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無垢な手の契り

 智哉が到着した時、会場の大ホール前にはすでに長い行列ができていた。
 顔見知りが多いようで、あちこちで客同士が親しげに話しこんでいる。老若男女の談笑する声が混じり合い、大音量のざわつきとなって膨れあがっている。
 やがて開場時間となりホールの中央入り口から誘導が始まった。入場無料のためチケットも指定の席もない。学校側が頼んだエベント専門の案内係のようで、みんな一様に上下紺のお揃いの服を着ている。
 行列の最後尾に近かったわりにはそれほど待たされることなく入場できた。二階席が人気なのか上の階の話し声がひときわ騒がしい。
 智哉は一階の舞台より二ブロック目あたりの下手通路側の席に坐ることができた。右隣りは子連れの親子で、十歳にも満たない男の子が智哉のすぐ隣に坐った。後ろを見たり立ち上がったりと落ち着きがない。
 真美の学校だけでなく他の学校の演奏会もこの公共施設で催されているという。舞台も観客席も立派なもので、照明や音響設備にいたってはプロの演奏家の演奏会も充分行えそうだ。
 こんな会場で演奏できるなんてとても恵まれているな、と智哉は広いホールのなかを見まわしながら思った。
「長らくお待たせいたしました。本日はご多忙のなかわが校の中高合同の吹奏楽部定期演奏会にお越しいただきまして厚く御礼申し上げます。これより学院の吹奏楽部の演奏会を開催いたします。……
 入り口でお渡しいたしました案内パンフレットに演奏曲目の簡単な説明を書かせていただきました。お聴きいただく参考にしていただければ幸いでございます。では、開幕です」
 案内の男性司会者が引っ込むとすぐに客席側のダウンライトの照度が落ちていき、と同時に舞台を閉ざしていた幕が上がりはじめた。舞台はかなりの数のスポットライトが当てられていてまばゆいばかりの明るさに包まれている。すでに制服姿の楽団員が音響反射板を背にそれぞれの楽器をもって扇型に坐っていた。
 下手から黒のスーツ姿の男性指揮者が現れ、足早に舞台の中央付近のところまで進み、観客に向かって深々と一礼すると指揮台に立った。指揮者が指揮棒を構えると楽団員がそれに合わせてさっと演奏の構えに入った。
 静々とオープニング曲のエルガーの行進曲『威風堂々』の演奏が始まり、ホールいっぱいに勇壮な調べが響き渡る。
 智哉は中高生の演奏会ということで軽いイメージを抱いていたが、一変した。最初のフレーズだけでその力量の高さに驚かされた。
 一曲目の演奏が終わると舞台の照明が落とされ、上手の袖にスポットライトがともった。すぐにピンクのロングドレスを着た女性司会者による曲紹介が始まる。
「エドワード・エルガーの行進曲『威風堂々』第一番でございました。この楽曲は入学式や卒業式などでよく演奏されますので、聴き馴染みのある親しみ深い曲ではなかったかなと思います。イギリスを代表する作曲家のひとりで、一九〇一年、彼が四十四歳の時に作曲された楽曲です。イギリスの第二の国歌とまで称されるほどの高い評価を受けています。
 で、次の演奏ですが、二曲目はリヒャルト・ワーグナーの歌曲『タンホイザー』序曲です。一八四五年、三十二歳の時に作曲されています。この三幕からなるオペラのあらすじをひと言で簡単に申しますと、騎士・タンホイザーの苦悩と救済のお話でございます。殿方のドロドロしたところが出て参りますが……」
 舞台近くの前の席あたりから笑いが起こった。女性司会者もその笑いに同調してちょっと笑った。
「最後は恋人・エリーザベトのいのちを懸けた献身的な祈りによりタンホイザーの魂は救済され、亡きエリーザベトの傍らで自らも安らかな眠りにつくという内容でございます。
 この序曲は三時間あまりのオペラのいいところを十二、三分にギュツとまとめたようなパートでございます。それではお聴きください」
 再び舞台に照明がともされた。智哉は舞台上に真美の姿を探した。クラリネットの演奏者は一番前に陣取っていた。眼でたどっていくと中央やや上手側寄りにいた。楽譜台で顔が一部隠れているのですぐにはわからなかった。幼さを感じさせるも指揮者をまっすぐ見つめる真美の表情は真剣そのものだった。
 中央にオーボエ、クラリネットの演奏者。その二列目にフルート、サクソフォン、三列目にフォルン、チューバ、コントラバス、最後列にトロンボーン、トランペット。
 オーボエ、クラリネットのメイン演奏者は休みなく吹いているが、真美は所々で休みに入っている。
 管楽器の演奏に下手側に配置されているドラム、ティンパニー、シンバルの打楽器が加わり、この曲の雄大さとドラマティックさを一挙に高まらせていく。
 中学生とは思えない演奏に智哉は驚かされた。
 演奏が終わると、ブラボーの声があがり、割れんばかりの拍手が沸き起こった。智哉も拍手していた。指揮者が客席に向かって一礼したのち楽団員全員に立つように促したところで、さらに観客の拍手が高まった。演奏者の一人として真美が加わっていることに誇らしさと喜びがこみ上げてきた。
 真美の演奏はその一曲だけで、その後は演奏者の入れ替えがあり、この日の全楽曲の演奏は終了した。
 ロビーに出ると、出口扉前にいままで舞台で演奏していた楽団員の大半がいち早く駆けつけていて、並んでお客を見送るという演出が待っていた。
 みんなが笑顔で「ありがとうございました」とお礼の言葉を繰り返している。そんな列の前を智哉も笑顔で応じながら歩いて行った。列の切れるあたりで智哉は呼び止められた。真美だった。
「今日は来てくれてありがとう。どうだった、私たちのタンホイザー」
「素晴らしかった。あそこまでできるんだね、中学生でも」
「しごかれてるもん。うまくならないわけがないよ」
 真美は誇らしげに答えた。
「お父さん、時間ある? 親友たちにちょっと会っていってもらえないかな」
 自分のことを友達にどう話しているのかわからないので返答をためらっていると、
「みんなにはありのままを話してあるから心配いらないよ。そんな浅い関係じゃないんだ。小学生のときから一緒の子ばかりだし、会ってくれると助かる」
 と、つけ足した。
「そうか、それじゃあいいよ」
「ホント? うれしい。ちょっとここで待っててね。連れてくるから」
 真美はホールの中へ走っていった。まもなく二人の女子生徒を連れて戻ってきた。
「この人が私のお父さん」
「はじめまして」
 連れてこられた二人が口をそろえて挨拶した。
「はじめまして。真美がいつもお世話になってるようで、ありがとう」
「二人とも放課後スクールでもずっと一緒だったんだよ」
「そうなんだ。部活も一緒なのかな?」
「そう」
「これからもよろしくね」
「私たちこそよろしくお願いします。いろいろお世話になってます。真美と一緒だとなんか元気が出てくるんです」
 よほど気が合っているのか、三人そろって身をよじらせた。
 ――子どもをもつ親というのは、こんな心地になるのか……。
 真美らと別れて帰路についてからも智哉はその生暖かい快さに身をゆだねていた。

 その日の深夜に真美から電話が掛かってきた。
「うちのお父さんと同じ年とはとても思えない、とっても若く見えるって言ってた。二人とも」
「僕のことはどう言ってあったの?」
「ありのまま」
「ありのまま?」
「うん。ずっと一緒だもの、なんでも知ってる。亡くなったおばあちゃんのことも、お母さんが突然倒れて救急搬送されていま入院してることも。で、お父さんのことも。亡くなってると聞かされてたけど、本当は生きてて最近再会したということも」
「そんなことまで」
「ずっと信じられないとか言ってたけど、今日会わせたことで本当の本当のことだったんだねって感じに」
「………………」
「真美はファザコンじゃないかって最近言われる。だっていつもお父さんのことばかり話してるもんねって」
 次に言う言葉が出てこなかった。
「今夜は飲みすぎたみたいだ。もう眠たいから電話切るよ」
「わかった。じゃあ、おやすみなさい。今日は本当にありがとう」
 ――なんの警戒感も緊張もためらいもない、無条件で身をゆだねられる存在。どこまでも信じ頼ることができる……。
 あの日いきなり手をつながれた時の、ぬるっと纏わりついてくる生きものの生暖かい感触を智哉は思い返していた。

         ☆          
 
 眠気に身をゆだねかけているところに、来客を知らせるチャイムが鳴った。玄関ドアを開けると、白いワンピースの少女が立っていた。
 智哉と目が合うなり、彼女はいきなり言い放った。 
「お父さん!」
 智哉は返す言葉がすぐには思い浮かばなかった。
「いま、『お父さん』て言った?」
「はい」
 ようやく口にできた問い掛けにも、彼女はきっぱりと答えた。
「これを渡すように言われました」
 白い封筒をドアの隙間から突き出してきた。
「お母さんの手紙です」
 宛名も差出人の名もなく、封もされていなかった。智哉は封筒から手紙を取り出しその場で読みはじめた。
「突然お手紙を差し上げるご無礼をお許しください。あまり時間が残されていないのでこういう形をとらせていただきました。
 憶えていらっしゃいますか、私の……」
 そこまで読んだところで、智哉は少女に玄関に入るように促した。
「憶えていらっしゃいますか、私のこと。佐貫真由美です。お忘れになっていたとしても仕方がありません。十年あまりも前にお別れしてその後一度もお会いしてませんものね」
 智哉はあらためて少女の顔を見た。面影を探ったが無駄だった。当時の佐貫真由美の顔の記憶が曖昧で、確かめようがなかった。
「年はいくつ?」
「十三です」
「中学年?」
「はい。中一です」
「お母さんは確か鶴岡の人だったよね、山形の」
「いまは、横浜です」
 手紙に目を移し、先を読み進めた。
「あなたがこれを読む時は、私はすでにこの世にいないはずです。いまあなたの前に立っているだろう真美は、あなたの子どもです。いきなりこんなことを打ち明けられて戸惑うのは当然よね。突然見知らぬ少女が訪ねてきて『私はあなたの娘です』と告げるのですから。ちょっぴりおかしい。戸惑うあなたの顔を間近で見てみたかった。そして三人で今後のことをいろいろ相談できたらよかったのに」
 ――今後の相談……
「いま看護婦さんが点滴の針を抜いていきました。この脳神経外科病棟のなかで一番の美人さんです。若くてとても理知的な女性です。心の痛みや哀しみがわかる人です。彼女は私の担当の看護師さんで、いろんなことを親身に聞いてくれる、かけがえのない相談相手です。彼女にあなたのことをちょっとだけ話したことがあります。彼女との会話がきっかけでこんな手紙を書くことにもつながったんですが……。
 余談はさて置き、あなたにお願いがあります。真美に伝えてほしいのです。私との出会いのこと、つき合っていたときの頃のこと、そして別れの日に交わした私たちの約束、誓いを。私があなたにどれほど愛されていたのか、を」
 ――あれをつき合っていたというのか……。
「あれからもう十数年あまりもすぎてしまったんですね。あっという間でした。
 いま窓から見える山桜が満開です。若葉に囲まれて咲く白っぽい花びらが心に沁みます。いとおしく感じられます。かつてこれほどまで心に深く沁み入ってくる桜を見たことがありません。身の周りのすべてのものに、姿や形を変えるあらゆるものに、もっと目をやり、心に深く溶け込ませるような生き方をしてくるべきでした。大げさなように思われるかもしれませんが、いままさに神々しく見えます。こんなことが起ころうとは思いもしませんでした。
 いまあなたに出会わせてくれたご縁に心の底から感謝しています。もっと早くにお手紙を差し上げるべきでした……」
「ご病気だったということだけど、入院してらしたのかな?」
「はい」
「聞きにくいことを訊ねるけど、亡くなったのは……」
「えっ?」
「お母さんが亡くなったのは、つい最近のことなの?」
「そんな……亡くなっただなんて」
 驚いたのは、今度は智哉の方だった。
「ひどい。お母さんはいまも入院しています」
「手紙には、もうこの世にはいないはずだ、と書かれているよ」
「それは間違いです」
「君はこの手紙を読まなかったの?」
「はい」
「どうして? 封をしてないということは、お母さんはあなたにも読んでほしいと思ったんじゃないの?」
 智哉は同じ質問を繰り返した。
「読んでもいいけれど、お母さんとしたら読まないで渡してほしいと言われました。
 大まかなことは聞いています。名前とか人柄とか、簡単なことばかりですが、ああそれと写真は何枚か見せてもらいました。お母さんは言ってました。お父さんは私が生まれてすぐに亡くなったって。私はそれをずっと信じていました。そうじゃなかったと知るきっかけになったのはつい最近です。入学手続きの書類で気づいたんです。亡くなっているのなら名前にバツ印がついているはずなのに空欄でした。私はすぐにそのことを問い質しました。そうしたらお母さんは迷っていましたが、打ち明けてくれました。まだ生きてるって。
 私は、お父さんに会ってみたい、と言いました。その時お母さんは渋っていましたが、しばらくしてその手紙と写真、住所、名前が書かれたメモを渡されました……」
「で、訪ねてきたというわけだ。それはわかったけれど、なぜ君は訪ねてくる前にこの手紙を読もうとしなかったんだろう?」
 智哉は疑っていた。ここに来るまでに何度も繰り返し読んできたに違いないと。
「それは、いまは言えません」
「なぜ?」
「いまそれを言うときではないと思うからです」
 ――なぜいまは答えられないというのだろう。たったそれだけのことなのになぜそんなにこだわるのだろう。
「いつになったら教えてくれるの?」
 意地悪い質問のし方をした。
「それは私が決めます」
「なんか理由がありそうだけど、まあそんなに重大なことじゃないから別にいいよ」
 智哉に別の疑問が浮かんだ。
「どうしてここの住所を知ってるんだろう」
 彼女はしばらく考えこんだ後「それは私にもわかりません」とだけ答えた。
 あの日佐貫真由美がアパートを出て行ってから智哉は彼女となんの連絡もとっていない。あれから何度か転居もしていた。このマンションに越してきたのはつい三年前だ。
「いま入院してらっしゃるんだよね、横浜の病院に」
「はい」
「お見舞いに行ってもいいのかな?」
「お父さんがそうしたいなら、なんの問題もないと思う」
「さっきから君は僕のことを、お父さん、お父さんって呼んでいるけど」
「呼んじゃいけないんですか」
 見据える眼に力が増さってくる。
「いい悪いじゃなくて、君とは今日初めて会ったわけだし、それも突然なことだし」
「感じ悪い。お母さんが教えてくれたお父さんと違う」
「なんて言ってたの?」
「それもいまは言えません」
「なぜ?」
「なぜでも」
 子ども相手ではらちが明かない、と智哉は話を戻した。
「いつでもいいのかな、お見舞いにうかがうのは」
「はい」
 彼は少女を部屋に上げることなく玄関先で受け答えし、見舞いの日時と待ち合わせ場所を決めて帰した。
 
 記憶を手繰り寄せてみた。寒い十一月か十二月だったと思う。佐貫真由美が帰郷する前のわずかな間だった。彼女はそれまで借りていたアパートを引き払っていた。計画では、引き払ったその日のうちに帰郷の途に就くはずだった。だがその日の夕刻、彼女は電話や手紙といった間接的な手段ではなく、智哉を駅西口の喫茶店に呼び出し、面と向かって直接自分の口で別れを告げることを選択した。
 ――約束? 誓い? なんのことだろう。
 最初の夜、智哉はかなりためらいがちに彼女のからだに触れた。それが許されると、智哉は真由美を抱いた。行為の後、彼女は智哉が初めての男だと教えてくれた。
 あの日帰宅すると置手紙があった。その手紙をその後どうしたのかはっきりしない。記憶を辿ってみても甦ってこない。詫びる言葉、感謝の言葉、別れの言葉……、それに伴う思いのみが切れ切れに薄っすら残存しているだけだ。どのような言葉で、どのような書き方でそれが表されていたのか、いまはもう思い出すことができない。
 ――なぜ知らせてこなかったのだろう。どうして勝手に決断したのだろう。 
 真美の訪問の日以降智哉は仕事が手につかず、真由美のこと、そして娘だという少女のことばかり考えて過ごした。
 ――十三年前の暮れ頃ということは、十月か十一月生まれか。
 不思議なのは、彼女の言動だ。十代の女の子がたったひとりで初対面の男のところを訪ねてきて、臆することなく「お父さん」と呼ぶのは、呼べるというのは、どういう神経をしているんだろう。初めて会う歳の離れた大人の男に、警戒心というか抵抗感のようなものはなかったのだろうか。
 よほどの覚悟というか、強い決意がなければ口にできないはずだ。母親から聞かされるうちに親愛感なり情愛というものが育まれているからだろうか。渇望していたものが突然目の前に舞い降りてきて、無条件にすっぽり受け入れられてしまっているからなのだろうか。

         ☆

 新卒で出版編集プロダクション会社に入社したものの、編集業務の知識も経験もない智哉に任せられる仕事は、コピーやファックス、デザイナーやイラストレイター事務所へ出向いての受け渡しやら、刷り上がったばかりの定期刊行物のゲラと生原稿の突き合わせ校正作業などばかりだった。
 入社したばかりの智哉には版元の編集者や執筆者やデザイナーと対等に会話する先輩たちの存在がとても輝いて見えた。その職場でいずれ自分も先輩編集者と同じような存在になれるのだと信じきっていたし、疑いもしていなかった。
 だが一年もたたないうちに、なにがなんだか作業全体が見えない、腑に落ちない疲労ばかりが積みあがる日々にいら立ちを感じはじめるようになった。手取り足取り編集業務のイロハを教えているような余裕はないというのがその会社の現実だった。
 新卒の編集経験がない彼を採用してくれたのは、今から思えば、給料が安くても不平不満を言わない、使い走りのなにも知らない新卒の新米社員が必要だったというのが正直なところではなかったのかと思う。
 先輩社員のだれもが手一杯の仕事を抱えていたし、だれがやってもいい仕事はできたらやりたくない、やっていられないという労働環境だった。言い過ぎかもしれないが、ワンフロワーの狭い仕事部屋にはたまりにたまった毒気の強い不満臭が充満し、息が詰まるような雰囲気があった。月初めの定例会議になんの前触れもなく、先輩社員の顔が消えていることはよくあった。
 新卒の新米社員という智哉のような便利に使える存在が貴重と認められたからなのかどうかは定かではないが、翌年も新たに、今度は男性ではなく若いフットワークのよさそうな新卒の女性がひとり採用された。それが佐貫真由美だった。長い黒髪をうしろでひとつに束ね、いかにも就活リクルート学生という感じのスーツ姿がとても初々しかった。
 智哉は唯一の後輩である佐貫真由美としばしば一緒に行動し、同じ作業を言いつけられた。二人とも毎日忙しく動き回った。そういうこともあって昼ご飯や夜ご飯を共にすることが多かった。智哉はこの従順でかわいい後輩に好感をもっていた。仕事が比較的早く終わった時など彼の方から彼女をよく飲みに誘った。彼女はその誘いをほとんど断わらなかった。
 居酒屋での智哉は饒舌だった。職場の先輩の性格やら癖やエピソードなどを一方的にしゃべりまくり、また彼の不満や愚痴を包み隠さず開けっぴろげになんでも話せた。彼女はいい聞き役だった。智哉のたわいもない話に相槌を打ち、微笑みをたたえて受け止めてくれていた。
 智哉は彼女に好意を抱いてはいたが、彼女とは仲の良い先輩と後輩という関係にとどまっていた。無口で控えめで、職場ではとても気が利く、だれにも好感をもたれる存在だった。言い寄られることも一度や二度ではなかったにちがいない。職場の先輩に誘われたことはなんどもあったのではないだろうか。
 智哉に彼女が好意以上の感情を抱いてくれていることは伝わっていた。だが智哉には佐貫真由美は気心の知れた、心を許せる良き同僚であり、抗わないかわいい後輩の域をでるものではなかった。
 彼女が会社を辞める決心をし、送別会もすませ、会社に顔を出さなくなっても、一抹の寂しさはあったけれども智哉の心に大きな変化は起らなかったし、なんの行動もとらなかった。それが田舎に帰る直前に電話を掛けてきて、二人きりで池袋の喫茶店で待ち合わせして会うことになり、食事をすることになり、そして居酒屋に場所を変えて思い出話に花を咲かせてピッチよく酒を酌み交わすうちに、智哉のなかに彼女と別れがたい感情が湧いてきた。
 終電の時間がすぎても彼女は帰るそぶりを見せなかった。それまでは一度も智哉の前で酔いつぶれる姿をみせたことのない彼女が、その日はじめて泥酔しテーブルに突っ伏して眠りはじめた。智哉は何度も彼女を起こそうとしたが一向に起きようとはしなかった。具合が悪そうには見えなかったが、ひとりで立つことができず、やっと立たせて歩かせようとすると足元がおぼつかなくすぐにアスファルトの上に崩れ落ちようとした。
 彼はなすすべがなく困り果てた末に彼女をタクシーに乗せ、自分のアパートに連れ帰った。その夜から彼女は智哉のアパートで生活するようになった。
 簡単な料理ができる程度の鍋釜はあったが、二人で生活するのに必要なものは彼女が買いそろえてくれた。朝ごはん、夕ご飯は準備してくれた。散らかり放題のほこりまみれの状態だった部屋も彼女のおかげで見違えるほどきれいに掃除され、整理整頓された。
 真由美がどのくらいの間彼の部屋に寝泊まりしたのか、彼に定かな記憶がない。一、二か月だったような気もするし、もっと長い期間だったような気もする。しかしそれもあやふやで確かな記憶が残っていない。
 いずれにしても一緒に生活したのはそう長い期間ではなかった。彼女が智哉の部屋を出ていった日の前日の夕方、彼女が準備してくれた夕ご飯を食べ終わって、彼女が炊事場で食器を洗っていた時だ。
「奥さんみたいなことは、やめてくれないか」
 智哉はそう彼女の背中に一瞬でその場の空間を凍らせるような言葉を投げつけた。
 智哉は自分の部屋なのに自分の部屋でなくなっていくような、なんとも落ち着かない気持ちが高じていたのだ。机や本棚だけでなく、部屋のなかすべてが彼にひと言の相談もなく彼女の意のままに整理整頓され、買い足されていた。
 彼には、彼女の言動すべてが、これから帰郷する人の行動とは縁遠いものに思えていた。本当のところはそうではなかったのかもしれないと考えられるようになったのは、彼女が置き手紙を残して智哉の部屋を出ていった日の深夜からだ。彼女との深い絆に気づかされた。智哉は自分がどれほど彼女のおかげで救われていたのかを思い知らされた。だがなんの行動も起こさなかった。手紙を出すとか電話をかけるといった簡単なことですらせぬままでいた。彼の生活から張りのようなものが失われ、虚脱状態が彼を責めさいなんだ。
 真由美が辞めて半年あまり後、智哉もその出版編集プロダクションを辞めた。

         ☆

 待ち合わせ場所の北東口の改札が見えるところで、こちらに背をむけるようにして立っている小さな姿が見えた。
 この数日間、智哉は佐貫真由美、そして自分の子どもだという少女のことばかりを考えて過ごした。出会いの頃のこと、最後の数日間のことなどを懸命に思い出そうと記憶を遡っても、不鮮明すぎて落ち着かない気持ちが募るばかりだった。
 グレーのベストに格子縞の入ったミニスカート、白のロングソックスに黒のシューズ、ベストの下に薄い水色の半そでシャツ。
「こんにちは」
 智哉の挨拶に佐貫真美はこくりと頷いて、一週間前に会った時のジャージではないスーツ姿の智哉を、品定めするような目でしばらくじろじろ見ていた。
 彼は彼で、目の前に立つ少女の顔立ちを改めてじっくり見た。髪形や背格好をいくらつぶさに観察しても自分の娘だという片鱗どころか親近感すら湧いてこない。
「お母さんが言ってた通り」
「なにが?」
「とても時間にうるさくて、約束の時間に遅れたことがないって」
 彼女はおもちゃのような蛍光ピンクのバンドの腕時計を見ながら言った。
 智哉はそれには答えず、その場を見回しながら訊ねた。
「病院は近いの?」
「はい」
「僕が今日訪ねることは」
「伝えました……」
 少女の表情が曇った。そしてこらえるように下唇をかんだ。
「なにか問題でも……会いたくないとか」
「いいえ」
「具合いが悪いとか……」
「いいえ。……ただ」
「ただ……?」
 今度は彼女が彼の問いかけに応じず、無言のままくるりと改札口に背を向けた。
 佐貫真美はわき目もふらず人ごみをすり抜け、歩みを止めることなく足早に歩いていく。案内されているという感じではない。智哉は無言で突き進んでいく彼女に遅れまいと歩調を合わせてくっついていった。
 病院受付ロビーを突っ切りエレベーター前で立ち止まり、智哉のことを確認するかのように一瞬振り返った。その後は無言のままエレベーターの刻々と変わる表示階の数字を見比べていた。一番早く一階フロアーに到着しそうなエレベーターの脇に移動し、智哉の顔をちらと見た。エレベーターが到着し扉が開くと家族連れと入れ違いに乗り込み、目的階のボタンを素早く押して箱の奥まで下がった。
 一連の動作があまりに早くて、彼女がどの階数ボタンを押したのかわからなかった。やがて扉が静かに閉ざされるとエレベーターは彼らだけを載せて上昇をはじめた。上層階の階数ボタンのランプがひとつだけ灯っていた。
「このフロアーです」
 扉が開くと彼女は口を開いた。
 エレベーターを降り右の方へ歩いていく。上質なベージュ色の水玉柄の床カーペットを踏みながら彼女についていく。
 ホテルのような部屋が片側にずらりとならんでいる。反対側はガラス窓で腰の高さくらいの位置に頑丈そうな手すりが設けてある。北側に当たるのか、日差しは入ってこない。高層階だけになにも遮るものがないのでとても明るい。下を走る車や歩道を歩く人の姿が眺められた。
「この部屋です」
 こんな高級ホテルのような個室に入院しているのかと、智哉はちょっとまごついた。
「いきなり僕が先に入っていいの?」
「それもそうだね」
 そう言うが早いか、少女はノックせずにドアを押し開いた。
「真美?」
 奥の窓際の方から声がした。入り口から相手の姿は見えない。智哉は少女の後について奥へ入っていった。
 智哉と彼女の眼が合う。彼女は起こされた電動ベッドに背を持たせかけていた。
 ――この人なのか……
 おぼろげな記憶の中の彼女と重ならない。どこがどうと詳らかに言うことができないが、雰囲気が違う。智哉はあらかじめ用意していた再会の言葉を飲み込んだ。
 こちら側に向けられた顔は、化粧のせいもあるのか健康そうな色艶があった。よく手入れされた癖のない黒髪がその印象を冴え立たせている。
「連れてきちゃった」
 智哉は笑みを浮かべてこちらを見ている彼女に黙礼した。
「………………」
 彼女の顔から微笑みが消えた。
「ど、どちらさまでしょうか?」
 彼女の第一声に慌てた少女がベッドに駆け寄った。
「なに言ってるの? 忘れちゃったの? あんなにうれしそうに話してたのに。その人なんだよ、この人は……」
 そのあとは言葉にならなかった。少女の顔を曇らせていた理由がこれだったのかと智哉は咄嗟に思った。
 不安げな顔が彼女の腰のあたりにかかっている白い上掛けをつかむ少女に向けられ、「先生を呼んできて」と弱々しく震える声で頼んだ。
「お願い、いますぐ先生を」
 少女は次の瞬間すっくと立ちあがると足早に病室を飛び出していった。
 智哉はなにが起こっているのか、いま自分がどういう立場に置かれているのか、どう対応したらいいのかわからず呆然とベッドサイドに立っていた。
「近石です」
 それだけ言うのが精いっぱいだった。
「………………」
 彼女は彼の声が聞こえてないのか、起こされた電動ベッドの背にもたれかかったまま、無表情な顔を扉の方へ向けて瞬きひとつしない。
 智哉はこの時自分がどれだけたくさんの問いや言うべきことを抱えてきたのかに気づかされた。と同時に、そのただひとつも解消されることはないだろうとも。
 その時看護師が病室に入ってきた。
「ご主人ですか?」
 智哉と目が合うといきなり看護師がそう訊ねてきた。
 適切な言葉が見つからずまごついていると、看護師はさらに問いかけてきた。
「真由美さんから、少しですがお話はうかがっています」
 智哉は手紙に書かれていた信頼できる看護師とは、この人のことなんだなと直感した。
「ちょっと事情がありまして……一緒に来た子はどこへ?」
「どなたかとご一緒に来られたんですか?」
「はい。今日その子に案内されて初めてお見舞いに」
「そうでしたか。真美ちゃんですかね」
「入院していることもついこの間知りまして」
「そうでしたか。失礼いたしました」
 頭のなかで「当人かどうかはっきりしない」という言葉が浮かんだが口には出さなかった。
「訳あって長く別居していらっしゃるとうかがっていました」
「別居?」
「ご病状についてはお聞きおよびでしょうか?」
「いえ、なにも……」
「そうですか、ではここではなんですから、別室の方へお越しいただけますか?」
「あの、ちょっと待ってください」
「はい?」
「実は、込み入った事情がありまして」
 智哉は看護師にどう説明したものか戸惑った。
「おっしゃりずらいこともあるでしょうから、とりあえず別室で」
 病床ベッドの真由美の方をちらりと見て目礼すると、くるりと背を向けた。
 智哉は促されるままに病室を出た。出際に、ベッドの方を見ると佐貫真由美は何事もなかったかのように微笑んでいた。
 その階の相談室に案内され、しばらく待たされた。
「担当の真鍋です」
 相談室に入ってくるなりそう自己紹介すると、智哉の反対側のソファーに腰を下ろした。精悍な顔つきの智哉と同じくらいの年恰好の医師だった。
「病状についてお聞き及びでしょうか?」
「いいえ、なにも……」
 智哉は真鍋医師から病状について簡単な説明を受けた。腫瘍が災いしているのは確かだが、どうしてそんな難しい症状が現れるのかよくはわからない、と率直に告げた。彼女の脳細胞を蝕む腫瘍が散らばるように巣くっているという。取り除くにも細かすぎていまのところ手術は不可能とのことだった。予兆もなく突然ある部分の記憶がなくなったりまた戻ったりしているらしい。いまは腫瘍の拡散と増殖抑制のため抗がん剤を時期と分量を決めて慎重に投与しているとのこと。いずれにしてもこの先なにが起こるか予測がつかないし、いつなんどき重篤な状態に陥ってもおかしくないとのことだった。
「医局の方にいますのでなにかありましたら声をかけてください」
 そう言うと担当医は立ち上がった。
 ナースセンター前の廊下で看護師から「真由美さんの言うことに適当に話を合わせて対応してください」と頼まれた。間違いを指摘されるととても動揺して手がつけられない状態になるときがあるからだという。
 智哉は同じ階の待合室や休憩室など少女がいそうなところを覘いてみたが、彼女の姿はなかった。仕方なくひとりで病室に戻ると彼女はすでに戻っていた。
「どこ行ってたの? 探したんだよ」
「気持ちを落ち着かせるためにトイレにいた」
「そうか。……いま真鍋先生から病状の説明を受けてきたよ」
 彼女はそれには応えず、椅子から立ち上がると窓際に立てかけてあった折りたたみ椅子を持ってきて、自分の椅子の隣に置いた。
「ごめんね。いきなり変な紹介の仕方しちゃって。改めて紹介するね。担任のマノ先生」
 なんの打合せもなく彼女は智哉のことをそう紹介した。
「ああ、そうだったの。それは大変失礼いたしました」
 彼女の顔から不安な表情は消え、微笑みをたたえている。その包み込むような微笑みに見覚えがあった。抱いていた違和感がわずかだが薄れている。
「お加減はどうですか?」
 看護師の注意を頭に浮かべながら口を開いた。
「ええ、いつもと変わりません」
「ずいぶん元気になったよね」
 智哉は少女の話に調子を合わせて、しどろもどろながらもなんとか会話をつないでいった。
「どういう字を」
「えっ? マノの字ですか?」
「はい。珍しいお名前なものですから」
「真実の真に、野原の野です」
 混乱する頭でとっさに思いついた文字を答えた。
「真野先生ですね。それじゃあそれほど珍しくもありませんね」
「そんな言い方、ないよ」
「そうね、すいません。で、今日はどういうことでいらしたんでしょうか?」
 智哉にその問いかけに答える準備ができていなかった。
「なにを言うのよ、お見舞いよ」
「ああ、それはどうもありがとうございます」
 ――真野先生、担任の教師……
 彼は頭のなかで反芻した。
 病室を去る時になっても佐貫真由美の記憶は戻ってこなかった。発展しない言葉少ない会話に終始し、当然知りたいことはなにひとつ解消されなかった。
 案内してくれた看護師に声を掛けようとナースセンターの方へ向かおうとしたところ、真美に「いつも黙って帰ってるから」と遮られ、ナースセンターとは反対方向へと智哉を誘導した。
「今日はごめんなさい。せっかくお見舞いにきてもらったのに、ああいう状態で。この間話してたときはちゃんと憶えていたのに……。正直言うと、お見舞いにくると言ったら、驚くほど興奮しちゃってお家に帰りたいとまで言い出して大変だったんです」
 別れ際に目を潤ませて詫びた。
「今後のことだけど……」
「………………」
「どうするかだけど、ちょっと落ち着いて考えてみる。名刺を渡しとく。今日はこのまま帰るけれど、なにかあったら連絡してきてください。いつでもいいから」
「ありがとう」
 なにか不透明なフィルターが視界を遮っているような釈然としない印象をぬぐえぬまま、家路についた。

 まっすぐ自宅に戻り机に向かったものの仕事に集中できなかった。原稿の内容がすんなり頭に入ってこず、何度も同じところを読んではまた戻るということを繰り返していた。
 なんのひらめきも手ごたえもないアイデアばかりしか思い浮かばなかった。このまま無理して続けていても好転するように思えなかった。かえってマイナスになりかねないと諦め、冷蔵庫に残っていたものをつまみにウイスキーを飲みはじめた。
 いつもは聴こえない、かなり遠く離れた高速道路を走る車の音が聴こえる。部屋のダウンライトを暗めに調光し、ベランダの窓を開放してその走行音を清流の音と自分の耳に思い込ませようとしていた。そのあまり効果的とはいえない努力をあざ笑うかのように彼の携帯電話の着信音が鳴った。ソファーから腰を上げ、机に向かう途中でデジタル時計を見た。午前零時を半ばすぎた時刻を表示していた。
「真美、佐貫真美です」
 智哉は咄嗟になにかよからぬ変化が起こったのかと思った。
「どうかした? なんかあった?」
「いいえ、今日のお見舞いのお礼が言いたくて」
「ああ」
「まったく変わりがないわけじゃないけど、いつもなんかしら驚かさられることばかりだから、慣れっこになっちゃってる。お父さんが帰った後、お母さんの質問攻めにくたびれちゃった」
「いま自宅?」
「はい」
「住まいを訊いてなかったね」
「富士見ヶ丘。病院の隣の駅」
「ご家族は?」
「おばあちゃんが亡くなってからはお母さんとふたりきり」
「じゃあ、いま君ひとり?」
「はい」
 ――母子家庭……いまはひとりきり……
 闇のなかで、受話器を耳に押し当てて立っている少女の姿が浮かんだ。
「食事とかはどうしてるの?」
「ヘルパーさんがやってくれる」
「お手伝いさんがいるんだ」
 お手伝いさんを雇うほどの経済力があるということか、と智哉は意外に思った。お金のことについての疑問が浮かんだが、訊けなかった。
「なんか感じるものがあったみたい、お母さん。なんかしらの思いがそうさせているんだろうけど。とても親近感を覚えるって言ってました。でも担任の真野先生ということは変わってないから、国語の先生ということになってるから、今度会った時に頓珍漢なこと言わないでください。話の辻褄が合わなくなると動揺するんです。どんどん記憶を失くしているのにね。これからつかなきゃいけない嘘がいっぱいになるような予感がする」
 気落ちしている様子の彼女に掛ける言葉が浮かばなかった。
「とても元気そうに見えたけど」
 智哉は初めて彼女の顔を見た時の印象を伝えた。
「簡単に言っちゃって。今日一日しか見てないくせに」
 過去の消えかけていた佐貫真由美の表情が上書きされていく。
「近いうちにまた伺うよ」
「約束だよ。あっそうだ。訊くの忘れてたけど、お父さんはひとり? 結婚してるの?」
「してない」
「つき合っているような人は?」
「いない」
「残念だね」
「なんで?」
「なんでもない」
 真美は電話を切る際、しおらしいことを言った。
「面会時間はあってないようなものだから、お父さんが会いたい時に会いに行っていいんだからね。いつでもいいから会いに行ってあげてね」
「そうする」
 そうは言ったものの、今後の彼女たちとの関係がどういうことになっていくのか、なにをどうしていけばいいのかわからなかった。
 病室でのことを思い浮かべると、暗澹とした思いに押しつぶされそうになる。目の前に潜り抜けることができない、もやもやしたものが立ちはだかっているように思える。
 少女の誕生月は十一月だった。少女の口から出てきた情報だった。入院直前の母親とふたりきりの誕生会の思い出を、遠い昔話のように懐かしげに語ってくれた。
 
         ☆
 
 病院のナースセンターに立ち寄り、面会者の名前を記帳する際、智哉は一瞬「真野」にすべきか本名にすべきか迷った。だがすぐにその迷いは解決した。真由美に明かせなくても病院に嘘をつく必要はないことに思い至ったからだ。
「近石智哉」と記入し、面会者のバッチを受け取った。
 見舞いに行った日からさらに佐貫真由美と真美のことが智哉の頭から離れなかった。生活の一刻一刻に重くのしかかっていた。これからどうつき合っていけばいいのか、真美のことはどうすればいいのか、すぐに行動に移せる結論はなにひとつ得られていなかった。
 智哉に再度の見舞いへのためらいはなかったが、いたずらに時間ばかりが経過していた。この日、意を決して病院へ行くことを決意した。あらたな進展はそこからしか得られないように思えたからだ。
 病室の扉をノックする時緊張で固まっていた。返事があったのかなかったのか、定かでないままにぎこちなくドアノブを押し開いた。
「こんにちは」
「ああ、真野先生。こんにちは」
 起こされた電動ベッドに背を持たせかけている彼女と目が合うと、すぐに笑顔で挨拶を返してきた。初めて見舞った時の印象とはかなり違っていた。肩に長く垂れていた艶やかな黒髪はなかった。彼女の頭部は色鮮やかな花柄のバンダナで覆われていた。
 真美の担任教師としての智哉のことは覚えていてくれたが、智哉が期待していた記憶は戻っていなかった。
「いかがですか?」
「はい、おかげさまで」
「今朝天気予報ではお天気は午後から崩れるとか言ってましたが、とてもいいお天気で」
 これまでにその日会った相手に、開口一番自分の方から天気のことを話題にしたことなどなかったなと思った。
「そうですね、清々しくて気持ちがいいです」
「ここからだと満開の時は見事な眺めだったでしょうね」
「ええ、それはもう、心が洗われるようでした」
 ――若葉に囲まれて咲く白っぽい花びらが心に沁みます。いとおしく感じられます。かつてこれほどまで心に深く沁み入ってくる桜を見たことがありません。身の周りのすべてのものに、姿や形を変えるあらゆるものに、もっと目をやり、心に深く溶け込ませるような生き方をしてくるべきでした……
 真由美の手紙に書かれていたことを思い出していた。
 しばらくふたりでテラスに植えられている山桜の若木を眺めていた。
「不思議なことなんですが、こうやって真野先生と桜の木を眺めていると、昔からずっとお知り合いだったような気がしてきます」
「真野という名前の人とですか?」
「名前ではなくて、ただこうしてご一緒にいるだけで、なにかとても懐かしいような、ほのぼのとした穏やかな心地がしてきます」
 ――ふたりで花見に行ったことがあっただろうか。
 智哉は自問していた。アパートからほど近い桜の名所の風景が浮かんできた。
「近石という名前に憶えはないですか?」
「チカイシさんですか?……」 
 彼の期待は外れた。
「真野先生はちっとも学校の先生という感じじゃないですね。なんか建築関係の設計とかデザインをなさっている方のような雰囲気をお持ちです」
「そうですか、国語教師には見えませんか?」
「ええ」
 智哉は軽く笑った。真由美も微笑んでいた。
 最後まで真由美は智哉に今日来た用件について訊いてくるようなことはなかった。おかげで当然訊かれるものとばかり覚悟して用意していた嘘はつかずにすんだ。
 ――なぜ知らせてくれなかったんだ。どうしてひとりで生む決心をしてしまったんだ。知らせてくれていたら事情は変わっていたはずだ。少なくとも十数年後にこんな悩ましい再会の仕方はしなくてもよかっただろう。
 ひとりで出産するようなことはさせなかっただろうし、おそらく君が抱えていただろう不安や恐怖を取り除いてあげられていたはずだ。そして、生まれてきてくれた子の成長をふたりして見守ってあげられていただろう。貴重な思い出を君と共有できていただろう。
 当たり障りのない話をしばらくしていると、昼の配膳が始まったようで廊下側からせわしない物音が伝わってきた。
「これからもちょくちょくお伺いしてもいいですか?」
 別れ際につい不用意に理由を問われた時のことも考えずに訊ねていた。
「ええ、大歓迎です。真野先生のお顔を見てお話しすることでとても穏やかな気持ちになれます。むしろこちらからお願いしたいくらいです。ぜひまたいらしてください」
 真由美は彼の申し出になんの疑問も抱いていないようだった。
 
 病院を出たところで智哉は真美の携帯へ電話した。
「どうしたの、こんな時間に」
 いきなり押し殺したような声が返ってきた。
「しちゃまずかったかな」
 智哉まで小声になる。
「授業中」
「あっ、ごめん。いま病室をでてきたとこなんだけど、とてもいい兆候があったよ。それだけ伝えたくて」
 真美の返事も待たずに電話を切った。
 その日の夜、真美から電話が掛かってきた。
「だめだよ、授業中は。携帯の電源は切っておく決まりなんだよね。お父さんのせいで居残り」
「マナーモードじゃなくて」
「そう、しっかり大音量でタンホイザー序曲が」
「ワーグナーの?」
「ほかになにがあるんですか」
「ごめん。以後は気をつけるよ」
「いいよ、こんどからは授業中は電源切っとく。緊急の時は学校にかけて呼び出してくれればいいから」
「わかった」
「だけど遠慮しないでね。本当は今日電話もらってすごく嬉しかったんだ。いつでも掛けてきていいからね。授業中はだめだけど」
 無邪気な笑い声が耳をくすぐった。
「お父さんの着メロは?」
「雪国」
「演歌の?」
 ウケたみたいで、真美が笑い終わるまでしばらく携帯を耳元から離した。 
「なんで君の携帯の着信曲はタンホイザーなんだい?」
「おかしい?」
「若い子なら今はやりのアイドルの曲とか選びそうなのになぜかなと」
「だって好きな曲なんだから仕方ない」
 真美は吹奏楽部に所属していて、管楽器の担当で、いまその曲を練習中というのが理由だった。
「じゃあ、お父さんはなんで吉幾三なの?」
「好きだから」
 智哉は笑いながら答えた。 
「お母さんがね、真野先生のことばかり話すんだよね。やっぱりなにか感じているんだと思う」
「近石としてじゃなくて?」
「うん」
「そうか」
「今度いつお見舞いにいく?」
「近いうちに」
「なにも遠慮いらないからね、お母さんはまた会いたいと言ってたし」
「実はこれからちょくちょく伺っていいですかって訊いたら、大歓迎ですということだった」
「やっぱりね、なんか感じているんだよ、お母さん」
「………………」
「ごめんなさい」
 言ってはいけないことを口にしたと思ったのか、真美が小声で詫びた。
 電話を切った後、険しい顔を高速道路を走る車の走行音が聴こえてくる窓の方へ向けたまま、暗い部屋で佇んでいるだろう真美の姿を想い浮かべていた。

         ☆
 
「あれからすぐネットで探して聴いてみた。『雪国』」
「どうだった?」
「ジーンときた。お母さんの歌だと直感した。当たりでしょう?」
 彼は歌詞を思い出してみた。
「なるほどね。そうとるか」
「CD、アマゾンですぐ注文しちゃった」
 欲しければ自分のCDをあげたのに、と口に出かかったが止めた。
「女の人が雪深い北国に男の人を追いかけていくというものだけれどね」
「そんな細かいことじゃなくて、女の人の一途な思いがよ」
「うーん……いっちょう前のことを言うんだな」
「タンホイザーは男だから逆パターンなんだ、お話。もっともっとお母さんとお父さんがつき合ってた頃の話が聞きたいな」
「つき合ってたといえるのどうか」
 真美に彼の言葉の真意が伝わらなかったらしく、聞き流された。
「東京ディズニーランドとか一緒に行ったのかな」
「行ってない。そもそもディズニーランドには一度も行ったことがない」 
「ええー、ただの一度も?」
「ないね」
「うそー。東京ディズニーランドは知ってるよね」
「知ってるよ」
「もしかして、子どもっぽいとかって思ってる?」
「いや」
「お父さんは仲のいい友達とかいないの?」
「うーん、東京ディズニーランドに一緒に行くような友達はいないかな」
「かわいそう、お父さん。じゃあ今度、私が連れてってあげるね」
「喜ぶとこかな、ここは」
「感じ悪い」 
 真由美とふたりきりになったのは仕事で一緒に行動した時くらいで、たまに仕事上がりに出先近くの居酒屋に誘うことはあった。
「こんど一緒に行こうよ、お父さんの初ディズニーランドデビュー」
「いや、やめとく」
 言った後、ちょっとした沈黙があった。
「他のところなら……」
「こだわるんだね。なんかあるんだ、東京ディズニーランドがらみで。当たりでしょ?」
「………………」
「いいよ、答えなくても。たいしたことじゃない、そんなこだわり。……どっか行きたいな、お父さんと一緒に」
「行きたいところはないの?」
「いっぱいある。お父さんは?」
 真美は頻繁に「お父さん」という呼称を口にした。智哉はそのたびに違和感を感じたが、あえて触れることはせずそのまま受け流した。
「お父さんが決めて」
「そうか、分かった」
「小学一、二年の頃のことだけど、日曜日なんかに公園とかに行くと、親と一緒に遊んでもらってる子が多いんだよね。子どもたちだけで遊んでるのってごくわずか。なかでもお父さんと一緒に滑り台やブランコで遊んでるのを見かけると、とてもうらやましかった。友達と一緒の時にはそれほど寂しさというか、うらやましさは感じなかったけど、ひとりで遊んでる時なんかはどうしようもない気持ちに押しつぶされそうになるんだよね。私にはお父さんがいないから叶えられないことだとはわかっているんだけど、仕方がないことなんだけど、どうして私はお父さんと遊ぶことができないんだろうって思ってた。私だけお父さんと遊ぶことを邪魔されているみたいに感じちゃって。おかしいよね、いまから思うと。……お父さんといまこうして電話で話していられることがすっごく幸せだよ。本当だよ」
「………………」
「クリスマスにね、サンタクロースに『お父さんを授けてください』ってほんとに真剣にお願いしたことあったんだよ」
「………………」
「いま笑った?」
「いや」
「ふって言ったでしょ、いま。真美には聴こえたよ」
「笑うわけないじゃないか。受話器を動かした時に息がかかったのかもしれないけど」
「嘘だね。もし笑ったんだったら、最低だよ、親として、人間として」
「………………」
「お父さんはお母さんと別れてから女の人とおつき合いしたことある?」
 思わぬ問い掛けに智哉はドキッとした。
「長続きしなかったけど」
「なんで?」
「親密になりたいという気持ちが薄いのかもしれない……」
 智哉は歳の離れた子ども相手になにを真剣に答えているんだろうと思い口をつぐんだ。
 その時学生時代つき合っていた井深貴子のことが頭に浮かんだ。真由美と出会う数年前のことだ。智哉の初恋の相手だった。
 彼女は智哉より数倍もたくましく、智哉はまるで子どもだった。なにごとにもクールに判断し、行動できる女性だった。泣いたり、わめいたり、ののしり合うようなことは一度もなかった。終始彼女の言いなりだった。
 おかげでいまになっても智哉は貴子とのことを思い出すと、忸怩たる思いが頭をもたげてくる。いまとなってはもうどうしようもない、解決できないことなのに考えこんでしまう。
 彼女は本当に子どもを堕ろすことを望んでいたのだろうか。心の底ではその逆の展開を期待していたんじゃないだろうか。一緒に育てていこうと強く主張していたら、その後の展開は変わっていたんじゃないだろうか。
 その後互いにわだかまりができ、会っても気まずく、かつてのように溢れる感情に身を任せ合える間柄ではなくなっていった。就活で周りがざわつき始めたあの日、キャンパスでスーツ姿の見知らぬ男と腕を組んで歩いている彼女と出くわした。目が合うと「こんにちは」と彼女の方から笑みを浮かべて声をかけてきた。腕を離すそぶりも見せなかった。そういうことかと智哉は納得して、「どうも、しばらく」とだけ返した。「じゃ、また」と言い残して校門の方へ歩き去っていった。その後彼女の姿を大学構内で何度か見かけたことがあったけれども、もう言葉を交わすことはなかった。 
 真由美とのこともそうだ。疑問が湧き上がってくる。もし子どもができたことを伝えてくれていたら結果はどうなっていただろう。貴子とのこと、その後長く引きずっていた後悔に似た感情を思うと、妊娠という事実を受け入れ、真由美と一緒に子どもを育てていく選択をしていたかもしれない。たとえ真由美に反対されても強く主張していたかもしれない。
 マンネリ化しかかった智哉の日常に、突然訪れた、思いがけない親密な人間関係。白黒つけるような解決策をいますぐ講じてしまうのは惜しいような気持ちになっている。真由美と真美という母子と薄くもなく濃くもない関係を続けていくことに、智哉は生活の張りのようなものを感じ始めている。
「さっきの話は約束だよ。男と女の」
「なんなの、それ?」
「なんでもいいじゃん。約束だからね」
 子どもっぽい笑いが返ってきた。智哉はそのこぼれんばかりの笑い声に嫌な感じはしなかった。むしろその逆だった。懐かしい幼い頃の記憶が甦る。
 
         ☆
 
「彗星」や「流星群」など思いつくままにネット検索していると、たまたま多摩六都科学館のホームページにたどり着いた。先進的なプラネタリュウムとして世界に認定されているという。
 智哉は真美との約束を思い出した。
 惹かれるままに「イベント」の見出しをクリックすると、近々「流星群」をテーマに上映、解説されるとのこと。多摩六都科学館は智哉の自宅からほど近いところにあった。
 クリアな星空を実際に自分の眼で見ることは、いまや都会では光害が多いため不可能に近い。多摩六都科学館の投影機は、本物の星空に近い映像をドームに再現できているという。
 ――疑似体験だが、ここなら美しい星空とリアルな流星の映像が見られそうだ。
 智哉は早速、まだ起きているだろう真美に電話した。 
「プラネタリュウムに行かないか?」
「ブラネタリュウム?」
「星空の魅力、素晴らしさをドームに映し出す」
「知ってる。そっかあ。どこ連れてってくれるのかなって思ってたら、プラネタリュウムとはね。お父さんってロマンチストなんだね」
「いい体験になるかなと思って」
「恋人同士でいっぱいなんじゃないの?」
「だめかな?」
「……いいんじゃない、プラネタリュウムで」
 携帯を耳元から離し、真美が笑い終わるのを待った。
「お母さんも一緒に行けたらもっと良かったね」
 
 多摩六都科学館は日曜日ということもあってとても混んでいた。空いている駐車スペースはほんのわずかしかなかった。真美を建物に近いところで車から降ろし、探し当てた空車スペースに停めた。   
 科学館の入り口は意外なところにあった。卵型の大きなドームを取り囲むすり鉢状の斜面の一番低い所に、その出入り口がある。
 科学館のなかに入ったものの次の上映時間までには三十分あまりも時間があった。しかし退屈はしなかった。真美と二人で地球の成り立ちや様々な鉱物、動植物の標本展示コーナーをゆっくり見て回った。
 余裕を持って戻ってきたのに、プラネタリュウムの入口にはすでに長い列ができていた。
「もうこんなに並んじゃってるよ」
 真美に急かされるようにして智哉も列の最後尾に並んだ。
 列に並んで間もない時だった。無言のまま前を向いて立っている智哉の左手をいきなり握ってくる柔らかくて生暖かい手があった。とっさに「あっ」と思ったが、手を引っ込めるような行動をとることができなかった。なにが起こったのかすぐには理解できなかった。瞬時にこころとからだを鷲掴みされ、身動きできなかった。頭の中が空っぽになった。
 入場が開始され、列が動き始めるまで真美は手を放してくれなかった。
 プラネタリュウム内部は、ドーム型のスクリーン天井を下から仰ぎ見ることができるように傾斜がつけられて座席が並んでいた。席に着いたところで、上映開始時間の案内と注意事項のアナウンスが流れはじめた。
 上映が開始されるとドームいっぱいに夕暮れ時の淡い朱色の空が映し出された。地上の建物や家の明かりもリアルに輝いている。まだ一番星の金星や木星などの明るい星くらいしか見えない。
 地上の明かりがだんだん少なくなってきて真っ暗になり、天井ドーム全体にたくさんの星々が輝きだした。観客の感嘆の声が漏れる。ホルストの組曲『惑星』の有名な「木星」のフレーズが流れはじめ、周りの人の気配が消え、ドームの映像に引き込まれていった。
 やがて今回の上映テーマである流星が斜めに走りはじめる。
「大きな氷の塊である彗星が太陽の熱で溶けはじめ、このように長い尾を引きはじめます。この尾の正体は一酸化炭素や窒素などのガスや微小な一グラムもない粒子です。それが宇宙にばらまかれていきます。そのまとまったチリ、粒子が大気圏に突入して燃えて放射状に放たれます。それが流星の正体です」
 落ち着いた男性の声の解説が続く。
 さまざまな星座の紹介がなされた後、ドームに映し出されていたたくさんの星の輝きが徐々に薄くなっていき、空が明るくなり明け方を迎え、上映は終了した。
「ちょっと短いよね、もっと長くやってくれればいいのに」
 ロビーに出るとすぐに真美が話し掛けてきた。
「いいんじゃないかな、ちょうど。小っちゃい子たちも結構いたし、また大人でも興味がなければ寝ちゃうかも」
「それもそっか」
 真美は智哉の手を握ったことなどなかったかのようだ。
「真美は?」
 智哉はこの時はじめて下の名前で呼んだ。自然に口をついて出てきた。
「ちっとも眠くなんかなかった」
 なんの反応もなかった。智哉はその素っ気なさに救われたような心地がしていた。
「あんなにいっぱいの星が空にあるなんて知らなかった。驚いちゃった。夜空見上げても月のほかにいくつかしか見えないから。あと、流星もすごかった。知らないことばっかりで面白かった。BGMの選曲も良かったし。有名な曲ばっかで、みんなも感動したんじゃないかな」
「音楽好きらしい感想だね」
「音楽好き? ふふっ、そんなことないよ」
「そうか」
「お父さんは?」
「楽しかったよ」
「お父さんと一緒に観れてよかった」
「そうか、連れてきた甲斐があったよ」
 慣れぬ雰囲気に緊張したのか、疲れたのか、その後連れて行った高級レストランでの真美は口数が少なかった。
「そうだ。今度うちの学校の中高吹奏楽部の合同定期演奏会があるんだけど、お父さん聴きに来てくれる?」
「合同?」
「そう。中高一貫校だから」
「いいよ、真美の演奏を聴いてみたいし」
「私の演奏会じゃないよ、吹奏楽だから」
「楽器はなに?」
「担当?」
「そう」
「オーボエとクラリネット」
「どんな違いがあるの?」
「オーボエはクラリネットよりやや短くて、音が違う。でもそんなに変わんない。似たような楽器。『タンホイザー』演奏するよ」
 車を運転しながら智哉はなんともいえない温もりに満たされていくのを覚えた。その心地よさとともに湧き上がってくる喜びに浸っていた。
「今日は素敵な星空を観せてくれてありがとう。真美は今日のお父さんとのデート、絶対、一生忘れない」
 
         ☆
 
「いつだったらこれる?」
 真美から電話が掛かってきた。真由美の病室からだった。真鍋医師が智哉に話があるとのこと。
 智哉に不吉な胸騒ぎが起こった。智哉は壁のデジタル時計を見た。病院の夕食時間を少し過ぎた時刻を表示していた。
「これからでも行けるけど……」
「今日はもう先生帰っちゃったと思う。明日は?」
「大丈夫」
「じゃあ、そのように看護師さんに言っとく」
 翌日の朝八時すぎに病院に着き、すぐに病室ではなくナースセンターを覗いたが、出払っていて誰もいなかった。真由美の病室に入るとすでに真美が来ていた。
「おはようございます」 
 先に声を掛けたのは真由美だった。
「時間ぴったりだね」
 真美がドアの方へ振り返って言った。
「ナースセンターを覗いたけど誰もいなかった」
 智哉は一階の花屋さんで買った花束を真美に渡した。
「マーガレットだ。お母さんの大好きな花」
「ありがとうございます」
 真由美は元気そうで、昨夜の懸念を吹き飛ばしてくれる笑顔だった。
まもなくして看護師が病室に姿を現した。
「いまナースセンターの方に先生がいらっしゃっていますが、よろしければいまからご案内できますが」と告げた。智哉は椅子から立ち上った。
 真由美の方を見ると、怪訝そうな表情を浮かべている。
「私も一緒に行く」
 真美が智哉の腕に縋りついてきた。
「お母さん、私も一緒に先生の話聞いてくるね」
 と言うと、真由美に向って小さく手を振った。
 再度のMRI検査で真由美の脳に大きな変化が生まれていることが分かった。散らばっていた小さな腫瘍が消えたかわりに、海馬近くの腫瘍は増殖して大きな塊となっている。小腫瘍が消滅していくのにつれ、感情や行動、また記憶に関係している部位に巣くった腫瘍の方は拡大し続けていたのだ。
 真鍋医師は安定した時点での腫瘍摘出手術を検討してもいいのではないかと勧めてくれた。このままなにもせずにいれば病状は確実に悪くなるとも言われた。
 病室に戻ると真由美の問い質したげな顔が待っていた。
 真美が手術で腫瘍を摘出できる可能性が出てきたと告げると、即手術快諾の答えが返ってきた。真美も智哉もその勢いに押されて、またよくなることを信じて同意した。
 手術の条件はそう遠からぬうちに整っていった。抗がん剤のおかげで散らばっていた微小な腫瘍はほとんど消滅し、海馬近くの腫瘍だけが前回の検査の時より大きな塊となっていた。
 
 二週間後、真由美の誕生月の二十六日に手術は速やかに行われた。同意書の保証人の欄には智哉がサインした。
 長時間の摘出手術後、執刀した真鍋医師により腫瘍の摘出はうまくいったとの説明があった。
 術後すぐに真由美は、麻酔が効いたまま集中治療室に移された。面会はできるとのことで、真美と智哉は集中治療室に案内してもらった。真由美の顔は青ざめて見えたが、表情は穏やかでいまにも目を開けてこちらに笑いかけてきそうだった。
 麻酔が解けても真由美の意識はなかったが、術後の状態は良好とのことで、間もなく病室へ移された。真鍋医師の話では順調にいけば記憶の回復も望めるとのことだった。智哉は真美と手術の成功を喜び合った。真由美の記憶の改善への期待が高まった。
 真美が病室のベッドサイドの引き出しから一通の封筒を出して、智哉に差し出した。
「なに?」
「お母さんからの真美宛ての手紙」
 封筒の表にも裏にもなにも書かれていない。彼は手紙を持ったまま真美を見た。
 言葉にしなかったが、真美には智哉の戸惑いが伝わっていた。
「お父さんに初めて会った時、お父さんは真美に訊いたよね。お母さんの手紙を読んだのかって。真美は本当に読んでなかったんだよ」
 智哉は真美が初めて彼のマンションを訪ねてきた日のことを思い出した。
「手紙の内容は読まなくても想像できた。真美が実の娘だということ、それを認めてもらえるような祈りに近い文面。娘を愛し、大切にしてくれるようにとの依頼、そして援助のお願い。とにかくそんな頼みごとがいっぱいの手紙だと想像できた。そんなへりくだったような、すべてを託すような、遺言みたいな手紙など読みたくなかった。
 受け入れてもらえなくても、認めてくれなくてもいい、ただ実のお父さんに会いたかっただけなんだ。
 名前とか、連絡先とか、写真とか、会いに行くのに必要な情報だけもらえれば良かった。お母さんからはいろいろお父さんのことを聞かされたけど、会う前からイメージを植えつけられたくなかった。会ってみて、その会った時のお父さんの印象を記憶に留めたかった。疎まれて、遠ざけられてもその記憶を抱いたまま生きていける。傷つくようなことになったとしても諦めがつく……。
 初めてお父さんのことを打ち明けられて、真美ひとりで会いに行くんだよ、お母さんの手紙だけを持って。いきなり『お父さん』って知らない人のことを呼ぶのにはとっても抵抗があったよ。でもそう呼んだ方がお父さんの本当の気持ちが分かるかなと思って……。真美は勇気を出して言ったんだよ」
「なぜいま打ち明けようと思ったの?」
「それは打ち明けてもいい相手だと分かったから。真美のことを大切に思ってくれる相手だと分かったから」
 彼女は窓の方へ顔を向け、涙をぬぐった。そして続けた。
「その真美宛ての手紙は渡された時にすぐにお母さんの目の前で読んだ。お母さんのお父さんを思う気持ちが伝わってきて、泣いちゃった」
「この手紙はいつ渡されたの?」
「最初の手紙を受け取った時と一緒。『こっちの手紙はすぐに読んでほしい』と言われた。真美はね、手紙に書いてあるお母さんとの約束を実行してくれる人なのかどうか、ずっと観察してたんだよ」
 真美は智哉の方へ顔を向けた。見開かれた目には拭いきれない涙が溢れていた。いまにも大粒の滴となって落ちそうだった。
 智哉は封筒から手紙を出して読み始めた。
「お母さんと近石智哉さんとの約束と誓いについて書き残しておきます。

▽約束について
 今は結婚はできない。しかし、君との関係はとても大切だから、その責任は一生背負わなければならない、と彼は言ってくれました。
 君以外の人と結婚することはない。だからといって君を縛り付けようとは思わない。僕の存在に惑わされなくてもいい。いい人があらわれた時は迷わなくっていい。なんのためらいも後ろめたさも抱かなくていい。君がほかの人と結婚することを祝福する。

▽誓いについて
 君が行き詰まり、どうしても僕の力が必要になった時は、迷うことなく頼ってきてほしい。僕はできる限りの援助をする。君の力になることを誓う。

 あなたはあなたの眼で、見極めなさい。そしてどうすべきか決めなさい。私との誓いのこと、そして、私に告げたことのすべてを、本当に実行する気持ちがいまもあるのかどうか、を。
 もし彼が私に告げた約束、誓いを忘れ、ほかの人とすでに結婚してたり、また援助の気持ちがすっかりなくなってしまっていたとしたら、その時は、あなたはなにも言わずに彼の前から立ち去りなさい。そして二度と会わないことをお母さんに誓ってください。あなたは近石さんを責めてはいけません。決して、決して近石さんを憎んだり恨んだりしてはいけません。
 私が死んだ後あなたがどういう環境におかれ、どういう人間に育っていくのかを考えるととても心配だし、不安な気持ちでいっぱいです。胸が張り裂けそうです。しかし仕方がありませんね。近石さんになにも知らせずひとりで勝手にあなたを産む決心をしたこの私を恨みなさい。無分別な母親だった、と」
 手紙から真由美に目を移すと、変わらず眠っているような穏やかな表情でかすかな寝息を立てていた。
 ――僕は真由美と手紙に書いてあるような約束も誓いもしていない。だけどなんの不快感もない。真由美がそんな事実と違う「約束」と「誓い」を記さざるをえない、やむにやまれない理由がわかる。逼迫した状況と心理状態だったことが容易に想像できる。その思いが強ければ強いほど記憶が書き換えられ、すり替わりやすかったのに違いない。
 真由美は自分の病気についての告知は入院する時にすでに受けていた。脳に腫瘍があり、それも手術はできないこと、そして抗がん剤と放射線で増殖を抑え込めなければ余命半年だとも告げられていた。
 真由美は投与される抗がん剤の副作用に苦しみながら、思いつくいろんな手配や手続きを進めていた。それ故、あれほどまでに産む決心をした時には智哉に知らせまいという自分への誓いにもほころびが出はじめ、最終的には反故にせざるを得ない方へと傾いていった。そして一縷の望みを託したくなったのだ。

         ☆

 智哉の人生に突然飛び込んできた、真美。その出会いには、なにか特別な意味が存在するはずだ。
 多摩六都科学館のロビーで、真美にいきなり手を繋がれた時の柔らかくて生暖かい感触が甦ってくる。その手を通して幼い命の温もりが伝わってきた。無条件に庇護の対象として認知された瞬間だった。あの感触と感情が父性愛というものの根っこに存在するものなのかもしれない。
 人は真に求めているものに出会うために生きているという。いまや智哉にとって真美の存在は、何物にも代えがたい、唯一無二の存在として感じられている。

 真由美の意識が回復しない時間が長引けば長引くほど、智哉のなかの不安が増大していく。その不安が不吉な予感となって居座り続ける。時に抑えがたい胸騒ぎとなって襲いかかってくる。
 その予感と胸騒ぎが現実のものとなる事態が起こった。真由美が一瞬とはいえ原因不明の心停止状態に陥ったのだ。素早い処置ですぐに蘇生はしたものの、智哉と真美に与えた衝撃は大きかった。
「お母さん、死なないで!」
 真美が人工呼吸器と心電計につながれた真由美の枕元で叫んだ。
「真美をおいてかないで!」
 真由美がそれに応えて微笑んだように見えた。
「真由美、目を覚ましてくれ」
 智哉は自分の発した言葉に感情がこみ上げてきて、
「これからじゃないか。これから三人の思い出を作るんじゃないか」
 と、嗚咽を抑えきれなかった。

 それ以降心停止するようなことはなかったが、真由美の意識は一か月経っても二か月経っても戻らなかった。真鍋医師からは無情にも医療方針の見直しと次の段階への検討を促されている。
 急がなければならない、と智哉は思った。ネットで民間の検査機関を検索し、迷わず鑑定検査キットの送付を依頼した。
 DNA鑑定などせずとも、役所の戸籍窓口で認知届けを提出するだけで法律上の親子関係は認められる。すぐにそうしなかったのは親子関係を疑っていたからではない。後からあらぬ悩ましい疑いが頭をもたげてこないように、この機にその確証を残しておいたほうがいいと思ったからだ。
 真美には戸籍法上、親子関係を確定させるのにDNA鑑定が必要だと嘘をついた。真美に親子関係を疑っているのかという誤解を抱かせたくなかったからだ。

 真美は智哉の支援を受けながら、さらに濃密な父子関係を日々深めつつ暮らしている。認知届も智哉の住居地の市役所戸籍窓口に提出済みで、智哉と真美は法律上でも親子となっている。DNA鑑定結果の報告書の方は、封が切られることなく智哉の自宅マンションの机の引き出しにしまい込まれたままだ。
 心音を知らせる電子音が冴え立つ集中治療室のベッドで、真由美はいまもただ眠っているかのように穏やかな表情を浮かべている。コンブがそれまでしっかりしがみついていた岩礁から剥がれ、不確かな流動に身を任せてたゆたっているような、そんな頼りなさを漂わせている。 
 ふとため息をつきたくなる気重い日々のなかで、智哉の救いは、けなげに努めて明るく振る舞う真美の存在だった。

 


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