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キーシン

https://youtu.be/V1p-GZWlRr0?si=IKsSXBQSDpuLjWwR

YouTube で演奏動画を見ていて、たまたまキーシンの古い特番を見つけた。モスクワ音楽院でのリサイタル、ベルリンフィルハーモニーホールに緊張の面持ちで訪れる様子、カラヤンとの共演時の舞台裏、グネーシン音楽院でのレッスン風景など、見たことのない貴重な映像に目が釘付けになった。ペレストロイカが始まった頃、モスクワはまだまだ戦争直後のような荒れ放題の街であったことが見て取れる。
キーシンがピアニストとして世界に出ていったタイミングはソ連の崩壊の時期と重なっていた。私の知っている限りで時系列に並べると、こんな感じになる。

🔹1986年 日本デビューツアー(15歳)
🔶ゴルバチョフ元大統領のペレストロイカが始まる
🔹1987年 ゲルギエフと来日(16歳)
🔹1988年12月 カラヤン&ベルリンフィルとの共演(17歳)
🔶1989年11月 ベルリンの壁崩壊
🔹1990年9月 カーネギーホールデビュー大成功(19歳)
🔶1991年 クーデターによりソ連崩壊。キーシンは西側へと活動の拠点を移していく。

崩壊前のソ連のアーティスト達は命がけで亡命したけれど、キーシンは88年にカラヤンとの共演で西ベルリンにデビュー、90年カーネギーで大成功して一気に西側で知られるようになり、91年以降はモスクワを離れたので、亡命は免れているはずである。ゴルバチョフによる変革が始まった80年代後半になると、東ヨーロッパ諸国では「そろそろ東西分裂も終焉か」という空気が流れていたと聞くが、キーシンのピアニストとしてのキャリアは、もし仮にシナリオライターがいて仕組んだにしたって、こんなにうまく事が運ぶだろうか?と思うほど、でき過ぎたストーリー…。まるで押し出されるように西側世界へと出て行ったのは、はたから見ると運命としか言いようがない。日本には86年にリサイタルツアー、そして翌年にゲルギエフ、レーピンと一緒に来たので2年続けて聴きに行ったのを覚えているけれど、やはりあの時代にソ連というかなり過酷で特殊な背景で育った音楽家は、今のロシア人音楽家とはずいぶんと異なっていた。それが私たちにはミステリアスで刺激だったけれど…
現在、キーシンはイギリスとイスラエルの国籍も取得しているそうだ。ヴェルビエには音楽祭設立まもない頃から来ているそうで、去年は手の不調でリサイタルはキャンセルになったものの、毎日のようにお見かけした。かつては終演後サイン会に行くと、(多分)KGBと見られる恐い大人たちにバッチリ囲まれ、全く笑顔がない青年だったのに。と、思い返して改めて時代の流れと世の中の変化、そしてキーシンの変貌にクラクラした。

「ラフマニノフやドストエフスキーを愛することは、ロシア政府を支持することを意味しない」
プーチン政権を批判し、そして欧米諸国の主導者達のおめでたさを指摘するキーシンは、このように主張している。




 


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