見出し画像

黄金色の光に包まれて

 神尾大寺の本堂前で、もの憂げにひとりたたずむ和服姿の女性に目がとまった。
 ――メデイアの撮影だろうか?
 凛とした雰囲気をまとい、周囲に輝きを放っている。時折やり場のない気ぜわしげな表情を浮かべている。
 民雄は彼女が顔を向けている参道の方へ眼をやった。撮影クルーどころか人っ子ひとりいない。いつまでも眺めていたかったが、後ろ髪をひかれる思いを抑えて境内を後にした。自分とはかけ離れた世界の人のように思えて、近寄りがたくてあっさり退散したのだ。一抹の寂しさを抱いて寺院に隣接する植物園へと足を向けた。
 ツツジ園をはじめ、アジサイ園、ローズ園を見てまわったあたりで足の疲れを感じてきて、ローズ園越しに噴水が見える藤棚下のベンチに腰かけた。急性出血性潰瘍での三週間ばかりの入院生活で萎えた足をさすっていると、とてもいい香りが民雄の鼻先をかすめた。バラの香りではない。人の気配を感じて隣を見ると、先ほど本堂前で見そめた萌黄色の和服の女性が坐っていた。
 民雄はその偶然が信じられなくて、足をさする手をとめたまま惚けたような表情で彼女の横顔に見とれていた。と、彼女が民雄の方へ顔を向けた。彼ははたとわれに返り、狼狽して慌てて目をそらせて詫びた。
 彼女がピンクの和装バッグからペンと小さな手帳を取り出し、慣れた手つきでなにかを書きつけている。
「どうして謝ったんですか?」
 差し出された手帳には、そう書き記されていた。
 返答に窮して無言でいると、彼女は手帳を引っ込めて、また書き始めた。
「しゃべれないんです」
 想像もしない告知に驚き、民雄はその手帳と彼女の顔を交互に見比べることしかできなかった。
「耳は聴こえています」
 民雄はすべてを理解したような表情を作って、出来うる限りの平静さを装い、重々しく小さく頷いた。
 慣れぬものを身にまといぎこちなくなっている民雄の右腕をペンでつついて、彼女が手帳をまた差し出してきた。
「どうして謝ったんですか、さっき」
 民雄は、気を取り直して答えた。
「さっき本堂前でお見かけした方が、すぐ隣に坐られてたもんで」
「だから?」
「ちょっと驚いて」
「驚いて?」
「見とれていました」
 民雄は照れくさそうに笑った。
 彼女は納得した様子ではなかったが、手帳を鞄のなかにしまい立ち上がりかけた。
「えっ?」
 民雄はそっけない彼女の態度に思わず声を漏らした。歩き出そうとする彼女に慌てて声を掛けた。
「もう少し坐っていてくださいませんか? お急ぎでなければ」
 彼女は怪訝な顔をして、また鞄から手帳を取り出してペンを走らせた。
「どうしてですか?」
「理由は、理由は自分でもよくわかりません」
 こんどは彼女が笑った。民雄を舞い上がらせるのに充分な笑顔だった。彼女はベンチに腰を下した。二月末とはいえ、ベンチには陽が当たっていてとても暖かかった。
 しばらく時は流れた。ふたりの会話が弾んだとはとても言い難い。
「もう帰らないと」
 これ以上彼女を引き留めておくわけにはいかなかった。
「すいませんでした。無理なお願いをして」
「私こそとても楽しい時間でした」
「本当ですか?」
 彼女が民雄に顔を向けて頷いた。
「……勝手なお願いをしていいですか?」
 彼女は民雄の目を見つめたまま、次の言葉を待っている。
「また会ってくださいませんか?」
 彼女の表情が「なぜ?」と問いかけている。
「明日、同じ時間に、この場所で」
 彼女はちょっと考えた後、また手帳を開いた。
「確約はできませんが」

 その日から彼女と民雄はしばしば顔を合わせるようになった。彼女は毎週木曜日の同じ時間に藤棚下に姿を現した。ベンチに並んで坐って話すようになった。話すといっても、小さなメモ用紙での筆談だったが。
 彼女の名前は、磯崎真美子。入院している母親を見舞うため神尾大寺近くの大学病院に通っていた。
 十八歳のとき交通事故に遭い、口が利けなくなり、味覚までなくしていた。いまもその後遺症のリハビリを続けている。
 現在は美術デザイン専門学校に通っていて、将来はイラストレーターとして自立することを夢見ていた。
 彼女のイラストやデッサン、水彩画などを見せてもらったことがあった。民雄に評価する力はなかったが、どれもとても素晴らしく、素人離れした仕上りのように思えた。
 二回めのときに彼女は手紙を書いてきた。
「私が交差点で自転車を止めて降りようとしたとき、ちょうど進行方向の信号が青に変わったの。それでそのまま左右確認しないまま交差点に進入しちゃったら、いきなりガツンという衝撃が身体中に走った。右横からかなりスピードを出した車と衝突しちゃった。しばらくなにが起こったのか理解できなくて、ボーッとしたまま道路に横たわっていた。不思議なんだけど、痛みもなにも感じなかった。なにかを考えているというわけじゃなくて、意識は確かなんだけど、周囲の騒ぎやらなにやらがひとごとのようで、なんで騒いでるんだろうという感じだった。
 いつの間にか気を失ってしまって、気がついたら眩い病院の救急治療室に寝かされていた。口が利けない、味覚がない、というのがわかったときはとてもショックだった。
 母が作ってくれたカレーが好きで、その味の記憶は鮮明なんだけれど、実際同じ物を食べてもなにも感じないの。その事実を現実に知ったときは悲しかった。これからどうなるんだろうとか考えるようになるのは、ずっと後からで。しばらくは、もう母の作ったカレーの味は記憶のなかだけにしかなくて、現実にはもう感じることができないんだ、ということばかり思ってとても悲しかった。
 お医者さんは、リハビリ治療すれば元のように話せるだろうと言ってくれてたんだけど、いまだにちっとも改善する気配がみられない。声はでないし、なにを食べても口にしてる感覚はあるんだけれど、まったく味がしない。しょっぱくもなければ、甘くも苦くもなんにも感じない」
 ――味がない……食べてる感覚はある……旨みもなければまずさもないというのは、どんな感覚なんだろう?
 民雄には真美子が抱いている心境が頭では理解できたが、感覚まではわからなかった。

 彼女の誕生日である三月二十六日、藤棚下のベンチに彼女と並んで腰掛けていた民雄は、初めて彼女の肩を抱き寄せ、驚いて民雄を見つめている彼女の唇に自分の唇を重ねた。
 その後ふたりの間にとても長い沈黙のときが流れた。民雄は頭のなかが空洞になったように思えた。彼女はいつまでも足元の枯葉を見つめていた。
 民雄が肩を抱く力を緩めてしまえばたちどころに彼女が煙のように消えてしまうように思えた。腕の力をほんのちょっと強くしたときだった。
 彼女は手帳を開き、ペンを手にした。
「なぜいまキスをしたの?」
「なぜって、たまらなく愛おしくなって、そうせざるを得ない衝動で……」
「衝動?」
 民雄はちょっと前の行為の真意を自分でも掴みかねた。
「衝動で、私に」
「違う。ずっと前からそうしたいと思ってて、その気持ちが堰を切ったように溢れ出てきて、……ちょっと言葉にするのがむずかしいけれど」
 またふたりの間に沈黙が流れた。最初の沈黙とは明らかに違っていた。
 彼女がおもむろにメモ帳にペンを滑らせた。
「民雄さん、私、勝手なことを言うね。怒らないでね。私、来年の誕生日の日まで、民雄さんと会うのを止める」
「えっ!」
「理由は、そうしたい衝動が走った。たったいま」
「衝動? ……いやだったんだね」
「違う、絶対!」
「じゃ、どうして?」
 真美子はとても嬉しかった。いままで生きてきてはじめて感じる喜びだったと伝えたかった。
 彼女の頭には死が間近に迫った母親のことがあった。願掛けがその理由だった。自分だけが幸福感に浸ることへの罪の意識といっては言い過ぎだろうか。自分の幸福度が増すことで母親の病状がさらに悪化するように思っている節があった。
 民雄がなんど問いかけても彼女はなにも説明することなく、笑顔だけで答えるだけだった。民雄は彼女の手を握った。彼女は抗うことなくそれを受け入れた。
 民雄は納得できなかった。なぜ来年の誕生日まで会うことができないのか理由がわからなかった。不審に思わざるを得なかった。同じ問い掛けを何度も投げかけても彼女はただ微笑んでいるばかりで、手帳を手にする気配すらなかった。
 日が翳り、ふたりに別れの時間が迫る。どちらからともなく席を立った。民雄に手を繋がれたまま彼女は地面ばかりを見ていた。民雄には彼女が泣いているように見えた。民雄はその様子を見て、頭を殴られたような衝撃を覚えた。彼女の決心を強引に翻すことへの罪悪感が芽生えた。
「また会えるよね」
 彼女は『三月二十六日、同じ時間に』と書いた破かれた紙片を民雄に渡した。彼を見つめる眼がしっかりと頷いていた。
 民雄は帰途、彼女の連絡先はもちろん住まいの情報もまったく持っていないことに気づき愕然とした。公園へ戻ろうという思いが頭をもたげかけたが、そんなことをしてもとおに公園に彼女の姿はなく、閉園の扉が閉じられていることを認めないわけにはいかなかった。
 ――来年の誕生日まで絶対に会えないのだろうか?
 自虐の言葉に打ちのめされていた。彼は気が遠くなりそうだった。
 その日が彼女と会う最後の日になろうなどとは、民雄は想像だにしていなかった。
 その約束を交わしてからまもなく、彼女の母親が逝去し、彼女もその心労のせいからだったのか、母親の後を追うように一ヶ月も経ないうちにくも膜下出血であっけなく他界してしまった。彼女は人生で一番輝かしい時期に声と味覚を失い、さらに命までも奪い去られてしまった。享年二十二歳だった。
 民雄は彼女と最後に会った日以降も、毎週木曜日藤棚下のいつものベンチで彼女を待っていた。約束の一年ではなく、気が変わって彼女がいつ現われてもいいように。
 一ヶ月がたち、二ヶ月がたっても公園通いを続けていた。彼女の最後の言葉だけが唯一の慰めだった。
 やがて一年がたち、約束の彼女の誕生日の日がやってきた。民雄はその日朝から落ち着かなかった。逸る気持ちを抑えるのに苦労した。約束の時間よりもかなり早い時間に公園へ足を向けた。一年前のように藤棚下のベンチに坐って彼女が現われるのを待った。時間の流れる速さが極端に遅くなり、たえがたい感情が彼のからだを揺さぶり続けていた。
 そして、その約束の時間が訪れた。だが、彼女は現われない。時間を間違えたんじゃないだろうかという思いから、民雄はその場を離れられなかった。
 日が傾きかけても、閉演時間を知らせるチャイムとアナウンスが流れても、民雄は弔い人のように黄金色の光に包まれてベンチにひとり坐り続けていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?