見出し画像

note はじめました。

はじめましてKyokoです。

昨年末で37年間勤務した電通を退職しました。

Life Shift Platform という制度での少し早めの卒業です。

入社したのは1984年。バブル前夜ですね。

当時は、就職するには短大の方が有利という時代でしたし、学校で勉強するよりも早く自分でお金を稼ぎたかったのもあり短大に進学しました。
結果的に当時、短卒時間採用していなかった電通に入社出来ました。

私が生まれたのは浅草橋という下町で小さい箱屋を営む家でした。

ハンドバッグや帯締め、帽子を入れる箱などを作っていました。

当時はクロコダイルのハンドバッグなどはボール紙に綺麗な紙が貼られた箱に入れられていました。

家の周りには、帽子の製造問屋、ボタンの製造卸、レースの製造卸、事務用品卸などの零細企業が軒を連ねていました。

家で力を持っていたのは、体は小さいけれど男子を8人も育て上げた祖母でした。

父の上の兄二人は、若い頃に家を出ていたので父が継いでいたような感じでしたが、当時は祖父母から給料をもらっていたのだと思います。

幼い頃、父と母はよくお金についての諍いをしていましたが、祖母は家に日舞のお師匠さんをよんでお稽古をしたり、旅行にもよく行っていたし、頻繁に着物の反物を担いで来る人が訪ねて来ては、新しい着物を注文していました。

そんな家で幼い私は「うちはお金があるんだか、無いんだかよくわからないな」とぼんやり思っていたのでした。

父の下にはまだ、独立する前の伯父達が二人いました。そして、若い頃に勘当同然で家を出ていた父の兄の一人が戻って一緒に仕事をすることになったのは、小学校の高学年位でしたでしょうか。

一番多い時は、住み込みの人も含め8人位の人が働いていました。

その人達と一緒になって仕事をしながら職人さん達の食事の用意をしたりしながら、子育てもするのはさぞや大変だったかと思います。

母が今でも「お腹が大きい時に(父に)ちょっとでも手伝ってもらおうものなら、おばあちゃんに何様なんだ!って、すごい剣幕で言われて辛かった。」となんども同じ愚痴をこぼします。

そんな家に育ったので、早く稼げるようになってお金のことで争わないで済むようになりたいと思ったわけです。

つづく。



この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?