【テレビ感想記】谷川俊太郎/ぼくはしんだ じぶんでしんだ|不在という存在

タイトルからして興味深かった。Eテレ「ぼくはしんだじぶんでしんだ 谷川俊太郎と死の絵本」。

ぼくが、しんだ理由はわからない。

ぼくの顔は描かれないかと思ったけど、描かれたな。でも違和感はなかった。瞳の静謐さが印象的だった。イラストレーターの合田さんは色の人なんだなあと思った。すべて手描き。コンピューターを使わず。すばらしい。

ぼくがじぶんでしんだ理由は書かれないと思ったけど、書かれなかったな。
わたしはどんなことにも理由や動機を知りたがってしまうけど、しまうから、理由なんてない、と言われると果てしないきもちになってしまう。
理由は自分の内にないだけで。きっとある。
ないと思い込んでいるだけで。きっとある。
そこに、想いを馳せるのが、この本の役割だ。

優しさとは、想像力。

想像を働かせるということは、優しさそのものだ。
その人のことを想って、想って、選んだことば、とった行動が、その人にとっては優しいと感じられるものではなくても。想像を働かせて、巡らせて、こうだったらあの人はどうだろう、こうじゃなかったらあの人はどうだろうと、その人のことを考えること自体が、根本的な優しさにつながっていく。
想像することと、正解を推理することは違う。かけ離れている。その人にとっての正解をピタリとなんて当てる必要はない。ただ、ただ、想いを馳せることができれば。

ぼくがしんだ理由はわからない。でも、そんなぼくについて想いを馳せることはできる。この本で、みんなが優しくなれる。

しんだ理由があるとするなら。

番組の中で、子どもの自殺に寄り添う方が言っていたことば。子どもたちは「死にたいのではなく、生きていられないと思ってる」。うろ覚え。でもそんなよーなことを言っていた記憶。
死にたいと、生きていられないは、似てるようで違う。嫌われないことは、好かれることではないように。

理由なんてないということは、全部が理由でもあるということだ。
ぼくにとっては、おおきすぎる宇宙も、青空の美しさも、おにぎりのおいしさも、麦茶の冷たさも、きっと全部が理由なのだ。

ブルーハーツの歌詞にもある。
『どうにもならない事なんて どうにでもなっていい事』(「少年の詩」/1987)

グレイプバインというバンドが好きだったけど、メジャーデビュー当初の彼らの楽曲にも、
別にヘビーなわけじゃないけど決してハッピーなわけでもない、という
やけにリアルな立体化した空気が渦巻いていた。

渡辺美里の曲も思い出した。「死んでるみたいに生きたくない」。
草薙くんのドラマも思い出した。「僕の生きる道」。余命宣告後、身体が辛くても、残された時間を短くすることになっても、思いを行動にうつす方に使う。『このままベッドでおとなしくしていれば、少しは長く生きられるかもしれません。でもそれは僕にとって生きたとは言えません。僕は、最後まで生きたいんです(第11話)

不在という存在感。

自分のふがいない思い出も顔を出した。学生の頃。好きな人がその場にいる飲みの席。話したい。話したい。行けよ自分。動けよ自分。そう思いながら、行けず、動けず。いつもの友人らとどうでもいい会話でその場が終わる。
意味のない長居、無駄なタクシー代に虚しさが募る。今の空間、わたし、いてもいなくても一緒だったな・・・。
『ただいるだけなら、いないといっしょ』。

嬉しかったことも思い出した。仕事で出会えた憧れの人。みんなに尊敬されるすばらしい人。わたしは、大勢の中のひとり。名前も覚えてもらっていないほどの距離感。ギリギリ顔見知り程度。偶然顔を合わせても会釈程度。その人の仕事に、その人の過ごすひととときに、わたしの存在の有無なんてこれっぽっちも影響しない。
でもそれは、ほぼ例年行われていた、2日間のイベントでの仕事。ある年の1日目、わたしは別件で不在にしていた。そして2日目、会場でたまたまその人に出くわした。と、その人は言った。
「あー! あれ?昨日いなかったよね??」

うれしくて、ありがたくて。うれしくて、ありがたくて。何度も何度もかみしめた。

不在は、存在しないということじゃない。
いないということで、わたしは、その人の心の中にいた。

不在に気づく。不在を想う。不在がもたらす、圧倒的存在感というものが。この世にはある。
いないなあ、と思いを馳せることで、心の中に存在させる。
そこに存在している以上に、そこに存在していないことが、その人の存在感を強烈に際立てる。

ぼくは、いないけど、いる。

谷川さんは、一度文章を消して、絵だけにしたページに、新たな文章を入れた。
ぼくは、いないけど、いるんだ。ぼくを想う人の心の中に。

イラストレーターの合田さんの発案で、キーとして描かれているスノードームは、地球の俯瞰・宇宙の俯瞰・命の俯瞰にも最適で、この本のキーにこれ以上なくふさわしい。そういうマジックが呼ばれるんだな、すばらしいものには。

谷川さんは、『死を重々しく考えたくない、かと言って軽々しく考えたくもない』との弁。

人の死については、わたしの祖父が言っていたことばが好きだ。
病気や事故で死に至ったとしても、それが理由ではないと。
「人は寿命で死ぬ」と。

理由はないけどある。あるけどない。
いないけどいる。いるけどいない。
みんな知ってるけど、だれも知らない。

それは、みんなのうたの「まっくら森の歌」の世界にも似て。

『光の中でみえないものが やみの中にうかんでみえる』
そんなまっくら森の中では、『きのうはあした』で『はやいはおそい』。
そんなまっくら森は、『どこにあるかみんな知ってる』けど『どこにあるかだれも知らない』。そして『近くて遠い』。

光は強ければ強いほど、濃く深く陰をつくる。光は陰の存在を、痛烈に思い知らすものでもある。

そして、目に見えるものの不確かさと、見えないものの確かさを想う。
光の中では見えない、真昼の空の星。
けれどそれは見えないだけで。それは確かにそこに在る。
真昼の空にも星は光る。吉野朔美「いたいけな瞳」の名言。

死は重くもあるけど日常でもある。
人が死なない日はない。生まれない日もない。
死を考えているときは、生について考えているのと同じ。

終わったように見えて、物事の終わりは始まりを内包している。
始まった物事は必ず終わるし、終わった途端また新たなものが始まっている。

バイブルは、手塚治虫「火の鳥」1・2巻。
終わりと始まりは、果てしなくループしている。

そして思い出したのは、イームズの「パワーズ・オブ・テン」。
マクロの世界とミクロの世界が同じ光景である驚異。果てしなさ。
広大な宇宙空間の光景と、人間の体内の小さな小さな細胞の中のそのまた細胞の中の光景は、いっしょなのだ。


ぼくは大きすぎる宇宙のなかの小さな小さな存在だけど、
ぼく自身がまた大きすぎる宇宙自体でもある。
この広大な宇宙のなかに、心の宇宙のなかに、ぼくはいる。


【追記】
人間は二度死ぬ。忘れ去られた時が、二度目の死。

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