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古代 絹のデータベースというのがある。(追記あり)

この研究、たぶんだいぶ古いのだが、何度も使われているので、ずっとこれが正しいみたいに思われている気がする。


邪馬台国の会から、引用しますが、地図にされたのがこの図です。


それで、
「邪馬台国は絹を産出できる」→「絹の出土が九州ばかりじゃねーか」→ じゃあ、邪馬台国は九州だよね。
・・・という理屈なのですな。

実際畿内はあまり出てない。
昨日調べた結果、纏向遺跡で出ていたのをみつけた。


わー、専門家にこんなこといわれてるー。同じページから引用します。

「京都工芸繊維大学名誉教授 布目順郎氏
弥生後期の絹製品を出した遺跡もしくは古墳は、すべて北九州にある。
したがって、弥生後期に比定される邪馬台国の所在地としては、絹を出した遺跡の、現時点での分布からみるかぎり、北九州にあった公算が大きいといえるであろう。

わが国へ伝来した絹文化は、はじめの数百年間、北九州で醸成された後、古墳時代前期には本州の近畿地方と日本海沿岸地方にも出現するが、それらは北九州地方から伝播したものと考えられる。」
たしかに、京都工芸繊維大学の先生なら、きっとちゃんとした研究しているだろうと思う。

「考古学者 森浩一氏
ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。(中略)

倭人伝では、”養蚕をおこない、糸をつむぎ、細やかな(けん)や緜(めん)を作っている”。作っていただけでなく、魏へ二度めに派遣された使者が献じた品物のなかに、”倭錦、青、緜衣、帛布”などがある。(中略)

布目氏(布目順郎氏、京都工芸繊維大学名誉教授)の名著に『絹の東伝』(小学館)がある。目次を見ると、『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在地等を探る』の項目がある。

簡単に言えば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり4世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。

布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。

わああ。同志社大学のスター教授だった森教授が一般研究者扱い。ひどい、ひどすぎる(涙)。もう故人だが、私は一般教養で授業を受けた。立派な先生だ。
(ついでに失礼だが、同志社のほうが入学時の偏差値高いんだが・・・ぶつぶつ。)

しかし、それは20年ほども前の研究であって、今はちゃうねん。
今治からだいぶ近い年代の古墳で絹が出ている。他の研究も念のため、前後50年ずつくらい幅を取ってあるので、ここも同じでいいだろう。

https://note.com/kyokannazuki21/n/nc583d00b8655?magazine_key=m9222a6d4e877

べらぼうに多くはないが、そもそも九州や畿内ほど、発掘もやってないんじゃないかなあ?
しょうがなく、道路工事とかで出たのを発掘している気がする。
奈良や九州みたいに、積極性が感じられないもんなあ。
それに、どうも四国は平地じゃなくて、山の上なので、山の上の発掘とか、面倒そうだからしてない気がする。


あと、ここの会ってよくみたら、安本美典先生のシンパの集まりだった。
安本先生は有名だが、東遷説だそうだ。


馬がいる地域から、馬がいる地域に移動してどうするー? とまあ、思うのでありました。まあ、別に私、考古学学者じゃないけど、論理的におかしいのは、おかしいって言いたいだけ。

安本先生、九州のが多いっていうのはね、
プレ皇室 + もともと住んでいた縄文人国家 + 後から渡来で来る人達が住むから ・・・ってことで、遺跡が多くても当たり前なんですよ。
累計しまくっているわけですからね。

気が付かないのが残念だなあ。

追記

日本最古の絹は、九州北部で 紀元前2世紀だとわかりました。

あと、前に忌部氏が麻しか作っていないので、変だなあと思っていたのですが、それって、皇后が作っています。
つまり、配下の忌部氏でも教えてあげないくらい、門外不出の技術で、蚕や桑を譲ってあげないで、皇室内部で作っていたのかなと思いました。

だから、阿波忌部氏は絹を作れないのです。
しかし、邪馬台国は皇室とはなんも関係がないので、勝手に中国あたりから譲ってもらった蚕と桑で絹を作っていたのでしょう。

まあ、これでぜんぜん別系統っていうことがわかりますね。

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