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福田翁随想録(33)

 人類は流離の群れなのか

 私は昭和二十三年、極東軍事裁判の十一月判決結果を盛岡本社の岩手日報に送稿する時、いつ繋がるか当てにならない電話を諦めて東北本線の夜行に潜り込んだ。
 デッキは超混雑で、腰掛けることはもちろん尻をつく空間さえなく、十何時間立ちっぱなしだった。当時はそれが当たり前だったから文句も言わずに拷問のような辛さに耐えるしかなかった。
 戦後の混乱が収まってからは寝台特急を愛用したが、東京―盛岡の八時間の乗車時間のうち福島県浜通りの連続するトンネルではいつもいぶり出しの責め苦にあい、息が詰まって目が覚めたものである。
 今日ではSL車が人気を呼んでいるが、われわれの年代の者には蒸気機関車は懐かしくはあるが、もうこりごりだ。ワイシャツや鼻孔が煤煙で黒くなった。駅前の雀も汚れていた。
 やがて新幹線が開通し、東京―盛岡はとんぼ返りできるようになったが、こうしたスピードアップはわれわれに時間のゆとりを与えてくれたかといえば、逆だ。
 動物生理学の本川達雄教授は時間の進む速さは体重当たりのエネルギーの消費量に比例すると述べている。
 ハツカネズミの心周期(心臓一拍)は0・1秒で、人間は1秒、ゾウは2秒である。したがって人間はネズミより十倍速く、ゾウの二倍速い。人間のエネルギー消費量は生物学的な必要量より十数倍も余計に使っている。故にわれわれ人間はゾウなみのスケールで、ネズミより速い時間で生きているというのである。
 人間は自分で自分を忙しくして死を早めているというのは滑稽である。
 直線的に進むと考えられる時間、それを宇宙時間、地球時間、物理時間などと言ってもいいだろうが、これにわれわれは拘り過ぎたから過去は古いものという見方になったのではないだろうか。(←?)

 さて、ここで周囲を見回してみると、われわれの周りの多くの物が石油から産み出されたものだということに気がつく。
 衣食住みな石油エネルギーに依存している。失神せんばかりの膨大な化石燃料は人類にこの先いつまで供給し続けてくれるだろうか。
 人類が火に親しんでから仮に四百万年として、木材、石炭、石油と変遷し、なんと武器に応用したのは近々一九一四年の第一次世界大戦からである。
 悠久の時に比べわずか百年にも満たないうちに人類は石油享有時代に浸かってしまった。
 この石油の持つ魅力と魔力は人類の欲望を加速させ、大気を汚染し、地球温暖化だ、オゾン層の破壊だと赤信号を出しても先進国は一向に認めようとはしない。
 エネルギーの獲得と使用量を人類史上の上でグラフをとってみれば、近代にいたって急上昇し直角になり、その不自然さは一目瞭然だ。
 識者は石油時代の夕暮れを予告しているが、次に対処するための模索と構築には名案がない (天谷直弘/1983・3・24/東京新聞)。
 人類はどこにいこうとしているのか。タビネズミの大群はある日ある時滅亡に向かって海中に飛び込んで進むというが、人類もつまりは流離(りゅうり)の群れなのだろうか。

 ここで思い出すのが、経済急成長で浮かれていた頃最高学府を出て銀行に勤め、将来を嘱目されていた知人のことだ。昼食に誘ったところ多忙で時間が取れないと断られたことがあった。彼にしてみると引退した老人相手などバカらしかったのかもしれない。
 私にしてみると余計なお世話かもしれないが、ディーリングの仕事がどんなに厳しいか、しかも時差のあるニューヨークやロンドンを睨んで間髪を争う為替相場の変動に神経をすり減らしているのかを想って慰めてあげたかったのだ。
 ところがなんとその一流銀行が、スキャンダルで一夜にして信用を失ってしまった。今までの猛烈社員だった努力はどう評価されたらよいのか。彼の将来、家庭はどうなるのか。
 石油が人類に与えた具体的な実例ではないだろうか。(←?)

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