何者かになりたい理由
がむしゃらに走り続けている瞬間は最高だ。
余計なことは考えなくていい。
圧倒的な努力は必ずや何かに繋がるはずだと、ある種盲目的に信じることができる。
「そんなに頑張らなくていいよ」とか「他にも楽しいことはたくさんあるよ」という他人の声を、その正しさを理解しながらも、僕は脇目もふらずに前に進む。
人生の節目節目で、僕はこの盲目的な感情に取り憑かれる。
その度にいつもただ一つの正しさを信じてしまう。
−−かつて僕は、大切な友人を失ってしまったことがある。
彼の事情を考慮せずに、自分の熱量だけを押し付けてしまったことが原因だ。
みんな違ってみんな良い。
なんて義務教育で習ったはずのことを、僕は23歳になっても尚きちんと理解し行動に移すことができなかった。
あの時は愚かだったな、と24歳になった今の僕は思う。
当時、僕は何者かになりたくて堪らなかった。
だけど、高校時代の友人から「ボーナスで車を買った」とか「彼女と結婚を考えている」という話を聞くと、何者かになんてならなくてもーーそれこそ〇〇会社のサラリーマンAだったとしても、そこには確かに幸せがあって、人はそれぞれの人生を生きていることを知った。
自分はもうちょっと大人になるべきなのかな、と僕はなんとなくちょっとだけしんみりとした気持ちで考えていた。
そんな少し苦い思い出から1年後。
今日、こんなTweetを見かけた。
この文章は、僕の思いの本質を端的に表していた。
あぁ、そうか。
僕は今の自分にはできないことを実現させたくて、こんなにも踠いているのかと妙に納得してしまった。
じゃあ、僕をここまで突き動かす「現在の不可能」とは一体何なのか。
別に豪遊するためにお金持ちになりたいわけじゃないし、
多くのものを手に入れたいわけでもない。
僕はどんな「現在の不可能」を可能にしたいのか。
過去を思い返せば、原点は大学2年の冬だ。
当時、僕は僕を大切に思ってくれていた人を、決定的に傷つけてしまった。
それもずいぶん身勝手な理由でだ。
謝ることすらできなかった苦い思い出。
僕はその経験から、強くなりたいと願って長期インターンを始めた。
営業はしんどい、とよく聞くから、逆に営業をすれば強くなれるんじゃないか、という何とも短絡的な考えだった。
だけどまぁ、ある種その判断は間違ってなかったと、5年後の僕はそう思う。
だんだん脈絡のない文章になってきたから、そろそろ締めよう。
ーー
紆余曲折があったけれど、やっぱり僕は何者かになりたい。
大切な瞬間に、大切な人を守れるだけの力がほしい。
一体全体何から守るのさ?
と、冷静なツッコミが来そうだが、それは大した問題ではない。
自分の弱さ故に、誰かを守れないことが問題なのだ。
時に願いの対象が変わることはあれど、願いそのものは変わらない。
今の僕を突き動かすもの。
それは間違いなく四国での、あの二日間だ。
あの瞬間があまりに美しかったから、僕はもう一度見たくて頑張っている。
いつか気分が乗ったら、他のシーンもnoteに書きます。
まとまりのない散文になってしまいましたが、
気持ちを文章にすると、どこかモヤが晴れるような気がします。
明日も仕事頑張りましょう。
では、また。
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