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プレ皇室研究: 出雲との時代関係は?

先日来、皇室の先祖の時代の研究をしていますが、私の結論では、天照大神の時代がだいたい、紀元前200-150年あたりと推定しています。
(要するに前漢の始まりと同じくらいまでは、確認できる。)
神武天皇の東征は、紀元150年とかあたりかなあと。倭国大乱のちょっと前か、大乱の途中くらいを想定。理由は気候変動とそれによる食料不足。

じゃあ、天照大神たちと出雲の国譲りとしては、いつくらいなのか?

荒神谷遺跡というのが、出雲では一番有名なので、いつものようにWikiをチェックしてみました。
銅剣がいっぱい出ている遺跡です。


「358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。弥生時代中期後半に製作されたとみられている。」


これは春日市の資料から引用

「分類としては、最古の形式であるI式(菱環鈕式)が1つと、それよりやや新しいII式(外縁付鈕式)の形式のものが1個、外縁付鈕1式3個が出土している。製作時期は、弥生時代前期末から中期中頃の間と考えられている。」

これ、弥生時代前期末あたりと考えると、九州北部の遺跡 吉武高木遺跡と同じくらいで、これは平原遺跡よりもっと古い、一番最初の頃だ。
ということは、つまり天照大神とだいたいどんぴしゃなのだ。


もう1つ、有名な出雲周辺の遺跡があるので、そっちも確認します。

「その結果、一か所からの出土例としては日本最多となる39口の銅鐸が発見された」
「銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたる。」
「絵画表現の独自性や荒神谷遺跡出土銅剣の線刻との類似から、大半は出雲地方で製作されたと考えられているが、近畿や北部九州で作られた可能性もある。なお、埋納された時期については、現在のところ荒神谷遺跡同様、特定できていない。」

まあ、埋葬は後でもどうでもいいです。銅器は腐りません。

こっちも紀元前1世紀なら、そんなに差がない。
天照大神の老年期または、アメノオシホミミの時代ってかんじだろうか。

この2つについては、時代的にそうずれがないと思います。

しかし、大国主が「銅鐸を打ちました」とか、「銅鐸を鳴らしました」とかっていう記述はまったくないなあ・・・。
生活範囲の近くに置いてないからかなあ。

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