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雉子の弔い

 父恋し母恋してふ 子の雉子は
 赤と青とに 染められにけり
             (北原白秋/『雀の卵』増補)


 到着ロビーへと続く連結通路は、母を上京させた日と同じくらいの強い日射しにさらされていた。まともに眼を開けていられない。
 朝からなにも口にしていなかったが食欲はなかった。頭がどんよりとしてキリッとした感じがない。夜勤明けのいつものことだ。フライト中ちょっとうとうとしたもののそんなもので抜けきれるはずがない。
「えす(怖)かー」
「大丈夫だよ。落ちやしないよ」
「うちは寝台列車のほうが良か。飛行機は好かん」
「時間がかかりすぎるよ。疲れ方も違うし」
「お前が帰ってくるときはいつも飛行機やったっね?」
「そうだよ」
 青臭い、淡々とした記憶の断片がなんの前触れもなく、雑多な感情を伴って甦ってくる。それを気楽に受け止めていられたのも初めのうちだけだった。
 レンタカー会社で借りた白のセダンの車内は焦げたような灼気が籠っていた。おかげでシートもハンドルも驚くほどの熱を帯びていて、あっという間に汗が噴き出してくる。冷房を最強にセットしても熱風しか出てこない。たまらず運転席側のウインドーを下げたが、溶けかかった路面のアスファルトの臭気が流れ込んでくるだけだ。
 九州自動車道の下りは空いていて一時間足らずで南関インターチェンジに着いた。そこで一般道へ降り、さらに南下し続ける。山林や田畑のもえぎ色の風景が白っぽい景色に変わるあたりから、ぽつぽつと見覚えのある建物が目に飛び込んでくる。新しい装いを纏った建物や区画整理された街並みに惑わされても、向かう方向に迷うほどではなかった。 

 今年の五月中旬に、十何年と診て頂いていた主治医から電話がかかってきた。その日CT検査の結果が出ることを事前に聞かされていたので、病院名を聞いてすぐに察しがついた。
「率直に申し上げますが、検査結果は決していいとは言えません。すぐ入院するようにお勧めしているんですが、承知していただけません。それでご連絡を……」
「母はなんと言ってるんでしょうか?」
「息子さんのいる東京へ行きたい、と。検査結果の内容をいまご本人にお話ししたのですが、ご自身の病状についての理解は深くないようで」
「やはり胃ガンだったんですか?」
 昨年の暮れに母から電話が掛かってきた時、胃が頻繁に痛むと訴えられ、もしかすると胃ガンかもしれないと思ったことがあったのでそう尋ねていた。
「いえ、すい臓です」
 医師はなんのためらいもなく教えてくれた。病状についての説明を受けている間、そばにいるであろう母の様子が気になった。
「年齢的に外科手術は難しいとお伝えしました。……お母さんと代わりましょうか?」
「はい。お願いします」
 返事をしてから母が出るまでに時間がかかった。補聴器をピーピー鳴らしながら医師のそばに坐っている姿が脳裏に浮かんだ。
「なんの心配もいらんよ」
 電話口に出るなり、母はそう言った。そして、私が口を差し挟む間も与えないで、絞り出すように気遣う言葉を口にした。
「……お母ちゃんの腎臓はだめなごたるね」
「腎臓じゃなくて、すい臓だそうだよ」
「すい臓ってなんね?」
「手術はもうできないそうだよ。もう年だし、しかたがないね」
 明るく言ったつもりだったが、手応えはなかった。
「死ぬのは怖くはなか。寝込んであんたたちに迷惑ば掛くっとが心配たい」
「なにを言うん。すぐそうなるわけじゃなか」
「先生はすぐ入院した方がよかと言わすばってん、お前のところに行きたか。どう思うね」
「お母ちゃんがそうしたいのなら……」
「そうね、ありがとう。そんなら一日も早くその段取りばしてくれんね」
「わかった」
 私は即答した。なんでもしてあげたいという思いがこみ上げてきた。
「先生に代わってくれるかい」
 医師が告げる末期という病状や三ヶ月という余命に現実感が伴わなかった。上京させたいという意思を伝え、「紹介状」の依頼をして電話を切った。 

「早うお前んとこに連れて行ってくれんね」
 それが老人ホームの母の個室に入るや否や私に発せられた言葉だった。なんの感情も読み取れない、うら寂しい山奥の林間をさまよう風のような声のトーンだった。
 上京後の病院探しと手続きに思いのほか日数をとられてしまい、帰郷が遅くなった。母はこの日を待ち焦がれていたのだろう。その一日一日がつらく耐え難いものだったのにちがいない。
 老人ホームの介護職員の話によると、食事がほとんど摂れない状態が続いているとのことだった。母に尋ねると「食欲がなかもん」と生気のない答えが返ってきた。
 食欲不振、吐き気、そして衰弱からくる脱力感が襲っていたのだろう。わずかな間に痩せ衰え、それまで楽しみにしていた老人仲間との食事会にも趣味の俳句の集まりにも参加する意欲をなくしていた。プライド高いところがあったから、みんなから体調のことを案じられたり、気を使われたりすることに耐えられなかったのかもしれない。
 老人ホームに入居以来、外出しない日は、階下のホールで他の入居者と一緒に食事をとっていたが、食欲が細りはじめたころからは隣室の親しい入居者に誘われても階下に降りることがなくなったという。
 私が訪問した初日の夕食時、母の食事はトレーにのせられて部室に運ばれてきた。汁もの以外ほとんど手をつけず、配膳されてきた時のままのトレーを私の方に押しやり、「こんまんま(このまま)部屋の前に出しとってくれんね」と頼んだ。
 上京の荷造りをしている時、母が「夏物を持っていって着るということがあるじゃろか」とうす紫のワンピースを手にしてぽつりと漏らした。電話で「お前のところに行きたか」と言われた時よりもさらに弱々しい口調だった。
 深い考えもなく「持っていっといたほうがいいんじゃないかな」と私は片づける手を休めずに答えた。上京後に夏着を着て出歩けることがあるだろうかという、そのままの迷いから出た言葉と受け取っとっていた。「夏まで生きていられるだろうか」という切迫した意味ではなかったと思う。
 初日から整理し始めた化粧箱は、布団袋ひとつを除いて計四個にもなった。
「僕らが帰り着く日には届いているはずだよ」
 狭苦しくなった部屋のなかでうら寂しい雰囲気を漂わせて坐っている母を元気づけるつもりで言ったが、なんの効果もなかった。
 捨てるものをまとめてごみ置き場に持っていった時、母自身の手で処分したと思われる品々を見つけて愕然とした。私や姉、そして父の写真が収められているアルバムが捨てられていたのだ。厭世的な気持ちに傾いている母の心の奥ひだに触れたようで目頭が熱くなった。
 孤独で滅入りそうになった時などの気晴らしや慰めになっていたであろう思い出の記録だ。「あんたたちの写真を見とるとなんか心がぽーっと温くなってきて時間が過ぎるのを忘れる」と言っていたのを思い出す。家族旅行写真、私と姉の結婚式の写真、私ら夫婦の欧州旅行の写真を編集したアルバム、そして私の手書きの長い旅の記録も含まれていた。母と同居することも考慮して購入した家の内部を撮影した、最近の写真までもが捨てられていた。母の心の奥底に生まれている覚悟のようなものが感じとれた。

 西鉄大牟田線新栄町駅近くのホテルにチェックインし、フロントであてがわれた五階のツインルームに入るとすぐに突き当りの窓を開け放った。心なしか涼しさを感じることができる。窓外に頭を突き出さずとも市の繁華街が見渡せる。錆が目立つ古めかしいシャッターを閉じたままの店がやたらに目立つ。
「廃れゆく街」などという表現は使いたくないが、こうもあからさまに目の前に晒されれば抗うこともできない。石炭と関連産業で栄えたかつての活況ぶりを彷彿させてくれるものはない。記憶を掘り起こしてやっとその名残を感じることができる。当時の豊かさのなかで育った者には、この落差は足元をさらわれたようでたまらない。忍び寄る寂寥感に鳥肌が立つ。
 両側に軒を連ねる店舗やスーパーが低層な建物ばかりのせいか、市の真ん中を南北に貫く国道がやけにだだっ広く感じられる。メインストリートなのに行き交う車はこの時間にしては多くない。
 いびつな形をした山が幾重にも重なっているのが眺められる。外へ出てみようと思う。フロントにルームキーを預け、地下の駐車場から車を出して駅前通りを大牟田駅方向へと走り出した。
 国道208号線を荒尾方向へやや下った左手に市役所の庁舎が、そして右手に大牟田駅舎が現われる。駅舎の佇まいは昔のままだ。ロータリーの中央に枯れかけた椰子の木が枝を広げている。
 さらに国道を下っていくと諏訪川に差し掛かる。この辺りから熊本県に入る。川に架かる橋を渡りきり国道から川沿いの道に逸れて間もなくすると小さな堰が見えてくる。
 堰と周辺の風景はすっかりおもむきを変えていた。護岸工事が完璧に施され、かつて青々とした雑草が蔓延っていた土手は、真新しいコンクリートに余すところなく覆われ日にさらされている。車を路肩に停めて降り立った。
 堰下の岩はすべて取り除かれているのか、上流の緑藻まじりの水は堰から滑らかな弧を描いて数メートル下の水面に吸い込まれ、所々で小さな渦を巻いている。穏やかなものだ。かつては堰の上から大量の流水が岩肌に落ち、砕けてしぶきが舞い、間近でそれを浴びる幼児に受け止めきれない怯えを抱かせたものだ。
 深まりから溢れた水は岩の間を抜け、ゆるやかに河口へと流れている。河口を経たその先が干満の差が数メートルにも及ぶ遠浅の有明海だ。
 父とは帰省中よく一緒に魚釣りに出掛けた。この堰にもいくどか足を運び、河口周辺の泥濘を掘り起こして捕獲したゴカイを餌に、竿を操って思い思いのポイントに仕掛けを打ち込んで釣果を競ったものだ。満潮時には海水に押し上げられた淡水魚の鯉だとか鮒などのほか、スズキやボラなどの大物が思いのほかたくさん集まっていて、短時間に思わぬ釣果をあげられる父と私の好釣り場だった。川面に目を凝らしたが、魚の気配がない。
 父は無骨な風貌には似つかわしくない、ナイーブで感傷的な一面を持っていた。
 初めての帰省の時から父とは朝早くから自転車で近場の海やこの堰ダムに釣りに出掛けていた。釣行が帰省中の習慣のようになっていた。父の死後母の口から聞かされたことだが、私が東京へ帰った後ひとりで私と一緒に出掛けた釣り場へ足を運び、私と共有した時間を思い返していたという。その話を聞いて鳥肌がたった。
 まだ生々しい記憶が居坐る場所に無防備に身をさらせばどうなるか。交わした言葉や表情のひとつひとつが鮮明に甦ってきて、生半可ではない寂寥感に責めさいなまれるはずだ。心地よさとは裏腹な感情に容赦なくいたぶられることは容易に想像できたはずなのにあえてひとりで出掛けていき、その場に身をさらし続けた父の真意が理解しがたい。
 そんなことを私が上京したその日からやっていたとは知らなかった。そんな感傷に浸っていては先に進む気力が薄れてくる。やっかいな感情まで引きずり出しかねない。
「いつ帰っとか?」
 上京の日が間近に迫ってくると、父は決まってそう訊いてきた。
「明日の朝早く」
「早かな、時の過ぎっとは」
「またすぐ帰ってくるよ」
「お前が帰ってきたのが昨日のごたる」
「すぐだよ。それまで元気にしとらんね」
 そんな会話が帰省のたびに繰り返された。
 すでにそれまで抱き続けていた怖い父親という擦り込みは薄れていて、ただ年老いた気弱さばかりが目立つ老人になっていた。
 皮肉なことに、父がしていたことと似たような行動をいま自分もとろうとしている。
 
 流れ落ちる穏やかな川音をしばらく聞いた後、車に戻り、さらに上流へと車を走らせた。エンジンを切らずに冷房を点けっぱなしにしておくべきだった。乗り出したときと同じ状態にもどっている。
 右手には若々しい稲穂が波打つ稲田が広がっている。昔ほど稲作が行われているわけではなさそうだが、ホテルの窓からも見えていた山肌を深くえぐられた万田山の方まで田園風景が続いている。
 川沿いの道が県道と合流するところで車の向きを変え、生家へ向かう。
 家が近づくにつれ、なんの脈絡もなくランニングシャツに半ズボンの丸坊主の子どもが脳裏に立ち現われ、手を振り回しながらなんども振り返る。無邪気に白い歯をみせて笑いかける童子の後をゆっくりついていく。
 空き地に車を停め、手ぶらで敷地に入った。古ぼけたたたずまいの建屋周りには背の高い雑草がびっしり蔓延り、玄関先まで邪魔している。ポケットから母から預かった鍵を出し、いざ鍵穴に差し込み開錠しようとしたがなかなか回せない。指先にしっかり鍵の形のへこみができるほどの力を込めてやっと回せた。
 建てつけの悪い引き戸を開け放った途端、いきなり息を止めたくなるなんともいえない生臭い臭気に出迎えられた。否応にも纏わりついてくるものに馴染めぬまま、うす暗い玄関に入った。湿気を帯びた空気を吸いながら靴を脱ぎ、上がり框に訪問客を招き入れる風にそろえられたスリッパに足を通して家のなかへ入っていった。
 台所のステンレスの流し台脇に置かれたガスレンジが鈍く光っている。白いワンドアの冷蔵庫がかつてと同じところに同じ向きで納まっている。開けるとなにも入っていなかったが、腐ったような異臭が漂いだしてきた。庫内のランプが点かない。
 一旦玄関に戻り、電気のブレーカーを入れてトイレの方へ向かう。脱衣場のベージュ色の二層式洗濯機も変わらない場所にあった。骨董屋でもお目にかかれないような照明器具がぶら下がっている。
 手が勝手に壁スイッチの方へ伸びる。
「康市!」
 スイッチを入れた瞬間、母から声を掛けられたような錯覚が襲った。電灯色の裸電球が灯ったが、それほど明るくはない。
 居間に入ると、白く埃を被った見覚えのある座卓とブラウン管テレビが迎えてくれた。
「コウイチ……」
 自分で自分の名を口にしてみた。やにわに異様な感覚に襲われる。
 萌黄色の薄い布地のカーテンを開け放つと、強い日の光が差し込んできて薄気味悪さを払拭してくれた。さらにアルミサッシの窓ガラスを開けると涼風が入ってきた。
 和室の押入れの襖が開け放たれたままになっている。その横に納まっていた仏壇がない。えぐりとられたようにぽっかり空いている。かわりに封の切られていない一升瓶が床に置かれていた。父の葬儀後に購入し、そこに置かれた真新しい仏壇は、築五十年以上経つ老朽化がすすんだ屋内空間のなかでひときわ際立つ存在だった。
 かつてこの居間の鴨居の上に父の遺影が掲げられていた。いつぞや帰郷した折、実家からほど近い船小屋温泉へ行った日に私が撮影したものだ。父も母も風呂に入らないというので私だけが入浴しロビーに戻ると、ふたりは互いに異なる方角へ顔を向けてソファーに坐っていた。「待たせたね」と声を掛けると、ふたり同時に私の方へ笑顔を向けた。そのときの写真だ。いまは二人並んで東京の家の鴨居に納まっている。
 軋む階段を鳴らしながら二階へ上がった。開けっ放しの姉が使っていた部屋をちょっと覗いてから自分の部屋に入った。物置部屋と化した姉の部屋と違って、机も椅子も本棚も、そこに押し込まれている百科事典や雑誌も、私が十八でこの家を出た時のままだ。
 二人に別々にその理由を尋ねたことがあった。父がなんと答えたのか憶えていないが、母の答えはいまでも憶えている。母はたびたびひとりでこの部屋に上がってきて、引き出しのなかのものを手にしながら、東京でひとり暮らしをしている私のことを案じてくれていたのだ。
 窓を開け放つとまとまった風が入ってきて埃が舞い上がった。日の光に煌めくその量の多さに思わず息を止めてすぐに閉めた。
 階下に降り居間に戻ると、真っ先に旧型テレビに目が止まった。この居間に寝転がって相撲中継やプロレスを観ていた頃の記憶が甦ってくる。父と母、そして姉と私の家族四人で円卓を囲んで食事をし、とりとめのないことで泣き笑い、時には言い争いをした。
 小学校に入学したばかりのころ家出するきっかけとなったのもここで起こったことがきっかけだった。いまから考えるとあれは家出といえるのかどうか。
 泥酔した父が母に手を上げ、止めに入った私を手加減なしに殴りつけた。私は鼻血がでて手の甲でなんどもぬぐった。父の姿は怖くてとても正視できなかった。小刻みなからだの震えより下腹あたりから這い上がってくる怯えの方を抑え込むのに必死だった。
 父が寝ついた後、母が敷いてくれた布団に包まった。堰を切ったように溢れてくる涙はとまらなかった。母と姉が寝ついた深夜、ランドセルを背負って家を抜け出した。なぜ教科書だけが入ったランドセルを持ち出したのか憶えていないが、幼い子どものやりそうなことだ。
 闇に足を踏み出すたびに父の悲しむ顔が浮かび、からだの奥底から突き上げてくる嗚咽を抑え込むことができなかった。行くあてなどなかった。明かりが灯っている方へ歩いていくうちにやがて駅にたどり着き、誰ひとりいない駅舎を抜け照明が落とされたホームへ忍び入り、そこへたまたま入ってきた深夜列車に乗り込んだ。人気のない車輛の座席と座席の間に潜り込むのと同時に猛烈な睡魔に襲われ、気を失うように眠りに落ちた。
 車掌に起こされた時、寝ぼけ眼に列車の窓を流れる木立や家屋が薄墨色にぼんやり浮んでいた。見知らぬ駅で降ろされ、そこの駅員に引き渡された。どのくらい時間が経ってからだろうか、母が迎えに来てくれた。
 その後どういう展開を経て家に連れ帰られたのか憶えていない。後になって母から聞いた話によると、私が乗った列車は各駅停車の西鹿児島行きだったそうだ。都城の駅で降ろされ、ランドセルに書かれていた電話番号で母が知ることになった。母が来るまでの間、駅員室の椅子に坐ったまま呆然としていたらしい。
 不思議なことにこのときの父の記憶がない。どのような迎い入れ方をされたのかわからない。なにも言わず迎い入れてくれたのだろうか。それとも怒鳴りつけ頬でも叩かれたのだろうか。その記憶を埋めてくれる者はもういない。

 父は炭鉱で働き始めてまもなく戦地でもそれほど呑まなかった酒をよく口にするようになり、連日のように泥酔して帰ってくるようになった。「戦地」といっても、中国大陸とだけで、どの地域にどういう目的で駐屯していたのかわからない。いまとなっては知りようもない。戦友と肩を並べた古い写真の何枚かがアルバムに貼られていたが、いまはそのアルバム帳はない。母が処分してしまっている。
 学校から帰り家の玄関の引き戸を開けて酒の匂いがすると戦慄が走った。そういう日は引き戸を静かに閉め、公園や田んぼ道をさ迷い歩いて時間を潰した。周囲が薄暗くなる時分にもう寝たかもしれないと期待して帰ってみて裏切られると、恨めしさからなにかに当たりたくなって街灯の裸電球に石を投げたりした記憶がある。
 なんどかそんなことを繰り返した挙げ句、空腹とうら寂しさに耐えきれなくなって家に入る。寝入っている時もあればそうでない時もあった。まだ起きていれば二階の自分の部屋に籠っていることなど許されなかった。なぜかいつも気づかれて父の膳の傍らに坐らされ、延々と繰り出される小言と凄みの利いた怒声に耐えなければならなかった。
 生まれて十歳前後までで性格のほとんどが決定されるという。抑圧され続けた後遺症はいまも大なり小なりこの身に影を落としている。そのような経験を姉はしていない。年齢が幸いしていたのだと思う。
 酔ってない素面の父はまるで人が違った。罪滅ぼしのつもりだったのだろう。当時はまだ高価だったバナナやパイナップルを土産に買ってきたり、自転車の後ろに私をのせて空気銃でのモズやヒヨドリなどの野鳥射ちによく連れて行ってくれた。
 森の樹々に囲まれた茂みに私ひとりを残して父だけで行動することがたびたびあった。私が一緒にいたのでは獲物にこちらの気配を悟られ、射程距離から逃げられてしまうからだと理解できたのは、それから随分経ってからだ。
 見知らぬ山林のなかにひとり置き去りにされてしまうのではないかという不安と恐怖から、数分といえどもその場にとどまっていられなかった。「ここで静かに待っとけ」と言われたときは、すぐ戻ってくるように思えて「わかった」と元気よく返答をするのだけれど、五分過ぎ、十分過ぎ、草木の揺れる音や風の音、自分を取り巻くなにもかもが恐ろしいものに一変して、同じ場所に息を潜め続けていることなどできなかった。父の去った跡を追って丈の高いススキや潅木の枝を掻き分け掻き分け、道なき道をふらふらと徘徊し始める。
 自分から父を発見できる時もあったが、発見してもらうことの方が多かったように思う。
「待っとけ、と言うたろが」
 私は父と巡り合えたことの安堵感から、目に一杯涙をためて父に強く抱きついて離そうとしなかった。
「なんでついて来るとか?」
「なんでか……わからん」
 幼い私にはそれだけ言うのが精一杯だった。父がそのときの私の怯えを理解してくれていたのかどうか疑わしい。
 そんな怖い思いをさせられたことは一度や二度ではなかったが、いくら繰り返しても父に誘われれば嬉々として自分から父の自転車の荷台にまたがった。
 素の父の優しさを知っている私には、根の深い憎しみは育たなかったし、父との関係がぎくしゃくしたという記憶もない。反抗期などという時期があったのか、あったとしてもあの酒乱の父を相手にどう処理していたのか。母に向けることである程度は解消されていたのかもしれない。
 父は八十三歳のときに脳梗塞で倒れ、救急車で市立病院へ運び込まれた。その後リハビリで退院するまでに回復はしたものの、左手足の不自由さと口が利けないという障害が残った。そうなってからの父との会話はすべて筆談で、いまも当時父と交わした筆談手帳が捨てられなくて残っている。大学卒業後都会で就職したこともあって、学生の時ほど帰郷することがなくなっていたが。
 強い印象として残っているのは、母への一様でない気遣いで、いくども「お母ちゃんのこと頼むな」、「お母ちゃんの面倒ばみてくれな」と書き記された手帳を突き返してきたことだ。
 その後、多発性脳梗塞で数度入退院を繰り返し、最後は寝たきり状態になり、顔もからだも文字通り骨と皮だけという姿となり三年前に他界した。父の死を私は母からの電話で知った。死去するまでになんどか帰郷し見舞っていたので、病状はわかっていたし、覚悟もできていた。「きたるべき時がきたな」という思いで訃報を聞いていられた。
 報告を受けた日の夜に帰郷し、自宅の六畳間に寝かされている父と対面した。叔父や叔母、いとこたちも集まってくれていた。その場に葬儀社の方もいて、母と共に別室で通夜、葬儀の打合せを済ませた。遺体はその日のうちに宿泊施設も併せ持つ葬儀会場へ移送され、私たち遺族、親族もそちらへ移った。
 通夜も葬儀も、高齢者だから当然といえば当然だが、列席者は近親者と近隣の知人だけで、会場の広さがうら寂しさを際立たせていた。

 その時、玄関の方で物音がした。見に行くと、上がり框のところに額縁が落ちていた。幸いガラスは割れていなかった。建つけの悪い引き戸を強引に開け放った際にその振動が壁に伝わったせいだろう。
「しあわせはいつも自分がきめる」
 相田みつをの色紙が入れられていた。
 母の笑い声、微笑む顔が甦ってくる。懐かしいなどという心穏やかなものではない。その記憶にこだわり続け、浸り続けていればなにか恐ろしい渦に吸い込まれてしまいそうな予感がする。
 他人とは共有することのできない、いまの自分と深く結びついた感情がしっかりしまいこまれている。母の笑う声、笑う顔、そんなリアルな声と鮮明な映像が同じ時間を共にしていたという確かさを裏打ちしてくれる。
 母の方は父が亡くなってちょうど丸三年後の今年、上京させて間もなく呆気なく死去した。まだわずかしか日が経っていないことなのでなにもかもが生々しい。
 上京させていたにもかかわらず母の死に目に会えなかった。妻の話によると、その日母は喉を詰まらせ、吐き気と息苦しさで身をよじらせたという。その最中母は妻の手を握っていて、驚くほどの力で握り返していたそうである。母は逝くとき白眼をむいたという。
 緩和ケア病棟の医師と看護師たちにとっては十分予期されていたことのようで、容態が急変しても慌てるどころか施される処置すべてが淡々と行われ、手馴れた印象を受けたそうだ。
 母は熊本県玉名郡で祖父・寅雄と祖母・スエの第一子として生まれた。生家はいまも同じところにある。農家の生まれで、戦時中も戦後も食べ物にそれほど困ったことはなかったといつぞや話してくれたことがあった。どんな子ども時代を過ごしたのか、どんな暮らしぶりだったのかなど詳しい話はなにも知らない。
 戦時下に陸軍将校とお見合いをし、結婚している。その方は戦死し、子どももいなかったので実家へ帰された。その後三井三池炭鉱の事務職に就いていて、終戦後中国大陸から引き上げて間もない父と職場で知り合い、再婚し、姉と私を生んだ。
 結婚当初、なに不自由のない生活に慣れ親しんでいた母は、鹿児島の僻村の三男で、生活が苦しく口減らしのような形で故郷を出て坑夫となった父の粗野な言動をよく注意し、喧嘩が絶えなかったそうである。
 父は八十七で逝き、母は八十六だった。化学調味料や防腐剤の入った加工品はできるだけ口にするのを避け、極力自然食品を摂るなど健康に気をつかっていた母が、塩辛いもの、甘いものをなにも気にせず口にしていた父にひとつ及ばなかった。

 やがて日が翳ってきて、半開きのカーテンの間から差し込む街灯の明かりが際立ってきた。うす暗くなってきた居間の蛍光灯を点けた。
 和室の仏壇があった所に置かれていた一升瓶と食器棚にあった湯飲み茶碗を持ってきて座卓の前に坐った。一升瓶の封を切り茶碗になみなみと注ぎ一気にあおると、度数の強い液体が喉を焦がしつつ胃に下っていく。鼻を抜ける呼気に甘い香りが立つ。ふーっと息を吐くと徐々に心地よくなってきた。
 酔いが進むにつれ、私は父と会話をしていた。在りし日の若々しい頃の姿まで見えてくるようだった。
「なんばしよっとか?」
 意図的に作り出した幻が声を掛けてきた。懐かしい声の響きを味わっていると、同じ問いが発せられた。
 顔を上げると、目の前に父が坐っていた。半そでシャツにステテコ姿の父は、老人ではなく私と同じくらいの年恰好に見える。
「父ちゃんの遺骨の改葬のために帰ってきたんだよ」
「改葬?」
「そうだよ」
「なんばしょっと?」
 そこへうす紫のワンピース姿の、こちらも私が高校生だった頃の皺ひとつない若々しい母が加わってきた。
「あらあら康市はなんの肴もなしに、ひとりで」
「ひとりじゃなかぞ」
「あら、お父ちゃん!」
「あらじゃなかぞ。そこに坐って康市に酌ばしてやらんか」
「そうやね、今夜ばかりはよかよね。親子水入らずで宴会ばしても」
「ああ、よかよか」
「なんも食べるもんもなかもんね」
「なんもいらんよ」
「悪かったね、なんも準備しとらんで」
「よかよか。なんもいらん」
 父はひと息で湯飲み茶碗に入った焼酎を飲み干し、私の方へ突き出した。
「おまえも、飲め飲め」
 ……………………。
「康市、覚えとるね、おまえが家出したときのことを」
「家出?」
「そうよ。お父ちゃんのせいで」
「俺のせい?」
「そう。酔っ払って、私ば殴ったり、蹴ったりして……」
 母は遠い昔話を語るような顔つきで続けた。
「康市は小さかか体で、私ば守ろうとしてくれたとよね」
「おまえに辛か思いばさせたな」
「あやまることはないよ。今じゃあ、なにもかもが大切な思い出だよ」
「そうか。ほんなこつひどか思いばっかりさせとったな、ごめんばい」
 驚いたことに、父は涙ぐんでいた。私は胸を突かれ、瞬時に目頭が熱くなった。
「おかしか。お父ちゃんが泣きよらす」
 そう言う母の目も真っ赤だった。
 ……………………。
 蛍光灯の明かりのなかで目が覚めた。時間の感覚がなくなっている。吐き気がする。そのうえ夢の内容に感情を鷲掴みにされていてなかなか立ち上がることができなかった。頭の芯が悲鳴をあげている。
 かび臭い畳に横になったまま夢で交わした言葉の断片を思い返していた。そのはかどらぬ作業のさなかに、母の謎めいた言葉が脳裏を掠めた。
 母が上京して私の家で寝起きするようになってまだ間もない頃のことだ。病院で点滴を受けて帰る車中でのことだった。
「机の一番下の引き出しに、おまえの思い出がいっぱい詰まっとる」
 信号待ちしている時に助手席に坐っていた母がなんの脈絡もなくそう呟いた。私が問い質す前に信号が青に変わり、車を発進させることに気持ちが移った。窓外を見上げていた母が「こん高か建物はなんね?」と訊いてきた。その問いかけに阻まれ、母がなにを言いたかったのかわからずじまいとなり、その言葉だけが私のなかに仕舞い込まれた。
 重いからだを起こし、こめかみを揉みながら二階へ上がった。
 開けっ放しの姉の部屋をちらっと覗いて自分の部屋に入った。カーテンのない窓から惜しげもない月明かりが射しこんでいた。電気を点け、椅子を引き、埃をかぶっているのも構わず机に向かって坐り、袖机の一番下の引き出しを開けた。
 引き出しのなかは私が入れた覚えのないもので満たされていた。上京後私が書き送った手紙やはがきの束、そしてその奥に、母子手帳と丁寧に紙に包まれたものが押し込まれていた。
 包みを解くと、桐箱が出てきた。恐る恐る開けると、なかから脱脂綿につつまれた三センチほどの干からびたへその緒が出てきた。
 さらに引き出しのなかを探ると、折りたたまれた便箋のようなものが出てきた。
「おまえにはいつもお金のことばかり聞かせていたような気がして悪かったと思っています。お父ちゃんの給料は安くて、非正規職員だったのですから仕方がないといえばそれまでだけれど、一向に給料はあがらない、生活は苦しくて苦しくて、ひどい貧乏な家庭でした。……」
 なにげに手に取り、開いて読み始めて、仰天させられた。私宛の手紙だった。
「苦しい生活のなかお父ちゃんはお酒が入ると気が大きくなって、給料袋の半分もキャバレーやバーで散財してくるような人でしたから、当時、お母ちゃんはそんなお父ちゃんが憎くらしくて、夫婦ゲンカばかりしていました。由美子よりおまえにばかりそんな場面をみせていたように思います。いつもすまないと思っていました。
 そのせいでか、あなたは上京してから一度もお金の無心をしてきたことがありませんでしたね。ありがたい、と思うと同時に、とても不びんに思えて仕方がありませんでした。それで便せんにお母ちゃんのへそくりをお父ちゃんには内緒で五千円、一万円と貼りつけて送っていたことがついこの間のことのように思い出されます」
 この手紙は初見だった。受け取った記憶がない。出されずじまいとなった手紙の下書きなのだろうか。
「そういえば、卒業のときにお父ちゃんとふたりで上京し、おまえのアパートに泊めてもらいましたが、あのアパートはいまもあるとでしょうか。とても懐かしく時々思い出されます。夢のなかにまで出てくるほどでしたよ。自炊していたおまえの家のナベやフライパンは真っ黒で、クレンザーでこすってもこすっても落ちなかった。部屋の隅にたまったホコリもびっくりするくらいで、ちょっと掃いただけでチリトリがすぐにいっぱいになりました。
 あの部屋に家族四人全員がそろって、とてもうれしかった。あのアパートでの思い出はお母ちゃんの大切な宝物です。
 そんなおまえの部屋の掃除をしていて、おまえが一生懸命に東京でがんばってる息づかいのようなものが感じられて誇らしかったとですよ。
 まだあのアパートはあるとでしょうか。またあのアパートにいけたらいいのですが……」

 大学の卒業式に出席するために両親がそろって上京してきた時のことだ。
 生活費は自分で稼ぐという条件で大学へ進学させてもらった。入学金や毎年の授業料は両親が出してくれた。初年度に一括して納めなければならない入学金は、確か母方の祖父に借金をしたという話をずっと後になってから聞かされた。また安い給料のなかから、毎年まとまった授業料を捻出し送金しなければならなかったわけで、その苦労は大変なものだっただろう。それだけに、自分の息子を大学に行かせ卒業させたという誇らしさのようなものが父と母にはあったに違いない。その卒業式に出席したいと思うのは当たり前のことだ。
 両親に卒業式のことについて報告した記憶がない。日程や場所についても伝えた憶えがない。おそらく大学から案内状が送付されていたのだろう。私は卒業式のことをそれほど重大なことと受け止めていなかった。式に出席する気持ちもなかった。だから父と母から「卒業式に出席したい」と言い出されたときは驚いた。「わざわざ出てくる必要はないんじゃないか」と言ったような記憶がある。出席しなくても卒業証書はもらえるとも言ったかもしれない。どういういきさつでそろって上京するという結論に至ったのかまったく憶えていない。その旅費はどう工面したのだろう。わが家の生活レベルからして、父が仕事を休み、ふたりして東京へ出てくるということはそうたやすいことではなかったはずである。
 両親は晴れやかな顔をして、心躍るような気持ちで(おそらくそうだっただろう)、東京駅のホームにそろって姿を見せた。出迎えたのは私と姉のふたりだった。そして家族四人そろって電車を乗り継いで私のアパートがある西武新宿線のK駅へ向かった。駅から歩いて十分くらいだと両親に言うと、荷物もあるし疲れてもいるだろうからとタクシーを捕まえようとする姉を制止して、ふたりとも歩いて行きたいと言い出した。
 アパートへ四人、前に父と私、後ろに母と姉の二列縦隊の格好で向かった。その時の記憶はしっかりしている。通りかかった惣菜屋の前では「ここで買い物をするのか」とか、住宅街では「田舎の家並みとはかなり違う」とか、とにかく父も母も饒舌でなんでもないことを口にして上機嫌だった。
 最初から父と母は私のアパートに宿泊するつもりでいて、自分たちで買い物をしてきて母が調理し、狭い四畳半の部屋で一緒に食事した。外食したのは卒業式の後の遅い昼食だけで、それも大学近くの露天食堂のようなところでうどんと山菜御飯を食べたのが最初で最後だった。
 一週間ほど東京にいたと思う。観光といっても、皇居と東京タワーくらいなもので、あとは近所にあった釣り堀とかアパートからそう遠くない多摩湖に連れて行った。
 私をいたたまらなくさせるのは、卒業式から数日後父と母を皇居と東京タワーに連れて行った日のことだ。
 東京タワーにのぼって高いところから東京を一望するというアイデアは良かった。自分でもそこまでは楽しかった。そこを降り、地下鉄に乗り、皇居に向かおうとする頃から私は精神的にくたびれてしまった。乗り継ぐのも慣れないルートだったから手間がかかったし、のべつ幕なしに九州弁で語り掛け、質問攻めにしてくる父母に辟易してしまったのだろう。いざ皇居に到着し二重橋方向へ歩いていたときだ。
「俺はここで待っているから、ふたりで行ってきてくれ」
 と言って、私は右も左もわからない父と母だけで向かわせた。そう一方的に告げ、ひとりでベンチに腰掛けてタバコに火を点けた。
 当時の写真がいまも手元に残っている。その写真のなかの父母の表情に翳りが読みとれる。心から喜んでいる顔じゃない。そんな思いを抱かせたのはこの私だ。子どもの晴れの卒業式に出席するために遥々九州から出て来た親の顔ではない。自分のつまらない感情のせいでふたりの気持ちに冷水をかけるようなことをしてしまった。
 父と母は皇居でのことといい、その後の私の言動をなんと思っただろう。ふたりは帰郷の日も、またその後も、そのことについてひと言も触れなかった。非難も、咎めもしなかった。いまだにこの時のことを思い出すと恥ずかしさでいたたまれなくなる。
 そんなふたりの心の内を察することもできない未成熟な息子を東京に残して、父と母は東京駅から直行の夜行寝台列車で九州へ帰っていった。

 窓を閉じ部屋を出た。もうこの家で寝起きすることも眺めることもないと思うと、なにかとてもかけがえのないものを失くしてしまうような、取り返しのつかないことをしようとしているような気持ちに捕らわれた。
 この家は近日中に依頼済みの解体業者の手で家財道具も布団もなにもかもが運び出され、柱や壁などは跡形もなく壊されて更地になっているはずだ。
 玄関の扉に鍵をかけると、思い出の詰まった家屋のたたずまいを脳裏に焼きつけるために、家の横の市営アパートへと続く緩やかな坂道に立ってしばらく眺めた。姉が子どもの頃に植えた花桃の苗木がいまや立派に育ち、坂道に太い枝を広げている。中庭に植え替えられた、いつぞやの正月に私が買ってきた鉢植え飾りの松も驚くばかりに育ち、家屋よりも高くその尖頭を伸ばしている。
 未練がましさを振り切って車に乗り込み、ホテルへ戻った。
 部屋に入るとすぐに寝間着に着替え、シャワーも浴びずにベッドに倒れこんだ。倒れ込むのとほぼ同時に深い眠りに落ちた。
 夜半目覚めてしばらく自分がどこにいるのかわからなかった。足元灯だけのほの暗い部屋を見まわし、見慣れぬものばかりの生活感のないたたずまいに目が慣れてくるにつれ、意識もはっきりしてきた。
 ベッドに横たわったまま、夢に現われた遠い過去の記憶に関係がありそうな断片を思い返していた。その捗らぬ作業に手間取っている間に色褪せていき、もはや修復することも記憶に留めておくことも不可能に思えてきた。諦めて起き上がるとベッドから降り、ふらつきながらもカーテンを掴みいっきに開け放った。国道を照らす街灯が白々しく灯っていた。そのほかは深い闇に沈んでいた。車も走っていなかった。
 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルをとり出し、開栓すると喉を鳴らしながら飲み干した。シャワーを浴び、部屋の冷房を最強にしてベッドに横になったままボーッと惚けていた。目を開けたままの状態でかなり長い時間をやり過ごした。その間眠気に誘われることはなかった。
 バイキング形式のホテルの朝食で腹が満たされたおかげか、部屋に戻り出掛ける仕度を整えていると自分でも信じられないほど体調が回復してきた。からだの隅々にまで力がみなぎってくるのが実感できた。
 田んぼ沿いの道を車のウインドーを全開にして走った。すがすがしい朝風がビュンビュン惜しげもなく吹き込んできて心地いい。父の遺骨を納めた浄土真宗大谷派の寺院は諏訪川の上流にあたる三池山のほとりにある。改葬にあたっての手続きについては事前に電話で問い合わせし、すべて準備してきていた。お寺の住職にもその旨を伝えてあり、今日訪問する約束も取りつけていた。
 約束の時間より早く寺院に到着した。境内に人の姿はなく、駐車場に車を停めると手ぶらで本堂脇の納骨堂に入っていった。更衣室のロッカーのようにずらりと並べられた中からわが家の姓が墨書された棚を探し出すのにそれほど時間はかからなかった。
 納めた時は白木の箱に入れたままの筈だったが、箱は取り除かれ、正面に父の俗名が貼りつけられた布袋だけが置かれていた。袋の口を開け白い骨壷の蓋を開けてみると、焼かれたばかりの時と違って白骨は茶色っぽく変色していた。分量も若干少なくなっているように思えた。
 一旦車に戻り、今日なすべきことを頭に思い描きながら書類を確認した。確認し終わり母屋の方へ眼をやると、法衣姿の住職が立ってこちらを見ておられた。私は慌てて車から降りて頭を下げ、書類を持って足早に住職のもとへ向かった。
「伊瀬さんですね」
「はい」
「ずいぶんお早くお越しになりましたな」
「予想と違って、道がとても空いていましたので」
「急激な人口減少が続いていますからね。車も人もめっきり少なくなりました」
 住職はそう言って皺深い手を口にあてがって、乾いた咳をした。
 面倒なやりとりと手続きが必要なのだろうと覚悟していたが、住職の心得た対応のおかげで意外に簡単だった。改葬許可証に署名捺印してもらい、納骨の際住職に渡した「埋葬許可証」と骨壷を返してもらってすべてが終了した。心配していた過度な要求をされることもなかった。住職に丁重にお礼を述べ母屋から外へ出た。
 住職に見守られながら車に乗り込むと、風呂敷に包まれた父の骨壷を助手席のボストンバッグのなかに納め、諏訪川河口へ向けて発進させた。父がよく通っていた防波堤が頭をよぎったからだ。
 その途中で銀色の鉄柱で組まれた三池炭鉱宮原抗の竪坑やぐらと赤レンガの建物が見えた。いまあの竪抗やぐらと巻き上げ機が収まった赤レンガの建物は、国の重要文化財であり、二〇一五年七月に「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されている。私にとっても生涯忘れることのできない場所だ。その周辺は学校帰りの格好の遊び場だった。
 間近に山肌を削られた万田山が見える。その右手が三池炭鉱万田坑のあったところだ。いまや高い煙突はなく、九州電力の紅白の横縞の入った煙突が見えるだけだ。その煙突の下辺りが三池港で、その先に有明海が広がっている。海底深く掘り進められた坑道への通気孔用の人工島がすぐ近くに見える。
 私が生まれる数年前頃が石炭から石油へのエネルギーの転換が始まった時期で、その後安価な外国炭の輸入量が増えるにつれ、徐々に炭鉱に依存していた街の活況は失せていった。その流れのなかで大量人員指名解雇通告に端を発した三池労働争議が起こった。一九六〇年の安保闘争真っ盛りの時期だ。会社のロックアウトに対抗して労働組合は無期限全面ストに突入し、その二ヶ月後に労組間で闘争姿勢による意見分裂が生じ、第二組合である新労組が誕生した。
 その後第一組合の旧労組と会社、新労組との間で激しい衝突が繰り返された。父は新労組員で、構内に篭城していてしばらく帰ってこない時期があった。新労組員は裏切り者扱いで、同じ炭鉱住宅に住んでいる住居者間でも反目し合いいざこざが絶えなかった。私ら家族は炭鉱住宅に住んではいなかったけれど、旧労組員に知れたらどんな嫌がらせを受けたかわからない。夜中に炭鉱住宅の集会所へ向かう旧労組の鉢巻をした組合員の姿をカーテンの隙間から恐る恐る見ていたことがある。
 その闘争はその年の十一月中労委斡旋案をのむことで終焉し、その争議によって荒れ果てた大牟田の街も一度は盛り返すかに思えたが、平穏な生活はもどってきたものの、その後も加速する石油へのエネルギー転換、安価な露天掘りの海外炭の輸入という時代の大きな流れには勝てず、またその三年後の四百五十人余りの死者と八百人余りの一酸化炭素中毒患者を生んだ三川鉱炭塵爆発事故で街の火は一気に先細り傾向となっていった。
 一九九七年三月に閉山となり、その息の根は完全に止められ、大牟田の街はこれといった新たな産業が育まれぬまま寂れていった。人口も激減し、高齢化が加速している。街のあちこちに真新しい病院や老人ホームの建物が多いのも、そういう背景があるからなのだろう。 

 諏訪川河口から三池港へと続く長い堤防が、父が足しげく通っていた釣りポイントだった。父はその自分だけの秘密のポイントである防波堤のことを、勝手に「大曲堤防」と呼んでいた。現実には名もない、河口に沿って大きくカーブしているただの堤防である。
 この三池港、三池海水浴場跡まで続く長い堤防の下には、波消しブロックや大小の岩が無造作に詰まれ、小物はもちろんボラやスズキ、チヌなどの大物が釣れる好釣り場だった。近隣の釣り人はどこから仕掛けを打ち込んでもすぐに根がかりするこの場所を嫌い、釣り糸を垂れる人はまれだった。
 この防波堤は満潮時にボラやスズキなどの大物がからだに寄生した虫をこすり落としに集まる好ポイントだと誇らしげに語り、根がかりしない釣りの手ほどきを私が失敗するのをおかしそうに笑いながら、呆れもせずに教えてくれた。
 車を「大曲堤防」手前の路肩に停め、堤防の上を伝って三池海水浴場跡まで歩いた。幼い童子がランダムに次から次へと立ち現われてくる。潮の香りをはらんだ風が頬を撫でながら塩辛い愁いを満たしていく。
 誰ひとりいない、のり養殖用の竹竿やその他いろんな漂着物が散乱している元三池海水浴場の砂浜をあてもなく歩いた。
 なんの脈絡もなく記憶の根っこに絡みついている労働歌を口ずさんでいた。小・中学生の頃に、炭鉱住宅の拡声器からなにかのお知らせのたびに流されていた歌だ。夕飯時にはかなりの頻度で流されていた。憶えようとしたわけでもないのに、知らず知らずのうちにメロディーだけでなく歌詞までもがわが身に擦り込まれてしまっている。 

 みんな仲間だ 炭掘る仲間
 ロープのびきる まほろし切羽
 未来の壁に たくましく
 このつるはしを 打ち込もう 

 みんな仲間だ 炭掘る仲間
 闘いすすめた おれたちの
 闇を貫く 歌声が
 おい聞こえるぞ 地底から 

 威勢のいい歌のはずなのに、ひとりで口ずさむと、メロディーだけでなくその歌詞までが哀愁を帯びてしまう。 

 みんな仲間だ 炭掘る仲間
 つらい時には 手をとりあおう
 家族ぐるみの あと押しが
 明るいあしたを 呼んでいる

 歩き疲れて「大曲堤防」に停めてある車に戻った。そしてバックから父の骨壷と、東京から持ち帰ってきた一部を粉末にした母の骨粉が入ったビニール袋を取り出した。
 父の骨壷の蓋を開け、もろそうな頭部らしき薄い骨片を適量取り出し、ビニール袋に入れて握りしめると、あっけなくばらばらに砕け、母の骨粉と混ざり合った。
 しばらくふたりの骨粉が入ったビニール袋を手で揉んだ後、車から降り、沖に浮かぶ人工島に目をやった。小島にはかなりの数の海鳥が舞っていた。
 勢いをつけて堤防のテトラポットに飛び移り、満ちつつある海面に手が浸せるところまで降りて行った。テトラポットに包まれた空間はほの暗くて湿っぽかった。ビニール袋の口をゆるめ、細かくなった骨粉をひと掴みし、周りにこぼさぬように干潟の細かい汚泥で濁る海水に少しずつ散らしていった。
 私がやっていることは、自分のなかの悔いや無念さを和らげるためだけの、父と母の弔いとはまったく無縁な行為なのかもしれない。
 ひと握りの骨粉は、濁った海水とすぐに混じりあって区別がつかなくなった。灰色の海面がゆっくり呼吸をしているかのようにたゆたっている。水面の動きを見つめていると焦点がぼやけてきて、そこに母の微笑む顔がゆらゆらと浮かび上がってきた。
 みるみるうちに膨れ上がってくる海面がテトラポットの乾いた部分を濡らしていく。テトラポットを這い上がり、堤防のコンクリートの上に腰を下ろした。沖の方から潮の香りをはらんだ風が絶え間なく頬を撫でていく。
 あの人工島周りの海底よりさらに深い地底の石炭層を坑夫は掘り進めていたのだ。父は三川鉱抗口からトロッコに乗せられ、長い斜坑を同僚たちとともになんども地底へ下って行ったことだろう。暗くて高温多湿で、そのうえ炭塵混じりの息苦しい坑内で、石炭を掘り続けるというのは楽な作業ではなかっただろう。私がいまこうして生活していられるのはそんな父の辛い労働のおかげだ。
 いま父と母は骨片となって骨壺におさまり、私の記憶のなかだけで生きている。私が死ねばその記憶は失せてしまう。私のなかに仕舞い込まれている父母のこの地と結びつくさまざまな思いも失われてしまう。たまたまこの地に生まれ、しばしの時間を共に生き、そして死を迎える。さらに時がたてば生きていたことを知る人もこの世にひとりもいなくなる。父と母と同じように私という存在もなかったことになるのだろう。生きていた証もなければ痕跡すらなくなる。そう考えると一抹の虚しさが際立ってくる。
 しかし、地球上の生きとし生けるものにはすべていつかは終わりがくるし、未来永劫繰り返される不易なことなのだから、私らいち家族の生き死にのことなどとるに足りないことで、虚しいなどいう個人の思いなどなにほどのものでもないのだ。そう思えばなんだかさばさばした感じもしてくる。
 海水浴場の砂浜の方へ眼をやると、幼い私と父と母が、強い日差しに照らされて波打ち際をそぞろ歩いている。
 麦わら帽子をかぶった童子がいきなり母親の手を振り払って、勢いよく水しぶきをあげながら駆け出していく。両手を広げ、まるで海鳥がいまにも空へ飛び立とうとでもしているかのように。

 

*挿入歌詞 『炭掘る仲間』(作詞・三鉱創作グループ)


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