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八倉比賣神社の遺跡は天照大神でも、卑弥呼の墓でもない。

おおー、この人の解説、面白いーーー!!
※ リンクしておいた動画が次々と消えています。たぶん内容が間違っているので取り下げたのか、うそばかりの動画チャンネルでBANされたのかもです。とりあえず、すごい消されたのが多いということでそのままにしておきます。

めずらしくほとんど書かれてない。えー。

「由緒は不詳だが、平安時代の『延喜式』神名帳の美馬郡条にある[倭大国玉神大国敷神社二座]に比定される古社で、大国魂命・大己貴命を主祭神とする。その御神像は、高さ一尺ほどの剣を杖きて立つ神人の木像で、厨子の背後には、[大島郷倭大国魂神社]の墨書があると言う。小笠原氏が崇敬した神社でもあった。『日本書紀』の第10代崇神天皇紀6年に「天照大神・倭大国魂、二神を天皇の大殿の内にお祀りしたとある。」が、『延喜式』で[倭大国魂]を冠する神社は他になく、[倭大国魂]との強い関係性が窺える。境内には、古墳時代後期(6世紀)の3基からなる大国魂古墳群が築かれ、開口する横穴式石室(全長4.6m、高さ2.2m)をもつ1基が「大国魂古墳」で、段の塚穴型石室の中でも最も古い特徴をもつと考えられている。神社北側の吉水には[吉水遺跡]があり、弥生後期の住居7軒と東西9間・南北3間の掘立柱建物跡等が発掘されている。今後の周辺域の発掘によって、「倭大国魂神社」を成立させた集団の様子が明らかになってくるであろう。」

https://momijiaoi.net/yamatoookunitama/

怪しい。何も書いてない。


ここに、なんか岩の墓があるんだが、変わってるのは五角形なのです。
従来は、卑弥呼または天照大神の墓を想定されていたのだが。

しかし、五角形は「男性の神様の印」なんだって。
じゃあ、スサノオなのかな???
あ、卑弥呼の弟の墓か!!??
しかし、いうほどサイズでかくないんだよねえ・・・。

「天石門別八倉比売神社(あめのいわとわけやくらひめじんじや)は、徳島県徳島市国府町西矢野にある神社。式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」の論社の1つ[1]。旧社格は県社。

鎮座する杉尾山自体を神体とする。」

「別」ってついていたら、別社とか、支店っていう意味なんだって。

「祭神
大日靈女命(おおひるめのみこと) - 天照大神の別名であるとする」
「創建の年代は不詳であるが、社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。はじめは気延山(標高212.2m)の山頂にあったが、後に気延山南麓尾根の杉尾山の標高110m付近に鎮座した。安永2年(1773年)に書かれた文書には、鎮座から2150年と記されており、逆算すると紀元前378年(孝安天皇15年)となる。

承和8年(841年)に正五位下の神階を授けられ、元暦2年(1185年)に最高位の正一位となった。江戸時代には阿波国を治めた蜂須賀氏が当社を崇敬した。寛保年間(1741年 - 1743年)に杉尾大明神と称し、明治3年(1870年)に現社名に改めた。」

「一の鳥居
二の鳥居
摂社・箭執神社(やとりじんじゃ): 祭神は櫛岩窓命と豊岩窓命で、天石門別神とも云う。
摂社・松熊神社: 祭神は手力男命(たぢからお)と天宇受女命(あめのうずめ)
三の鳥居(木製): 本社境内への石段途中にある。
拝殿・本殿: 江戸時代に神陵の一部を削り造営、奥ノ院の神陵を拝する。
摂社・小祠
摂社・小祠
奥ノ院・五角形の磐座: 社殿裏手へ約100メートル、標高116メートルで、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部の頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれ、その上の青石の祠の中に砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が祀られている。 一説には卑弥呼の墓であるという。
摂社・大泉神社: 境内より北西約500メートルの山中に「天の真名井」と呼ばれる五角形の井戸があり、傍らの石積みの祠に祀られている。天文年間までは十二段の神饌田の泉であった。」

→私の調査では、朝鮮半島系列のドルメンでした。たぶん男性豪族で渡来人の墓かなと思います。女性のものではぜんぜんないと思います。


この扱いはひどいぞ。
徳島県、なんとかしろ。「国内最古の前方後円墳」はこっちだった!!


うへえ。これも怪しいぞ。


「上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)は、徳島県名西郡神山町にある神社。式内大社・阿波国一宮の「天石門別八倉比売神社」の論社の1つ[1]。旧社格は郷社。新四国曼荼羅霊場第七十三番札所。
大宜都比売命 (おおげつひめのみこと) - またの名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)とされる。
社伝によれば、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。
明治3年(1870年)、社名を「埴生女屋神社」と改められたが、氏子の請願により、明治28年(1895年)に現在の上一宮大粟神社となった。」
「天石門別八倉比賣神社は神亀5年(728年)に聖武天皇の勅願所」

えー!! 八倉比賣じゃん!! → 上の邪馬台国の卑弥呼の墓があるっていう神社と同じなのだ。

埴生とか、丹生とかって、朱のことみたいなので、隠したかったのかもですね。

ついでに「馬に乗って」→「そんな昔に、日本には馬なんていねーぞ!」というツッコミがコメントに入っていて大笑い。
うん、四国に馬いなかったし、日本全体にも前は馬はいなくて、神武天皇のときでもいないんだから、その先祖の時代にいるわけねーだろwww

うんうん。
いやー、安易な嘘はばれますなあ。
「異世界」ものみたいに、てきとーに書いていると、しれっと今の自分の常識が駄々洩れしてしまい、昔の本当のことは違うんだぞってのが、わからないんだよねえ。
→ 歴史漫画とか歴史小説とか注意なのだwww


天岩戸立岩神社

ここもなかなか面白いんだが。山奥すぎて、ついていけないwww
まあ、なんというか、巨石信仰じゃないかな?

「立岩神社(たていわじんじゃ)は、徳島県名西郡神山町に鎮座する神社。別名は天岩戸立岩神社。

歴史
創建年は不詳。標高650mの元山の山頂に鎮座。立岩神社の御神体の巨岩は古事記や日本書紀に登場する天岩戸とする説があり、天岩戸立岩神社とも呼ばれている[1]。しかし、その別名は阿波古事記研究会の独自解釈による設置看板によるもので伝承される社号ではない。

鳥居をくぐり200mほど進むと神社の御神体である天の立岩があり、神社の後ろにある大きな岩が二つに割れている様子は岩の扉のように見える[2]。

祭神
志那都比古神
志那都比売神
弥都波女神」

創建年不明のって、すごい古いから、古事記以前とか、もう原始宗教なので、面白いのだ。

もう1つ、ありました。

「賀志波比売神社(かしはひめじんじゃ)は、徳島県阿南市見能林町にある神社である。

歴史
見能方八幡神社の境外社。創建年は不詳。一説には聖武天皇の724年(神亀元年)の創祀であるという[1]。

社伝では、賀志波比売命が最初に祀られた地であり、その後、賀志波比売命は人々の希望により津乃峰山山頂に遷座したが、元の鎮座地にも祠が残されたものと伝え、当社が「津峯神社の本宮」であるとしている。

祭神
賀志波比売命」

うへー、ここ、天照大神の生誕地っていうのが売りなんです。すごいな。
なんだそれ。じゃあ、糸島はどうなるんだ???
小さいけど、きれいに整備されていますね。

「日本最古の歴史書「古事記」に

『夫婦神の伊邪那岐命と伊邪那美命は、高天原から降りて来られ国生みをはじめられた。その途中で亡くなった伊邪那美命に会うため、伊邪那岐命は黄泉の国に行き、

「見てはいけない」と言われた伊邪那美命の屍体を見たため追われた。黄泉の国を逃げ出した後、伊邪那岐命は「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊ぎ祓いをすると、天照大御神と月読命と須佐之男命が生まれた。この時、伊邪那岐大神は「天照大御神と月読命は高天原を治めよ。須佐之男命は海原を治めよ。」と命じた。』と記されています。

「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」と祓詞でも奏上される「竺紫」とは、「尽きる」で、「日向」は、ひむか・ひんがし・ひがしと変化した言葉です。つまり「竺紫の日向」とは「東に尽きた地」という意味です。

神武天皇が奈良へ行く前の最東端の地は、橘湾に面した阿南市見能林町青木・柏野地域にあたります。ここが『天照大御神の生誕の地』です。

賀志波比売大神の神名は「古事記」等に書かれていませんが、伊邪那岐命がこの地で禊ぎ祓いをして天照大御神が生まれたと「古事記」に記されていることから、天照大御神の幼名は賀志波比売大神であったと考えられます。光輝く天照大御神と月読命は、高天原(神山町)へ巫女として送られました。

賀志波比売神社は、平安時代(九二七年)に完成した延喜式神名帳の中に記録された三一三二座の由緒ある延喜式内社の一社です。現在、賀志波比売大神は津峰山頂にある津峯神社に奉斎されています。

御神紋は八角形(三方)です。神様に御供えする際に使われる「三方」は、古くは柏の葉(ひらで)が用いられ、現在も皇室では使用されております。

また、「柏」は「柏手を打つ」というように神事と深い関わりをもっているのです。

名前が、「柏」ですよね。たしかに、神様にお供えするのに、お皿の代わりに敷いたりしますよね。柏餅もそうですね。邪気を払います。


ついでに馬も調べてみました。最古級のはこんなかんじ。
(馬の埴輪ってかわいいー。)

https://saito-muse.pref.miyazaki.jp/web/images/event/H30%E5%B9%B4%E5%BA%A6/H30%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%B1%95%E3%80%80%E3%81%8A%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%811.pdf


5世紀後半から6世紀にかけて、馬の普及と共に、馬形埴輪も作られました。この馬形埴輪は、6個の鈴をつけた鏡板+かがみいた+を伴う轡+くつわ+をつけ、胸繋+むながい+には4つの馬鐸+ばたく+をさげ、尻繋+しりがい+には3方向に三鈴杏葉+ぎょうよう+をつけています。古墳時代の飾り馬の様子を知ることができる貴重な資料です。
これは埴輪(はにわ)。3世紀から7世紀に造られた、有力者や王の墓である古墳(こふん)を飾った素焼きの土製品です。馬形の埴輪は古墳時代半ば以降、特に関東地方で盛んに作られました。これは、日本に馬が伝来し、普及していった時期と一致します。

(馬の埴輪で、雄雌わかるって笑うwwww そんな丁寧につくらんでもwww)

追記
これ、2024年にまとめるつもりなので、これはまあ材料だと思ってください。
五角形の磐座はどうも朝鮮半島由来のドルメンの仲間のようです。
調査しておりますので、もう少々お待ちください。

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