念ではあったけれど、渋谷三丁目を略した「渋三」というエリア名は思いのほか定着して、それは新南口の存在無くして語れないはず。

東急が渋谷ストリームや渋谷ブリッジを造ったのも「渋三」を取り込みたかったから。東急は渋谷と代官山の間に渋谷と原宿の間のような回遊性を持たせようとしているのだと思う。

東急が並木橋駅を廃止して以降放置されていたエリアが、JRによって盛り上がりを見せて、それを東急が取り込んだというところ。

新南口があった28年間は決して無駄じゃなかったと信じたい。

それじゃあバイバイなまらステ💚厚沢部煮切でしたっ✨

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