横浜家系ラーメンの通史を考える
はじめに
こんばんナマステ❤️Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ✨
先月、家系総本山吉村家がオーペン50周年を迎えたということは横浜家系ラーメンそのものが50周年を迎えたということでもある。
そこで50年の通史を書いてみたいと思っている。
通史を考えるうえで大切なことは流れとターニングポイント。そしてそこに至る因果関係。
これを踏まえて50年間を以下の5つの時期に区分してみた。
黎明期 1974~1985年
過渡期 1986~1998年
拡散期 1999~2009年
混沌期 2010~2019年
爛熟期 2020年~
わかりやすく年で区切ってみたけど、ターニングポイントといえるものはその前後から発生していることも多いので、あくまで目安と思ってほしい。
んじゃ早速書いていくよ🌟
黎明期 1974~1985年
吉村家創業者吉村実氏は1948年6月、山形県生まれだが育ちは横浜市だという。
ラーメン店主を志す前は長距離トラックドライヴァーや左官職人をしていたといい、トラックドライヴァーのとき九州で食べた豚骨ラーメンに感銘を受け、関東の醤油ラーメンとのフュージョンを思いつく
1970年前後の話であり、札幌ラーメンブーム真っ只中。博多ラーメンが全国的にブームになるのは20年くらい後の話なので、先見の明があったことになる。
ラーメンを勉強するために、東京平和島の京浜トラックターミナルにあったラーショことラーメンショップの礎である椿食堂という屋台で修業を始める。現在のGOOD MORNINGラーメンショップね。
トラックであちらこちら走っているなか、ラーショこそ自分のイメージにある程度近いと思ったのかもしれない。
修業は半年間というので1973~1974年のどこかと考えられ、このとき吉村氏にとってはショッキングなことが起きる。
椿食堂は京浜トラックターミナルに近い蒲田の酒井製麺を使っていたけれど、自家製麺に切り替える。
ラーメンショップのフランチャイズチェーンを拡げていくなかでは麺もインハウスにした方が実入りが増えるからね。
フランチャイズチェーンを管理する有限会社椿食堂管理が1974年に設立されていることからしても、組織化へ向かう過渡期だったのだろう。
それを横目で見てた25歳頃の吉村氏は金儲けのための不義理をしやがって、と思った。
ラーメンの作り方や店舗運営を学んだ吉村青年は26歳にして1974年9月、新杉田の産業道路沿いに吉村家をオーペンさせる。
このとき酒井製麺に声をかけ、ここから今に至るまでの二人三脚が始まる。
開業当初はラーショ同然の味だったともいわれ、そこから家系ラーメンと呼べるものを作り上げるには紆余曲折があったのだろうし、それは酒井製麺との共同作業でもあった。
自身がトラックドライヴァーだったからこそ、トラックドライヴァーの集まりやすい立地を選び、早朝から営業した。
いつから繁盛店になったのかは記録がないけれど、吉村氏の元からの知人だったという荘司敏晴氏があまりに忙しいので手伝ってくれ、と言われて吉村家に入ったのが1980年だというから1970年代後半には繁盛店だったのではないかな。
荘司氏は1982年に独立して吉村家と同じ磯子区の氷取沢町にがんこ亭を立ち上げる。
記録にある限りは吉村家最初の独立店であり、まだ鶏油を別に取らない鶏豚骨醤油といったラーメンを出し続けていた。
残念ながら2020年に閉店してしまい、ラーショ以上、家系未満と呼べるその当時の吉村家の味を追憶することはもうできない。
1984年には吉村家にいた長谷川氏が横須賀の北久里浜に長谷川家を立ち上げる。
こちらはがんこ亭よりは家系のクラシックと呼ばれる本牧家や六角家に近く、もちろん長谷川家自身が独立後に本家に近付けていった可能性はあるにしても、1980年代初頭というのが家系ラーメンのかたちがようやくできた時期なのではないかと考えられる。店名にしたってそうだよね。
長谷川家は2018年初頭に閉店、すぐに同じ場所で後継店ができるも2020年で閉店してしまう。
ただし同じ北久里浜でかつて長谷川氏から手ほどきを受けたという三和という店がまだ現存しているのが唯一の希望。
長谷川家は自身を豚骨ラーメン店と定義づけていた。まだ家系ラーメンなんて概念が存在しない時代の話。
長谷川家が横須賀の増田製麺を使ったのはやはり増田製麺を使っていたがんこ亭を見ていたからなのだろうか。
これ以降横須賀方面の家系ラーメンは系譜に拘わらず増田製麺を使ったものが多く、横須賀家系と呼べるジャンルがあるようにも思える。
キリスト教史でいうところのローマ帝国の外側で古くから動いていた東方諸教会のようなロマンが横須賀にはあるよね。
少しずつ家系ラーメンの萌芽ができ始めるものの、この時代はまだまだ吉村家というひとつの店の物語でしかなかった。
過渡期 1986~1998年
1986年を最初のターニングポイントにしたのは、吉村家が最初の支店として本牧間門に本牧家を出したこと。
重要なのは吉村家が店主の姓なのに対して、本牧家は地名だということ。支店だからだよね。ここが先に独立した長谷川家との違い。
本牧家の店主を任せたのは吉村氏の片腕で、今の家系ラーメンの味を創り上げたという説もある神藤隆氏。
洋食出身ということで料理の基礎もあり、吉村氏にとっては頼りになる存在だったのだろう。
しかしそういう人は往々にして反乱分子になる。
吉村氏と神藤氏は徐々に味を巡って争うようになり、1988年に多くの従業員を引き連れて六角橋に六角家を立ち上げる。
一時閉店になった本牧家は、残った従業員の中から松村春男氏が指名され2代目店主に。
ここに御三家と呼ばれる吉村家・本牧家・六角家の鼎立時代が始まるも、松村氏率いる本牧家は約10年間は吉村家とは良好な関係を維持し続ける。
六角家は支店やのれん分けを積極的に行ない、本牧家も積極的ではないにしても弟子は取っていった。
六角家は分裂気質なのかさらに横濱家、介一家、近藤家といった分派ができていくし、たかさご家も傍系といえる。
これに対して吉村家からは次々と出身者が店を立ち上げていくも、吉村家自身はグループ形成に興味をあまり示さず、あれほど神藤氏と方針を争った本牧家ですら松村氏に任せた後はあまり介入もしなかった。
1994年に新横浜ラーメン博物館が立ち上がると、近隣の人気店だったこともあり六角家が横浜代表として出店することになり、これを機に家系ラーメンの存在が全国的に知れ渡ることになる。
吉村氏はこのことを強くやっかんだというけれど、吉村家の存在自体が六角家の新横浜ラーメン博物館出店によってフィーチャーされることにもなる。
ただしこの時点で家系ラーメンという言葉が一般的になっていたわけではなく、六角家は地元横浜の人気店という触れ込みだった。
インターネットの黎明期であり、どこからともなく家系ラーメンという呼び名が出てきたものと思われるけれど、今のように家系ラーメンという概念が当たり前に存在する時代ではなかった。
また吉村家や六角家の名が知れ渡るなかで、吉村家とは系譜が繋がっていない店も出始めた。
1992年に吉村家と比較的近い磯子にできた壱六家、同年片倉町にできたとんぱた亭、1994年に東京世田谷で開店した百麺、1996年に日吉で開店したらすたといった店が挙げられる。
このうちとんぱた亭はラーショ系譜のさつまっ子出身であり、同じラーショ出身の吉村家を参考にしたのだろうか。
1988年に茨城牛久から始まった山岡家、1995年に仙台国分町で開店した仙台っ子も家系ラーメンをある程度意識したものになり、山岡家はその後進出した北海道、仙台っ子はその名の通り仙台で大きく支持を得て今に至る。
こうした吉村家とは無関係なインスパイア店の登場も家系ラーメンというジャンルを形成する大きな一因になった。
拡散期 1999~2009年
吉村家と本牧家の双方が区画整理の為移転を余儀なくされることになり、下永谷の移転先を巡って対立する。
結果として本牧家が入居するが、吉村家とは絶縁する。
飼い犬に手を嚙まれたと感じた吉村氏は、はじめて公認した弟子とともにグループを形成することを決意する。
1999年9月、吉村家は新杉田の創業店舗を閉めて横浜駅西口に移転、この際旧店舗の斜め向かいにもテナントを確保しており、津村進・石川聡両氏を指名し杉田家をオーペンさせる。
これが直系1号店となり、以後直系店を公認して組織を固めていく。
1999年10月、吉村家と本牧家は新店舗を同日にオーペン。さらに2000年12月には直系2号店として本牧家のすぐ近くに環2家を立ち上げる。これは本牧家への嫌がらせといわれる。
環2家には当初杉田家共同店主の石川氏を充て、以後杉田家は津村氏の単独運営になる。
しかし石川氏はすぐ更迭され、吉村家から鶴巻孝平氏が送られる。
この2店は吉村氏が政策的につくった店だけれど、以後2001年に富山県魚津市で開店したはじめ家を皮切りに、王道家、まつり家、横横家、高松家、上越家といった修行生によるのれん分け店も直系と呼ばれるようになった。
また、直系の中でも最初の4店である杉田家の津村氏、環2家の鶴巻氏、はじめ家の小沢肇氏、王道家の清水裕正氏は家系四天王と呼ばれた。
この時期にはもう家系ラーメンの概念が定着しているどころか、吉村家自身が好んで使っていたのだ。
吉村家は店名としては商標登録を取ることができず、2005年に“家系”総本山吉村家として登録した。
この時期には様々な店の出身店が入り乱れており、また壱六家系の中からセントラルキッチンでつくったスープを温めるだけの店が出始め、家系ラーメンの店が増えてきた。
吉村家はそうやって拡がっていくジャンルを認め、自らをそこに組み入れる決断したということになる。
混沌期 2010~2019年
2010年で時代を区切った理由は、2008年に創業した壱六家出身の町田商店が、この年からセントラルキッチンを始め、先達を上回る勢いで全国に広まっていったこと。
自社のみならず、壱角家や魂心家などの他チェーンにもスープを回し、日本中どこへ行っても家系ラーメンの看板を見り、シンガプーラを皮切りに海外にも進出した。
この勢いは止まることを知らず、2018年には町田商店を運営する株式会社ギフト(現ギフトホールディングス)は東証マザーズに上場を果たす。
町田商店ほどではないけれども、セントラルキッチンの家系チェーンも増えていき、それらは資本系と呼ばれることになる。
またたかさご家出身で東京新中野に本店を構える武蔵家が、比較的簡易的な作り方で安さとライス食べ放題を武器に東京都内を中心に店舗をどんどん増やしていく。
こうした新興勢力の登場に対して本流のなかでも動きが出る。
2011年、直系店かつ家系四天王だった千葉県柏の王道家が酒井製麺を棄て自家製麺を始めることに対して、40年弱前の原体験が蘇った吉村氏はそれを許さず破門。
これを機に王道家は弟子を取ったり、他店をプロデュースしていき、グループを拡大していく。
直系店を積極的に増やさないことに苛立っていた吉村家の従業員が次々と王道家を頼って移籍していった。
六角橋においては六角家の周りに吉村家直系の末廣家と吉村家から王道家グループへ移籍したとらきち家が林立する三つ巴状態にもなった。
2015年には環2家店主鶴巻氏に吉村氏から店舗買取を打診され、鶴巻氏は話に乗るものの融資が下りず破断。更迭された鶴巻氏は弟弟子の王道家清水氏を頼り、王道家グループの一員として横浜王道を立ち上げる。
環2家の後任店主を打診した森山光氏にも断られた後、吉村氏は川崎を中心にラーメン店を展開していた玉グループに環2家を売却。
玉グループ傘下で環2家は再開、ただし直系店ではなくなった。
また、2017年には神藤氏の体調悪化で六角家本店が閉店する。
ひとつの時代の終わりを感じさせるものだけれど、弟がやっている戸塚店が看板を守っている。
なお神藤氏は2020年に帰らぬ人となった。
町田商店を中心にした資本系、新中野武蔵家、王道家といった勢力が勃興し、吉村家は総本山としての威厳は保ち続けるも成熟期へ、そして六角家はまだまだ頑張っている弟子は全国にいるものの衰退したというのが2010年代の家系シーンであろう。
爛熟期 2020年~
2020年以降はなんといってもCOVID-19によるパンデミックで飲食店が苦境に陥ったことを抜きにして語れない。
ただ、そんななかでも2010年代に勢力を拡大した町田商店、新中野武蔵家、王道家はいずれも強い、というかさらに勢力を拡大した感がある。
新中野武蔵家系譜からは2018年創業であるものの輝道家、三浦家、麺家たいせい、麺家龍~Ryo~、裏武蔵家、濱野家、といったこれまでにない個性的な店が出始め、継子であるけれど中華資本の勢いを味方につけた大輝家・野中家も流れとしてはここに入るだろうか。
王道家はyoutubeを始めて、これによって家系ラーメンを新たに食べ始めた人も増えた。
また、SNSを使って家系同士、あるいは他ジャンルのラーメンや他業種と家系ラーメンのコラボも増えていった。
いつしか家系ブームと呼ばれ始め、他ジャンルのラーメン店の家系ラーメン参入も相次ぐ。
革新家TOKYO(ソラノイロ)、がんくろ(せたが屋)、こいけのいえけい(ラーメン小池)、前原軒・登戸家(つじ田・田中商店)、嚆矢(銀座篝)、MEN-EIJI EAK(MEN-EIJI)、青森野呂家(青森大勝軒)、人類みな家族(人類みな麺類)、勝星家(福たけ)、イエケイノセカイ(キラメキノトリ)、宮元製麺(煮干しつけ麺宮元)、薩摩家(島田製麺食堂)、千代作(でぶちゃん)などなど。まだまだあるんじゃないかな。
このなかで革新家TOKYOは飛粋、MEN-EIJI EAKと青森野呂家は王道家とのコラボだし、千代作は昔閉店した六角家系譜の店のレシピ継承による再現といったかたちで、既存の家系ラーメンの協力も見られる。
ただしこのなかでいくつかは閉店している。家系ラーメンをメインとは考えていないってことなんだよね。
さらにいえばホリエモンこと堀江貴文氏が堀江家、幻冬舎の名物編集者箕輪厚介氏が箕輪家をひらくといった飲食業ではないところからの参入も見られる。堀江家は工場からスープを仕入れる形式なのに対して、箕輪家はガチで炊いている差も面白いところ。
こうしたなかでネオ家系という言葉も出てきた。
統一した定義があるわけでもないけれど、よく名前が挙がるのは飛粋、濱野家、麺家たいせい、麺家龍~Ryo~などだろうか。
既存の家系ラーメンのフォーマットに囚われないスタイリッシュな作り、というところが共通点かな。
スタイリッシュであるかは兎も角、箕輪家は豚を使わない鶏家系にもチャレンジ、さらに革新家TOKYOはヴィーガンもやっている。家系ラーメンの概念はどんどん広がってきている。
一方で1980~1990年代創業の老舗は代替わりできていない限り、終わりが近い。
御三家の一角である本牧家は店主高齢のため2023年に閉店、横須賀の支店は残っているし、愛弟子たちの店もあるけれど、ぽっかり空白ができてしまった。
一方で新横浜ラーメン博物館では神藤氏から生前指名を受けた蔵前家と戸塚店を中心に神藤氏の愛弟子たちが協力し、六角家の新たな本店となるべく六角家1994+が立ち上がった。
本牧家にもこのような動きがあればいいんだけど。
新陳代謝が激しいのはいいことだけど、数々の名店が消えていく寂しさはあるよね。
家系ラーメンのこうした勢いは今後も続くのだろうか。
横浜や東京では飽和状態に入ってきているといえなくもないし、原材料の高騰や不足も深刻。また、ちゃんと作れば手間暇のかかるものだけに人手不足も深刻。
プロダクトサイクルで見れば、成長期がずーっと続いている状況だけども、そろそろピークを迎えているのではないか、という気もしないでもない。
いつまで坂の上の雲を追っていけるのかなぁ。
おわりに
50年の歴史を俯瞰してみると、単なる個人店からご当地ラーメン、そしてひとつのジャンルになり、そして今はそのジャンルのなかでの多様性が乱立しているということがわかる。
そしてこの歴史には冬の時代というものがない。
店舗や系譜によっては衰退してしまったところもあるけど、家系ラーメン全体で見たらどこまでも拡大し続けているとんでもないコンテンツだよ。
だから家系ラーメンそのものは躍動してても、歴史としては躍動感がなくのっぺりしてる感があったかなぁって。
だってそれ以上書きようがないもん。
とりあえず家系ラーメンの全体の流れは示せたはずなのでよしとしよう。
それじゃあバイバイナマステ❤️暑寒煮切でしたっ✨