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記憶の欠片(幼少期のエピソード)

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特に山もオチもない日常の一コマが、なぜか鮮明に記憶されている。 なぜそんなどうでも良い瞬間の記憶が、そのほか多くのビッグイベントの記憶よりも鮮明に焼き付いているのか。 あの日あの…
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#幼少期

上海ボーリングストーリー(ジュリア)

幼少期は上海に住んでいた。 そのころの記憶なんだけど 、 当時の上海はまだ混沌としていて色々な情報が錯そうしていたし、 アメリカをはじめ西洋の文化はまだまだ見る事が少なかった。 小学校に上がる前の私にも、なんとなくそれが解かっていて、 だからといって、何か特別に思う事もなかったんだけどね。 その頃、私のおじいちゃんは出版社に勤めていた。 多分その関係でなんだろうけど、 当時上海ではすごくレアで珍しかった「アメコミ」を入手してきた。 おじいちゃんはすごいもの

殴る友達(あきし)

最近ね、占いを受けた事があって、 その時に過去の自分を振り返るってのをやったんです。 過去を振り返るってあまりしてこなかったから、 良い機会かなと思って。それで思い出したんだけど、 幼少期から小6くらいまでの間、 僕のことを殴ってくる友達がいたんです。 もう、ほんとに意味もなく。意味がわからないんですよ。
 何もしていないのに急に手をあげて叩く。 何か言うわけでもなく、ただ叩く。 でも痛いとか、悲しいとか、そういう記憶はないんですよね。 記憶に残っているのは、悲しそうなそ

エプロンとカンガルー(あきし)

小学生の頃、近所の河原を散歩していました。 地元熊本ですからね、田舎なんですよ 基本的に人なんて歩いていない でも、その日河川敷をあるいていると犬の散歩しているみたいな人がいたんです。 「あーめずらしいなー」と思いながらも、 じっと見ているのも気まずいので目をそらしました。 それで、ちょうどすれ違う時に、 もう一回散歩しているおじさんの方を見たんです。 ぎょっとしました。 犬の散歩だと思ったそれは、犬ではなく、カンガルーだったんです。 え、嘘だろ そう思って二度見し

優しい手(海を越えるアサギマダラさん)

小学校に入る前だから、5歳か6歳の頃だと思います。 当時の私は体が弱くて、風邪をひくといつも高熱を出して寝込む程重くなっていました。 頻繁に熱を出す私に、両親は大変だったんじゃないかな。 私が熱をだすと、いつもお母さんが看病をしてくれていた。 でも、印象深かったのはお父さんの話。 お父さんは仕事から帰ると、真っ先に私の部屋に来て、 ただいまも言わずに、「辛かったね」と優しく言いながら、ぎゅーっと強く抱きしめてくれる。 そして、ゆっくりゆっくり、上から下へゆっくりと、何度も

孤高の上海ハニー(ジュリア)

3歳か4歳の頃 おじいちゃんとよく散歩に行っていた 当時中国に住んでいたのだけど、 当時の中国の道路事情は未開発で、舗装されていないとか、 突然穴が開いているとかがざらだった。 おじいちゃんは私が転ばないようにと、 いつも手を引いて誘導してくれていた。 その日もいつものようにおじいちゃんと散歩に行ったのだけど、 なぜか私は手を引っ張られて誘導される事が許せなかった。 「私より先を歩かないで!!」 そう叫びながら、おじいちゃんの手を振り払い地団太を踏んだ。 昨日ま

家路イノベーション(おかず)

たぶん小1くらいだったと思う。 当時習い事をしていて、 今思えば家からすぐ近くだったんだけど、 その道のりは7歳の私には果てしなく感じられた。 習い事は夕方には終わるんだけど、 夏場なら明るいその時間も、冬になると もう薄暗く、 家路を覆う黒い影が、私の心にも影を落とすように感じた。 暗闇は危険だ。 だって、悪い奴が出て来るのってだいたい暗がり。 今風に言えば、悪そうな奴はだいたい暗がり♪ってなるのかな。 今では冗談交じりに話せるけど、当時の私には死活問題だった。 暗闇

”てんし”のくれた贈り物(ふらっとさん)

たまごっちブームが終わり、「てんしっち」が流行っていた頃の話。 6歳くらいの頃、祖父と一緒にお店に行った。 それがデパートのおもちゃコーナーだったのか、 高速道路のサービスエリアだったのかは定かじゃないけど、 6歳の私は祖父に手を引かれて歩いていた。 おもちゃ売り場に差し掛かった時、 私の目はある商品にくぎ付けになった。 それは、「てんしっち」をモチーフにした腕時計。 「てんしっち」っていうのは、 空前のたまごっちブームが終わりに差し掛かった頃 二番煎じの商品が大量に市

バトル オブ 雲梯(サムヒデ)

年中か年長の頃、幼稚園で雲梯ブームがあったんですよ。 休み時間になると、男子全員雲梯集合!みたいな。 それで、何して遊んでたかっていうと、 ただ雲梯を渡るわけじゃなくて、バトルしてました。 最初に、雲梯(ウンテイ)の右端と左端のスタート地点に対戦する二人がスタンバイするんですよ。 それで、ヨーイドンで2人が同時にスタートして、 早い遅いはあるけど、だいたい真ん中位で二人がかち合うんです。 そしたらバトルスタート! お互いが相手を雲梯から落とすために、 足で相手を蟹挟みして

和室にまつわるナイトメア(FUJI氏)

「和室」 それは家の中にあるのに、なぜか別の空気が流れているように思えた。 幼少期、僕の実家には和室があった。 高度経済成長期がを経て、急激な核家族が進んだ日本では、 旧来の日本家屋は町から姿を消し、 大手ハウスメーカーの建てた家が軒を連ねるようになる。 それに伴い、旧来の日本家屋は「和室」の名を借りて、 洋風建築の一室に押し込めらる事となる。 そして当然の流れとして、洋風建築の一室としての「和室」は 祖父母のスペースにあてがわれる事が多くなる。 僕の家も、そんな日本の

冬の日(巨万の富男)

小学生1年か、それ以前、 多分6歳か7歳の頃 1月くらいの事だったと思う。 自宅の居間でこたつに肩まで入ってごろごろしていた。 なぜか居間には自分1人しかいなくて、 何をするでもなく、寝るでもなく、 ふと窓の外を見ると雪が降っている すでに20センチくらい雪が積もっていて、 そこにさらに雪が降っている。 何の音もしていなくて、 キッチンの冷蔵庫が低い音でブーンと鳴っていた。 その時僕は何の感情も抱かずに、 こたつでごろごろしながら、ずっと雪を眺めていた。 この時の

呼吸を止めて一秒あなた真剣な目をしたから(リコドットコモさん)

5,6歳の頃、いつも路地で遊んでいたのだけど、 他にも子供たちの遊びスポットがあった。 それは、家の道を挟んで向かいにある材木置き場。 建物を解体した木材を、一時的に保管しておくのに使われていた 更地みたいなのがあった。 子供たちからすれば格好の遊び場になるのは当然で、 イツメンが集まり材木置き場で遊びだした。 積まれた材木によじ登ったり、棒を振り回したり。 その木材の中には、釘が刺さったままのものも普通にあって、 私は遊んでいたはずみでその釘に背中を強打した。 息が止

石焼きいも(リコドットコモさん)

小学校に入る前だから、5歳か6歳の頃だったかな~ 私の家の前には車があまり通らない路地が続いていて、 近所の友達は毎日この路地に集まって遊んでいた。 誰がどこの家かもわからないくらい、 いろんな子が集まって、毎日遊んでいて、 ほんといろんな遊びをしてた。 中でも憶えているのは、石焼きいも屋さん。 何処から持ってきたのかわからないんだけど、 乗らなくなった三輪車を誰かが持ってきて、 それをサドルが下になるように逆さに地面に置くの。 そしたら、前輪のタイヤホイールの中に石を

ペイズリー柄の夢(ソンバサウナさん)

小学校に入る前だから、4歳か5歳の事だと思います。 そのころ私は、まだお母さんと一緒に寝ていて、 不安に思うような事も特になかったと思う。 なのに、この時期繰り返し見る怖い夢があった。 その夢は、ペイズリー柄の薄暗い空間に、 私とキティちゃんだけがいるという夢。 私とキティちゃん以外誰もいない。 誰もいないだけじゃなくて、他は何もない。 ただそこにいるだけ。 無表情で黒く光るキティちゃんの目が、 私の心を見透かしているように感じた。 この夢を繰り返し何度も見た

坂の下に見えたあの町(じゅん@あさらじお)

小4くらいだったと思う。 当時サッカーブームで、遊びと言ったらサッカーか、 サッカーボールを使う遊びばかりやっていた。 Jリーグ開幕に端を発した大波は、 西の端、長崎にまで押し寄せていたんだ。 長崎は坂の街だなんて言われているけど、 小学4のこの頃はそれを意識した事はなかった。 坂があるのが普通だと思っていたし、 自分の住んでいる地域と他の地域を比べるほど、 よその地域に詳しくもなかった。 だから、普通だったら斜面でボール遊びをする事は無いだろうけど、 僕たちは、いつも