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うすらいの恋路

 
         Ⅰ

 真新しい鍵を見ていると、狂おしいほどの欲望が渦巻きはじめる。
 落葉した街路樹のケヤキの小枝が小刻みに震えている。時刻は午後十時十六分。街灯の明かりがかえって周辺の闇を濃くしている。
 上空には薄墨色の雨雲が覆いかぶさっていて、月も星も見えない。
 ――部屋のなかに身をおきたい……。
 雄也は旧街道を夢遊病者のようにふらふらと渡っていた。
 国道に面した八階建てマンション。走行する車はそれほど多くない。排気ガスで薄汚れた正面玄関のスチール扉を押して中に入る。ダウンライトに照らされたエントランスに人の姿はなかった。
 入ってすぐのところにステンレス製の郵便ボックスが番号順に並んでいる。彼女の部屋番号が刷り込まれた郵便ボックスに目が止まる。小さな白のプレートに「高城 Takagi」というシールが貼られている。雄也はその名前を指の腹で撫でた。
 突き当たりのエレベーターに乗り、行き先階のボタンを押す。扉が静かに閉ざされ、モーターのうなり音とともに上昇しはじめる。
 三階の通路にも誰もいなかった。雄也はためらいもなく306号室のインターホンを押した。ドア越しにチャイムの音が聴こえる。なんの気配もない。雄也はもう一度長めに押した。呼び出しボタンに押しつけた指先に感覚がなく、ずぶずぶとめり込んでいくような錯覚を覚えた。
 今度もなにも起こらない。雄也はジーンズのポケットに手を入れた。むき出しの鍵が拒むように冷たく触れてくる。握り締めるとすぐになじみ、するりと取り出せた。真新しい合鍵に不吉な予感が走る。
 ――もう引き返せない。
 臆する気持ちを抑えて鍵を鍵穴に差し込んだ。滑らかな感触が指に伝わってくる。回すと弾けるような音とともに錠が解ける。ドアノブを回す段になるとさすがに雄也の手が震えた。
 ドアを引くと、なかから雄也のなかに息を潜めていたものと同じ芳香が迎え入れてくれた。玄関に入るとセンサー仕掛けの照明が点いた。と同時に半自動のドアが閉じた。
 突き当りの淡いピンク色のカーテンからうっすら街灯の明かりが漏れている。
 後ろ手でサムターンを回して施錠し、室内照明スイッチを探した。手にスイッチが触れる。「プチン」という音の大きさに雄也の五感が反応して冴え立つ。部屋のすべてのものが鮮やかに眼に飛び込んできた。
 オフホワイトの化粧ダンス、ベージュの机、ピンクの縞模様のベッドカバー、そこかしこに置かれてある大小さまざまな暖色系のぬいぐるみたち……。
 玄関を入ってすぐ右手に白のレースのハーフカーテン。洗面台、その奥にバストイレが並んでいる。
 洗面台の鏡に映った自分の眼と合った瞬間、幼児のような感性が悲鳴をあげた。しかしそれはつかの間のことで、旧街道を渡ったときと同じような宙に浮くような感覚があいまいなものに変えていった。
 化粧台、衣装ケース、壁に掛けられている衣類……彼女の息遣いをリアルに感じとろうと感覚を研ぎ澄ます。
 机の前にはテーマパークのキャラクターがプリントされたペン立て、辞書、外人女性モデルの写真が入った額、ワインレッドのコードレスフォン、ピンクの目覚し時計。
 開けっ放しの机の引出しのなかには雑然といろんなものが入っている。シャープペンやボールペン、ホチキス、ハサミ、メモ用紙、新聞の切り抜き、チラシ……。
 脇机の引出しを上から順番に開けていった。レポート用紙の束、科目ごとのノート、日記帳、手紙、アルバム。
 手にとったアルバムを開くと、幼い彼女が微笑みかけてきた。そのなかの一枚の写真に雄也の手が止まる。写っている中年女性の眼が責め立ててくる。
 ……腕時計を見る。十一時二十分。インターホンを鳴らしてからすでに一時間は経っているのに、雄也にはそれほどには感じられなかった。

 いきなり目の前のコードレスフォンが鳴った。一瞬にして彼のからだが凍りついた。
「ただいま出かけております。発信音の後にメッセージをどうぞ」
 しばらくぶりに聴く高城里花子の声にハッとさせられる。彼女の顔が浮かぶ。熱を帯びた欲情に逆らうように厭な予感と胸騒ぎが起こる。
 次の瞬間、電話は無音のままぷつりと切れた。
 ――俺はなにをしているんだ。ここにいてはいけない。
 内なる声が急き立てる。そのときだった。玄関ドアの向こう側で物音がした。
 鍵穴に鍵を挿入する音がする。ドアノブが回される。
 雄也にはその一連の映像がコマ送りのように感じられた。部屋に入るときの大胆さとはうって変わって、緊縮して、指の先まで硬直している。ドアが開けられるのと同時に土下座していた。
 玄関に立った里花子は部屋の明るさに一瞬戸惑い、そしてすぐに部屋のなかでうずくまっている大きな黒い塊に目が釘づけになった。土下座をしている雄也をこの部屋の住人である彼女が玄関のわずかなスペースから見つめている。
 頭を上げ、彼女を見た。彼女の姿が陽炎のように揺らめいている。雄也には生身の人間には思えなかった。顔は青ざめ、凍りつき、埴輪のように固まっている。
 雄也はかつて味わったことのない感覚に拘束されたまま、なんの言葉も発することができなかった。 
 彼女は微塵も動こうとはしない。雄也にはこの時間が永遠に続くように思えた。床に頭を擦りつけた。
 と、彼女が甲高い悲鳴を上げた。次の瞬間、けたたましい勢いで部屋の外へ飛び出していく。通路に彼女のカッカッカッというヒールの音が響いた。
 雄也は急かれたように彼女の後を追った。
 エレベーターの前で彼女の眼と合った。怯え切った彼女は非常階段へ向かって走り出した。
「ちょっと待ってくれ」 
 非常階段を駆け降りていく彼女に言葉をかけたが、返事はない。
「話を聞いてくれ!」
 靴音だけが耳に突き刺さってくる。
 一階に達した彼女はフェンスをあけ、マンションの前を走る国道の上り車線を一気に渡った。
 雄也は国道の手前で立ち止まった。通行量は多くはなかったが、たまに走ってくる車はどれもみなかなりの速度を出していた。
 すでに上下車線の真ん中の中央分離帯に立っていた彼女がふり返り、「こないで!」と悲鳴に近い大声で叫んだ。
 背後の下り車線を一台のダンプカーがものすごい速度で通過した。その風にあおられて彼女のからだが揺れたように見えた。そこへ後続の大型トラックが走ってきて、彼女はそのトラックの車体に吸い寄せられるように中央分離帯から消えた。一瞬のことだった。悲鳴もブレーキ音もなかった。
 雄也は彼女が立っていた場所へ駆け寄った。目に飛び込んできたのは、下り車線の道路に横たわっている彼女のからだだった。手足が異様に折れ曲がり、頭部から流れる赤黒い血がアスファルトを濡らしていた。トラックはとうに走り去っていた。
 雄也は彼女に駆け寄り首の下に手を入れ上半身を起こし、彼女の名前を大声で連呼した。
 反応はない。
「眼を開けてくれ!」
 間近で鳴らされた車のクラクションにはっとし、雄也は彼女を抱いて中央分離帯へ移動した。
 震える手で胸ポケットから携帯電話を出して「119」をプッシュした。混乱して要領を得ない雄也に、電話に出た相手は矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。支えている腕を通して彼女のぬくもりが伝わってくる。手で押さえている頭からはとめどなく血があふれてくる。
 やがてサイレンの音が次第に近づいてくる。赤色パトライトを回転させた救急車がマンション前に止まった。
 車から飛び出してきた救急隊員のひとりが上り車線の通行を止め、もうひとりが駆け寄ってきた。
「トラックに跳ねられたんです」
 相手はそれには答えず、雄也に抱きかかえられている彼女の耳元に顔を近づけ、大声で呼びかけた。
「聴こえますか?」
 なんの反応もない。
「意識なし! 担架!」
 もうひとりの隊員に向かって叫んだ。
ふたりの救急隊員の手で彼女は担架に乗せられ、救急車内へ運びこまれた。
「君も乗って!」
 隊員のひとりが中央分離帯に呆然と立ち尽くしている雄也に向かって手招きした。
 搬送される車中でも救急隊員は血圧を測ったり人口呼吸器をあてがったりと、あわただしく応急処置を施していた。
 ――とんでもない事になってしまった。鍵さえ拾っていなければ……。  

         Ⅱ

 電車が大瀬川を渡り終えると間もなく彼女は文庫本を読むのをやめた。
 薄紫のカーデガンにグレーの短めのタイトスカート。肌色のストッキングにおおわれた両脚はきっちりそろえられ床まですっと伸びている。
 文庫本を膝の上のカバンに仕舞うとその上に両手を組んで頭を心持ち前に傾けた。肩につくあたりで内側に巻かれた髪が、かけられていた耳から放たれ、彼女の横顔を半ば隠した。
 暖かい日差しに揺らめく民家が進行方向とは逆に走っている。高圧線の太い電線が操り人形のような鉄塔の連なりに沿ってゆるいカーブを描きながら北の方へ伸びている。
 遥か遠い過去の記憶が甦る。雄也が小学三、四年生のころのものだ。高圧線の鉄塔を囲むフェンスに「危険」「頭上注意」と赤ペンキで書かれた看板が掲げてあった。フェンスの金網の小さなほころびから雄也は自由に出入りすることができた。鉄塔を支えるコンクリート台座の根元に河原で拾ってきたダンボールやベニヤ板で小屋を作った。ちょっとした風でもばらばらになってしまいそうなその囲いは、雄也の誰にも邪魔されない大切な空間だった。
 彼女はもう眠ったようだ。ときどき滑らかな呼吸に合わせて頭が傾ぐ。そのたびに雄也の鼻先にいい匂いが漂ってくる。
 彼女も雄也と同じ駅で車輌に乗り込んできた。ホームには雄也の後ろに五、六人の列ができていた。彼女もそのなかのひとりだったのかもしれない。
 ホームに電車が停車し目の前の扉が開くと雄也はすばやく乗り込み、肩に掛けていたデイパックを網棚に載せ座席に坐った。そのすぐ後に彼の左隣の席に坐ったのが彼女だった。
 彼女はカバンから文庫本を取り出し、しおりがはさんであるページを開いて読みはじめた。より濃い芳香がかすめた。彼はそれを嗅いだ途端意識も感覚も鷲掴みにされ頭のなかが真っ白になった。
 シャンプーや香水の香りではなかった。雄也がこれまでに嗅いだことのある芳香だった。下腹部から頭部まで一気に刺し貫くような感覚に鳥肌がたった。
 電車がひとつめの駅で停車し、降りる客はなく新たに五、六人が乗り込んできた。雄也は顔を彼女の方へ向けた。閉じられた目頭から目尻の黒いライン、頬から口もと、ほっそりした顎の輪郭に幼さが感じられる。
 カバンの上に両手の指が組まれ、淡い紫のカーデガンの左手の袖からブレスレットなのか時計なのか、一つひとつ金で縁どられた真っ黒な石の繋がりがのぞいている。
 ちょっとした刺激でも壊れてしまいそうな香りが、過敏になった感覚を荒々しく引っかきまわす。
「変態!」――そんな叱責の言葉とともに平手で頬を張られるシーンが頭に浮かぶ。
 車内アナウンスが降りる駅名を告げた。立ち上がり、網棚に載せたデイパックに手を掛けた。そのとき彼女が頭を起こした。頬に貼りついた髪を人差し指と中指の二本で耳にかけながら、目の前に立っている雄也を見上げた。眼が合う。やや虚ろな緊張を欠いた瞳を正視できなくて目を逸らした。
 電車が速度を落としながら駅のホームを滑りはじめる。彼女はからだをねじって駅名を確認すると、膝の上のカバンを両手で持って前に立ち上がった。目と鼻の先に彼女の癖のない黒髪が突き出されて一瞬たじろぐ。雄也はデイパックを肩に掛け、身を引いた。
 やがて電車が完全に止まり、ドアが開いた。彼女のうしろについてドアへ向かった。車輌のなかの空気とは明らかに違う、すっとするような冷気をともなった乾いた空気が入り込んできて、瞬く間に彼女の放つ芳香を奪い去った。
 彼女はホームに降りるとショルダーバックを肩に掛け、改札口へと通じる階段を軽快に駆け上がっていく。雄也も階段を一段おきにまたぎながら上がっていった。彼女は改札口を抜け、雄也とは反対方向へ足早に歩いていく。
 ――慶徳女子大か?
 腕時計を見た。九時三十六分。雄也はその場に立ち止まり、薄紫のカーデガンが人に紛れて消えていくのを目で追っていた。
 ――きっとまた会えるはずだ。
 雄也は自分の感情を慰めて歩き出した。
 そのとき誰かに呼び止められたような気がしてふり返った。まだ混乱さめやらぬ改札口前の人込みを抜け出し、雄也の方へ向かって駆けてくる女性がいる。雄也にはその女性と彼女とが重なって見えた。

 更衣室で水着に着替え、青地に斜めの白いロゴマークの入ったジャージをはおった格好で休憩室に入った。
 建物全体が館内空調で温度調整されていて、快適とまではいかないが蒸し暑さは感じない。奈良野と林田はまだ出勤していなかった。補助指導員の姿もない。幼児の甲高い声もホイッスルの音も聴こえてこない。開館時の館内の騒々しさに慣れきっている耳に静寂が馴染まない。
 館内空調機から吐き出される中途半端な冷風が気持ち悪くて、雄也は休憩室専用のパッケージエアコンのスイッチを入れ、ドライモードに設定した。天井の吹き出し口から漂いだす緩い風を横からさえぎるように吹いてくる。
 更衣室へもどり、ロッカーに入れたばかりのデイパックから雑誌を取り出し、いつものように通路の自動販売機で缶コーヒーを買ってプール場へ向かった。いつ降りだしたのか、ドームの窓ガラスを大粒の雨が激しく叩いていた。
 プール場に足をふみいれた途端、温水プール独特のむっとする生暖かい、塩素臭い空気が迎えてくれる。快適とは言いがたいが、雄也にとってここは他の者が現れるまでのつかの間の、誰にも邪魔されない憩える空間だった。
 プールサイドのパイプ椅子を向かい合わせに二つ並べ、腰を下ろすともうひとつの椅子に足を投げ出した。ジャージの前をはだけたまま、雄也は缶コーヒーのプルトップをあけひと口すすると雑誌を開いた。
「なにいじけてんの?」
 プール入り口の方から声がした。雄也は雑誌から目を上げた。奈良野だった。
「そう見えるか?」
 奈良野はそれに答えない。
「エロ雑誌?」
「車の写真がいっぱい載った絵本だよ」
「車までエロエロに見えちゃうってわけ?」
「バカヤロー、早く着替えてこいよ」
「まだ早い。休憩室にいる」
 プール場に静寂が戻ってくる。
 火・水・木の午前は、一時間の幼児対象のスイミング教室が二回、午後が一般女性向け入門スイミングが二回、間に脂肪燃焼ダイエットが目的の水中エクセサイズが二回という構成になっている。そのため最低限男性インストラクター二名に女性インストラクターが二名勤務する。夕方から二十一時の閉館までは、仕事帰りのサラリーマンやОLにプールの七コースすべてが開放される。その時間は監視員だけでいいので男女それぞれ二、三名の時間当番制勤務となる。
 水泳専属の職員が雄也、林田、奈良野の三人で、あとは入れ替わりの激しい補助指導員の男女あわせて五、六人の編成だ。木曜が一週間のなかで一番来館者が多く、そのため職員の三人は必ず勤務する。
 この日午前の幼児スイミング教室でちょっとした事件があった。いつもなにごともないプール場に緊迫した空気が張り詰めた。雄也の休憩時間だった。
 ひとりのアレルギーもちの六歳児の女の子が息継ぎの練習中に、誤って塩素たっぷりのプールの水を大量に飲み込み、ひどく咳き込みだし、それが止まらなくなった。同伴していたその子の母親が二階の見学者席からその様子を見ていて、半狂乱状態でプールサイドまで降りてきた。そのとき指導を担当していた林田に詰め寄り「あなたの不注意のせいでうちの子が発作を起こしておぼれそうになった」と大騒ぎになった。
 血相を変えた女性補助指導員のひとりが事務局にいる次長の金子に報告に走った。騒ぎの知らせを受けて金子が飛んできた。金子は慣れたもので、冷静にその取り乱した若い母親に丁重に詫びながら、まだ咳き込む女の子ともども別室に案内し、林田からことの顛末の報告を聞いた後で、抗議し足りなくてなおも責め口調でとがめる母親に対して「お腹立ちはごもっともでございます。私どもの監視不行き届きでご心配をおかけしましたことを深くお詫びします」と頭を下げた。しかし母親の怒りはおさまらず、金子は真摯にその母親の抗議を聞きつつ「ごもっともでございます」「ご心配はごもっともでござます」などという歯の浮くような台詞を、バリエイション豊かに抗議の合間に絶妙なタイミングで差し入れていた。
 落ち着かせるのに成功すると、金子は報告に来た女性補助指導員に彼女と彼女の子どもを着替えさすためにいったん更衣室へ案内させた。林田はプール場へもどってほかの子の指導を続けた。その親と金子との話し合いの結果は、直接雄也には知らされなかったが、その親子が帰った直後に金子に呼び出された林田を通して、その子は母親の強い要望でスイミング教室を辞めることになったと聞かされた。
「本人は続けたい、続けたいってなんども母親に頼んでたらしいんだけど、もうとてもうちの子をお預けする気になりません、と強硬だったそうだ。金子もなんども詫びたんだけど、だめだったそうだ」
「なにがいけなかったんだ?」
「なにがって、あの子がどん臭かっただけさ。普通の子は息継ぎなんて、手取り足取り教えなくても感覚で覚えるもんだろ、それが固くなっちゃってて、極端に言えば歩き出すときに右手と右足を一緒に出すみたいな感じだったんだよ。あれれ、と見てるうちに、ごぼごぼ、と」
「おぼれちゃった」
 奈良野がおぼれるしぐさをしながら口をはさんだ。
「おぼれるわけないじゃんかよ。プール台沈めてんだから。立てば肩から上は水面からでるんだから。あの子のお母さんが大げさなんだよ。なんか彼女自身におぼれた経験かなんかあってトラウマになってんじゃないかな。口には出さないよ。そんなこと言ったらせっかく治まりかけてる感情を逆なでするようなもんだからな」
「一度や二度はそういう経験をして慣れてくんだけどな。俺も経験あるよ、あの子みたいになった子」
 雄也は勤め始めたばかりの頃のことを思い出した。
「過保護なんだよ」
「そうだな、あんなに親に厚く守られてちゃ、これからどうすんだろ。そっちが心配になってくるよな」
「同じことを言ってたよ」
「金子が?」
「ああ」
「わかってるね。ということは、おとがめなし、というわけだね」
 奈良野がまた口をはさんだ。
「なにもなかった。ただ幼い子どもの指導には今回のようなケースが多いから気を遣ってくれって」
 雄也は金子も今日みたいな騒ぎの当事者になった経験があるのだろうと思った。
 その日奈良野が林田と雄也を飲みに誘ったが、林田は「帰ってすぐ寝る」と言って断った。金子にああは言われても気が重いんだろうな、と雄也は林田の気持ちを察していた。
「俺も帰る」
 と答えて、雄也が更衣室を一番先に出た。
「ふたりともつき合い悪い。悪すぎ」
 奈良野が不満丸出しで毒づいているのが背後で聞こえた。
 外へ出ると、雨はすっかり上がっていた。照明が落とされたスポーツクラブのかまぼこ型の開閉式ドームを見上げた。雄也の頭には今朝めぐり合った彼女のことが浮かんでいた。
 今朝のことなのにすでに彼女の顔も彼女が放つ芳香もぼやけていて、思い出そうとしてもそのきっかけさえつかめなかった。
 
         Ⅲ
 
 翌週の木曜日、同じ時刻の同じ車輌に彼女は乗っていた。着ている服は違ったが、雄也にはすぐに彼女が醸し出す雰囲気でわかった。
 いつの間に乗り込んだのか、ドアに肩を押しつけるようにして立っていた。雄也はつり革にぶら下がっているいく人かの乗客を縫って近づいていった。その日はいつもより混み合っていた。彼女の近くのつり革を掴んで立ったとき彼女の放つ芳香が漂ってきて、雄也のなかのぼやけた記憶が鮮やかさを取り戻していった。
 彼女に強引に接近していった雄也に気づいた様子はなかった。彼女の姿を見つけたときと同じように窓外に顔を向けたままだった。
 車内は団体客なのか雑談や笑い声で騒々しかったが、少しも気にならず、雄也は彼女と再会できたこと、誰憚ることなく見つめていられることの幸せをかみ締めていた。
 あっという間に電車は雄也と彼女の目的駅に到着し、ドアが開くと彼女は先週のように後ろをふり返ることなく、足早に改札口へと歩いていった。
 この日も雄也は、彼女が人込みのなかに消えるのを改札口近くに立ったまま見送った。先週と違ってこの日は彼の気持ちにゆとりがあった。
 いつものように早々と着替えて、雑誌と缶コーヒーをもってプール場へ向かう。
 パイプ椅子を二つ向かい合わせに並べて足を投げ出し、缶コーヒーのプルトップを開けたとき休憩室側ではない監視員詰め所側の扉が開いた。雄也は雑誌から目を離し、缶コーヒーを持った手でページを押さえて扉の方へ顔を向けた。
「邪魔か?」
 金子が入ってくるのかと思ったら林田だった。
「いいや」
「そっちいってもいいか?」
「着替えてきたらどうだ」
「いや、今日は」
 林田の声が暗かった。
 林田がサンダルのペタペタという音とともに近づいてくる。雄也の横にパイプ椅子を置き、手でビニールの座面がぬれていないことを確かめて坐った。
「実は……」
 そう言いかけてため息を吐いた。
「俺、辞めようと思って」
「辞めるって、ここをか?」
「ああ」
「なんでだよ。先週の件の責任を感じてんのか?」
「そういうわけじゃない。前々から考えてたことなんだ」
「それにしちゃあ、いきなりじゃないか」
「言い出せなかったんだよ、自分でも自分の気持ちを掴みきれてなくて。なんかこのまま続けてても、来年も再来年も同じような中途半端な感じに思えてさ」
「結構じゃないか、同じで」
 雄也は林田の不満の原因を推し量ることができなかった。
「お前はどうかしらないけど、俺にはなんにもないんだ。やりたいこともなりたいもんも。このままここに勤めていても、来年も再来年も俺は百パーセントこのまんまなんだと思う。だから思い切って、環境変えてみようかと」
「環境変えるって……」
 そのとき館内アナウンスのチャイムが鳴った。
「事務局からの業務連絡です」
 金子の声だった。
「篠田くん、篠田くん。手があいてたら、事務局へ顔出してください」
 アナウンス終了のチャイムが鳴る。
「大げさだな。館内放送するほどのことじゃないんだろ、どうせ。とにかくその話、後で詳しく聞かせてくれよ」
「ああ。でも俺、今日から一週間ほど休むつもりで来たんだ。ちょっと田舎に帰ってくる。金子にはもう言ってある。母親の具合が悪いって。話、合わせといてくれ。入院しているのは本当だからさ」
「なんで突然なんだよ。昨日でもその前でも話す機会はあっただろう?」
「責めないでくれよ。帰ってきたら、きちんと話すからさ」
「まったく勝手なやつだな」
 いくぶん前かがみな林田がサンダルを鳴らしながらプール場から出ていった。

「悪いね、朝忙しいときに呼び出して」
 事務局に顔を出すと金子が待ち構えていた。
「補助指導員の面接の件だけど、来週の三十日の木曜午後一時ということに決まったから。当日五階の会議室に三十分くらい前に顔出してくれる?」
「わかりました」
「それから聞いてるよね、林田くんのこと」
「おふくろさんの具合が悪いとか」
「福岡だっけ? 林田くんの実家?」
「ええ、たしか久留米だとか」
「林田くんも大変だよな。ひとりっ子だし、お父さんは行方知れずなんだってね。近くにお母さんの面倒見てくれる人がいればいいんだけどな。いずれにしてもだ、一週間人手たりなくて大変だろうけど、シフトよろしく頼むよ」
 金子に林田の辞めたいという話を伝えておこうかどうか迷ったが、すぐにどうなるかわからない話をいま持ち出すべきではないと思い、そのまま金子に背を向けて事務局を出た。
 更衣室でジャージを脱ぎロッカーにしまうと、隣の林田のロッカーを見た。同期入社の林田とは入社初日から馬が合った。毎日顔を合わせているうちにお互い口数は少なかったが、互いに打ち解けてすぐに旧知の間柄のような仲になった。 
 雄也は複雑な気持ちを抱えてプール場へ戻った。プール場に奈良野の姿があった。
 奈良野が林田からなにか訊いているかもしれないと思い、プールの残留塩素を測っている奈良野に「林田からなにか聞いてるか?」と尋ねてみた。
「聞くってなにを?」
 奈良野もなにも知らされていなかった。
「そうか。じゃあ、いい」
「じゃあいいじゃないよ。なんだよ。なんの話?」
 余計なことを聞くんじゃなかったと後悔した。
「休むという話」
 知りたかった内容とは違う話にすり替えた。
「休む?」
「今週いっぱい」
「ええーっ、聞いてないよ、ぜんぜん。先週のことが原因なのかな」
「なんか入院しているおふくろさんの具合が悪いそうだ」
「そういえば、そんなこと言ってた、言ってた。ついてないね、あいつ。もしかすると、そんな心配事があるもんだから、この前注意力散漫だったのかな」
「関係ないと思う」
 そうは言ったものの、雄也にその確信はなかった。
「塩素測定すんだら、床デッキも頼む」
「これだよ!」
「ロバート・デ・ニーロの真似かよ」
「似てるっしょ?」
 さらに誇張して、腕だけでなく口までへの字にして見せた。
 プール場を出るとき奈良野の方を見ると、なにごともなかったように『ゴッド・ファーザー』愛のテーマ曲の鼻唄交じりにデッキブラシを操っていた。

         Ⅳ

 三十日の木曜も同じ時刻の同じ車輌に彼女は乗っていた。ただこの日、改札口を出た彼女はいつもの方角ではなく、雄也が向かおうとしている方向へ歩いていった。彼女の歩みは速く、気まぐれで歩いているようには見えなかった。
 彼女は雄也がいつも通っている道をたどって彼が勤めるスポーツクラブがある建物に入っていった。雄也は目を疑った。あわてて従業員通路を経て一階の受付けが見える窓に駆け寄った。
 彼女は受付けでしばらくなにごとかを尋ねた後、事務局のある方へ向かって歩いていった。
 それから雄也は彼女の姿をもとめて建物内を探して回ったが、彼女を見つけることができなかった。とりあえず一旦諦めて更衣室へ向かった。気がついたときにはすでにこの建物から出てしまったとしか思えないほどの時間が経過していた。
 ――なぜ彼女がここに?
 彼の疑問を解いてくれたのは、彼女と受け答えした受付けの青柳裕子だった。青柳は受付カウンターそばに立ったまま一向に動こうとしない雄也を訝しげに見上げた。
「どうしたんですか?」
「いやなにも」
「そこにずっと立ってられると落ち着かないんですけど」
「あっそっか、ごめん。今日なんか催事あったっけ?」
「なにもないですけど……」
 確認するようにカレンダー帳を捲っている。
「今朝出勤するとき見かけない人が事務局に入っていくのを見たからさ」
「ああ、この子のこと?」 
 受付けカウンターのテーブルの上に置かれた履歴書をポンと叩いて言った。
「滑り込みセーフってとこね。当日の申し込みというのはあたしがここへくるようになってから初めてのことだわ」
「なんの申し込み?」
「なんで篠田さん、そんなこと知りたがるの? もしかして」
「やめてよ」
「じゃあ、なんなんですか?」
「……ちょっと知ってる娘に似てたから」
「ふーん、知ってる娘ねえ。で、どんな知り合い?」
「勘ぐるね、青柳裕子。さすが情報ツウ」
 冗談でごまかそうとする雄也の顔から目線を外すことなく、「水泳補助指導員のアルバイトはまだ申し込みできますかって聞いてきたのよ」と教えてくれた。
「そうだったんだ」
「申し込みはできるけど、面接、今日の今日だからどうかな、と正直に答えたら、なんと言ったと思います? 採用担当の方に会わせていただけませんかって言うの。たいしたもんですよ。根性ある。就活のときあの根性は武器になる。でも、あたしの予想じゃ、彼女は面接に来ないと思う」
「なぜそう言い切れるの?」
「どうしても指導員やりたいというスキル持った人ばかりだから、申し込みにくるの。しかも募集を出したと同時に。そう彼女にも一応伝えたし、いくらなんでも当日じゃあね。冷静になって考えたら諦めると思う。あたしだったら」
「わかんないよ、履歴書置いてくぐらいだから」
 疑いはまだ晴れてないらしく、同じような探るような目つきが雄也の顔に注がれている。
「締め切りぎりぎりの当日に申し込みよ。思いつきで来たっていう感じするでしょう?」
「………………」
「仮に面接受けてもだめでしょうね。今回応募者多いし、かつて県大会で優勝した経験者とか中学のときの記録保持者なんてのもいるから」
「それでも、金子次長には会っていったんだよね……すごいね」
「もし知り合いの娘だったら、篠田さん、どうしても入れたいですか?」
「いや、俺にそんな力ないし……」
 雄也は彼女から目をそらした。
「入れたかったら、いまからすぐ理事長のところへ行って、僕ののっぴきならない知り合いなんです、ぜひ希望をかなえてやってくださいとでも頼んでおくんですね。でないとまず無理だと思う」
 青柳のなかからすでに雄也の彼女への興味のわけなどどうでもよくなったらしく、ほかの書類と共に彼女の履歴書も抱えて受付カウンターの席を立った。
 雄也に理事長にそんな願いを伝える理由が見つからないし、たとえ伝えたとしてもそんな頼みごとが通るような話ではないことくらいわかっている。
「知り合い? どんな」
 そんな簡単な問いにすらもまともに答えられるかどうか怪しい。
「その人だけ特別扱いして合格というのはどんなものだろう。君はどう思う? そんなえこひいき……」
 金子に告げられた三十分前という時間をちょっと過ぎたころ会議室へ行くと、金子がひとりで机と椅子をセッティングしていた。
「手伝います」
「いや、もう終わりだから」
 金子に怒っている様子はなかったが、雄也はもう少し早く会議室に顔を出せばよかったと思った。
「あっ、そうだ。篠田くん、今日理事長は都合が悪くて面接しない。副理事長が代り」
「そうなんですか」
 ――副理事長だったら、本気でお願いすれば補助指導員のひとりくらいの特別採用など不可能なことではなかったかもしれない。
 雄也はそんなことを考えながら、やや緊張が解けたからだを一番端の椅子に運んだ。
 事実上のクラブの運営を取り仕切っているのは、親しみやすくて、どちらかと言うと楽天的な性格の理事長の実弟の副理事長だった。現場にノータッチで、主に経営者として全都市を飛び回って拡張活動を行っているのが兄の理事長だった。攻めの理事長に守りの副理事長という役割分担は、この地にスポーツクラブの一号館をオープンさせたときから決まっていたようだ。
 
 面接会場として準備されていた五階の会議室の扉を最初に開けて入ってきたのが、ダークスーツ姿の彼女だった。面接時間のかなり前から館内で待っていたらしい。
「高城里花子です。よろしくお願いします」
 透明感のある美声だった。表情は堅かった。緊張しているように見えた。
 隣に坐っている金子が履歴書の束から彼女の履歴書を取り出し、副理事長の机の前に差し出して言った。
「高城さんは指定の時間の一時間も前から待っていらっしゃいました」
「ほう、そんな前から」
「こちらの雰囲気みたいなものに慣れておきたくて」
「ほう、雰囲気ですか。で、どんなでしたか?」
「とても活気があって、お子さんも親御さんたちも和やかで、とても親しみを感じました」
「ほう、そうですか。高城さんは慶徳女子大の学生さんですね」
「はい、社会学部の二年です。もうすぐ三年になりますが」
 彼女は雄也の三つ下の歳だった。
「ご出身は岡山ですか……ということは、いまはおひとりで生活してらっしゃるんですか?」
「はい。1LDKの部屋を借りて住んでます。両親もわたしも学生寮を希望してたんですが、抽選に漏れちゃいまして。それで家賃は少し高めだったんですが、仕方なく」
「ああ、なるほど。ということは応募の動機はそういう理由からですかね」
 副理事長が察してそう言うと、「それだけではありませんが」と彼女は言い、会議室に入ってはじめて笑顔を見せた。
「親御さん思いのお嬢さんで、ご両親はあなたのことをさぞかし信頼してらっしゃることでしょうね」
「いいえ。たびたび電話が掛かってきて、あれこれ細かいことを注意されています」
 彼女は恵まれた家庭に生まれ、両親に愛されて健やかに育ってきたようだ。母親の笑顔も叱る声もいまやおぼろげ程度しか記憶が残っていない雄也は、自分と彼女との家庭環境の隔たりを感じないわけにはいかなかった。
 雄也の母親は彼が十二歳のときになにも告げずに家を出ていった。雄也は父親に、母親がなぜ家を出て行ったのか、これからどうするつもりなのかなど訊きたいことは山ほどあったが、はっきりさせることが怖くてなにひとつ尋ねなかった。父親もそのことについてまともに雄也に話すことはなかった。
 その後、父親と母親は協議離婚している。なんどか話し合いのために両親は会っていたが、雄也にはその経緯はなにも知らされなかった。離婚を知ったのは中学に進学してからだ。それもその事実だけで、理由もなにも教えてくれなかった。母親がどこでどう暮らしているのかも知らされなかった。
 母親が突然家からいなくなったことは雄也に深い傷となって残った。なぜ自分になにも言わずに出ていってしまったのか、自分に愛情を感じていなかったのかなどと考えては、寂しさと哀しさに気が狂いそうなときがあった。親の身勝手さに憎しみも抱いた。その当時ほどではないが、いまもその感情を引きずっている。雄也のこころにあいた空洞を埋めてくれるものはなにもない。
 離婚後、後妻の話がなんどか持ち上がったが、いずれも再婚するまでにはいたらなかった。高校を卒業すると同時に雄也は上京したのでその後のことはわからない。
「ご姉妹はいらっしゃるんですか?」
「はい。妹がいます」
「そうですか。早くからおふたりとも家を出られるというのは、親御さんとしても大変ですよね」
 そんな副理事長と彼女とのやりとりを雄也は黙って聴いていた。彼にとって彼女が口にするすべてが貴重な情報だった。
 面接中彼の頭には、いま親しい友達はいるのか、つき合っている男はいるのか、はじめてのひとり暮らしはどうなのかなど、面接とは直接関係のない疑問が渦巻いていた。
「最後に、さきほどあなたがちょっとおっしゃりかけた応募の動機についてお聞かせ願えますか?」
「はい。履歴書に書かせていただきましたとおり、わたしには水泳の経験があります。水泳への情熱ではだれにも負けないという自信があります。水泳の上手下手ではなく、技術だけではなく、水泳というスポーツを通してひとりでも多くの子どもたちに自分のからだを自分の意思で動かすことの楽しさ、喜び、そして充実感を知ってもらいたいんです。いまのわたしにはそのお手伝いができるというのが最大の応募動機です」
 副理事長の顔を盗み見ると、彼は笑みを浮かべ「うん、うん」と声には出してはいないが、大きく頷いていた。副理事長は彼女に好感をもったようだ。
「お願いするとしたら、どのくらい続けてもらえるんでしょうか?」
「できるだけ長くと考えています」
「そうしてください。仕事を覚えてすぐ辞められちゃうと、こちらとしても困るもんだから」
 副理事長はすでに彼女を採用する気になっている、と雄也は思った。
「条件や勤務時間についてはご承知ですよね」
「はい。資料をいただいています」
 彼女の声色も態度も、入ってきたときより一段と明るくのびのびとしたものに感じられた。
「金子くんも篠田くんもいいですね」
「結構だと思います」
 金子が答えた。
「じゃあ、お願いしたいと思います」
「えっ?」
 金子が慌てて副理事長の顔を見た。雄也も金子と同様に話の展開に驚いていた。
「詳細は後ほど事務局の方からご連絡させていただきます」
「よろしくお願いいたします」
「じゃあ、あなたの方からなにもなければ、そういうことで」
「はい。ありがとうございます」
 彼女は椅子を立ち、完璧なお辞儀をして退室していった。
 その後の面接者の顔や内容を雄也はほとんど覚えていない。うわの空で聞いていたからだ。立会いだけのためにその場にいる役割をむしろ感謝していた。雄也は、高城里花子の声、話し方、態度、しぐさ、そして口にした一語一語をいくども思い返していた。
 この日、副理事長の独断で、印象の良い面接者にその場で採用決定を告げ、五人の定員に達したところで、「あとは金子くんと篠田くんに任せた。一応全員予定通り失礼のないように面接してください」と言い残して会議室から出て行った。
 夕方、金子が五人の採用決定者の履歴書と不採用となった応募者全員の履歴書、そして、採用決定者向けと不採用者向けの二通の文書をもって監視員詰め所に現われた。
「採用決定者には今日中に採用決定通知発送しといてくれるかな。不採用者へは明日でもいいけど、履歴書も不採用通知と一緒に返送してください。それと念のために応募者全員の履歴書のコピーをとって僕のところに持ってきてくれる?」
 雄也は平静さを失っていた。応募者の履歴書の束を持つ手が微かに震えていた。
 金子が出て行った後、雄也は履歴書の束のなかから彼女のものを取り出した。履歴書に貼られている写真はいかにも履歴書用のために撮られたと思われる表情に乏しいものだった。真正面を向いた真剣なまなざし、しっかり結ばれたくちびる。そのうえ着ているものもそつのない白のブラウスにダークスーツ。
『高城里花子 城石町一丁目二十五番地メゾン・ド・ルミエール三〇六号 二月十六日生まれ 二十一歳 岡山県倉敷市米倉女子学院卒……慶徳女子大学社会学部……趣味 読書、映画鑑賞……特技 水泳、ピアノ』
 雄也はその場で彼女の履歴書だけことさら時間をかけて丁寧に目を通した後、全員分のコピーをとるために四階の資料室へ向かった。

         Ⅴ

「ずいぶん早くから来ているんですね」
 雄也がプールから出てタオルに手を掛けようとしたとき、背後から声をかけられた。高城里花子だった。彼女と一緒に仕事をするようになって数週間がすぎた日のことだ。
 彼女は雄也の怪訝そうな表情を見ながら、
「一時限目の履修科目が休講になっちゃって、帰ってまた出てくるのも億劫だから時間つぶそうと思ったんですけど、なにも思いつかなくって、いつの間にかここに足が向いちゃってました」
 と言って、ふっふっと含み笑いをした。
「まだ開館まで時間あるし、よかったらわたしとタイム計ってみませんか?」
 彼女は雄也の返事も聞かず、ロッカールームへ走っていった。
 間もなくすると、スイミングキャップに髪をまとめながら姿を現わした。精悍さを際立たせるデザインの競泳水着をまとった彼女の姿態を直視できなかった。
 雄也はこのとき高城里花子と結びつけようとするなにか大きな力が働いているように思えた。
「実力をお見せします」
 彼女は上機嫌だった。軽く屈伸運動とストレッチをこなすと、
「二十五メートル自由形ということで、いや五十メートルでいいっか」
 と言うなり、雄也の返事も待たずにスタート台の上に立った。そして雄也に向かって隣の4コースのスタート台を大げさに指さした。
「ちょっと待ってよ」
「待てません」
 雄也の顔を見ながら、悪戯っぽく笑った。
「さっ、早く。五十メートル自由形ということで」
 雄也は根負けして仕方なく促されるまま、慌てて羽織ったジャージを脱ぎ、4コースのスタート台の上に立った。
「わたしのカウントダウンの合図でスタートですからね」
「ちょっと待ってよ」
 雄也はそそくさとスイミングキャップとゴーグルをつけ、腕を大きく振り回した。
 彼女のクロールは一流だった。雄也もそれほど遅い方ではなかったが、最初の二十五メートルから差をつけられ、折り返してやや追いついたものの一度もその前に出ることはできなかった。ラストスパートを掛けられ、ゴール間際では彼女のばた足についていくのがやっとだった。
「わたしの勝ち!」
 ゴーグルをスイミングキャップの上にずらし、勝ち誇ったように満面の笑みを浮かべてそう言い放った。
 雄也には勝ち負けなどどうでもよかった。一緒に二人でいられるだけで幸せだった。彼女と一緒に仕事をしはじめてからずっと願っていたことだった。
 すぐ隣に彼女がいる。触ろうと手を伸ばせば触れるところに坐っている。プールのなかで彼女と見詰め合っていたとき、雄也は心の底から時間が止まってしまえばいいと思っていた。
「岡山出身でしたよね」
「どうしてそれを」
「面接で」
「ああ、あの場にいらしたのは……うーん、名前がでてこない」
「篠田です」
「すいません。最初のスタッフ顔合わせの時に挨拶していただいたのに。憶えが悪くって」
「……岡山のどこなんですか?」
 雄也はすでに知っていることを訊ねた。
「倉敷です」
「ああ」
「行かれたことは?」
「ありません」
「篠田さんは?」
「鹿児島の山奥。うら寂しい所です……」
「鹿児島のどこなんですか?」
「言ってもわからないと思います。大隅半島の南部の町です」
「有名でなくても、どんな辺鄙な所でも、故郷というのはとてもいいものですよね。思い浮かべるだけでなにか胸の奥がジーンと暖かくなってくるような……」
 彼女は故郷への思いを雄也に熱っぽく語って聞かせた。
「いずれは地元で教師になるつもりです」
 彼女は視線を天窓へ向けていた。教壇に立っている自分の姿を透視しているかのように見えた。
「ああっ、もうこんな時間。わたし、行かなくっちゃ」
 慌ただしく更衣室へ向かって駆けていった。
「篠田さん、このお返しにこんど○△*△※◇〇△」
 プール場の扉が閉じる間際に、彼女が雄也に向かってなにやら言い残して去っていった。雄也に彼女の最後の方の言葉が聞き取れなかった。

 プールでの一件から一、ニか月が過ぎた頃、雄也に思わぬ展開が待っていた。その間ずっと彼は自分の思いを伝えられず、彼女との狭まることのない距離にやるせなさを感じ続けていた。
 その日勤務を終え、いつものように帰路に着いた。駅が見えてきたときハッとした。改札口の脇に数時間も前に帰ったはずの里花子の姿があったからだ。
 ――待ち合わせ……
 スマホを見ている彼女を見た次の瞬間、雄也は厭な胸騒ぎを覚えた。彼は里花子の方を見ないようにして改札を抜け、足早にホームへ下りて行こうとした。
「篠田さん!」
 雄也は立ち止まった。しかし自分の名が呼ばれたのが空耳のように思えて、すぐにはふり返らなかった。
「篠田さんてば!」
 今度は確かに彼女の声が聴こえた。後ろから駆けてくる靴音が近づいてくる。ふり返るとすぐ目の前に里花子が息を弾ませて立っていた。
「なんで無視するんですか?」
「えっ? 無視?」
「嘘! さっき改札のとこで一度目が合ったじゃないですか」
「ああ、いたんだ、気がつかなかった」
 雄也は嘘を吐いた。
「もう」
 彼は彼女の姿を見て、とっさに彼女が自分の知らない相手と待ち合わせしていると決めつけていた。それも相手は男だと。
「嘘つき。一度目が合って、それから目を伏せて見ないふりして足早に行こうとしたじゃないですか」
「いや」
「いや、じゃないですよ、まったく。嘘ばっかり。でも、いいや。待ってたのはわたしの勝手だから」
「待ってた?」
「そう。これからこの前の勝負のお返しをしてもらいます。夕ご飯、ご馳走してください」
 彼女は雄也の眼を見据えたまま腕を組み、口を膨らませた。雄也にプール場での彼女の有無を言わさぬ積極さを思い出させた。
「俺と?」
「ええ、急ぎの予定がなければ」
「………………」
 雄也は答えに窮した。
「迷惑ですか?」
「いや」
「よかった!」
 満面の笑みをたたえている。
「どこかご存知ですか? おいしいお店」
「そうか、そういうことか。だけど俺、あんまり垢抜けたとこ知らないから」
「どこでもいいです。篠田さんがいつも行くお店で」
「よく行く店といっても」
 いつも帰りに立ち寄る定食屋ってわけにはいかないだろうと思いながら駅前の周辺を見まわした。ロータリーに面した所にファミリーレストランの看板が見えた。
「ファミレスでいい?」
「ええ、もちろん」
 ウエートレスに窓際のテーブルに案内され、手渡されたメニューを眺めているとき緊張からか食欲がなくなっていることに気づかされた。雄也は急な事の成り行きに頭が追いついていなかった。 
「わたし、生ビールがいいな」
「生ビール?」
 雄也は一瞬聞き間違いかと思い、メニューから顔を上げて確認していた。
「びっくりした?」
「ちょっと」
「この小娘がって思ってるでしょ? 初デートからお酒頼むなんて、こいつ舐めてんのかって思ったでしょ?」
「そうは思わないけど、これってデートなの?」
 彼女はそれには答えず、畳み掛けてきた。
「いいでしょ、飲もうよ」
「飲もうよ、って」
「ため口、ダメ?」
「そういうことじゃなくて。お酒飲めるの?」
「二十一歳、女酒豪!」
 里花子は雄也の目をまっすぐに見てそう宣言し、ちょっと舌を出した。
「仕事場じゃないんだからため口でいいでしょ」
「いいですけど」
「いいよ、でしょ」
 里花子は嬉しそうに訂正した。
 結局、ファミレスで大ジョッキを一杯ずつあけ、里花子が焼き鳥が食べたいというので、雄也は林田、奈良野と入ったことのある焼き鳥屋へ案内した。串焼き盛り合わせと枝豆をつまみに二人は生ビールとサワーを数杯あけた。里花子は自己申告どおり強かった。雄也の方はかなり酔いがまわっていた。
「篠田さん、わたしのこと好きでしょ?」 
 里花子が突然ドキリとすることを口にした。
「わたしを見る目つきが普通じゃない」
「なに言い出すかと思えば……」
「また、嘘」
「嘘じゃ……」
「青柳裕子先輩から聞きました。知り合いの娘に似てるだなんて、下手な嘘」
「えっ!」
 雄也は赤くなった。里花子の応募を受け付けた青柳裕子があの日の自分のことをすべてしゃべったのか、とうろたえた。
「気がつかないふりしてたけど、ばっちりわかってた。なんで声かけてこないのかなって思ってた。じれったいんだから、女子の方から手を差し伸べないとなにもできないわけ?」
 雄也は返す言葉がなかった。
「今度は、ごまかすつもり?」
 里花子の酔った表情が真顔になった。
「わたしを誘いたかったんでしょ?」
 雄也はあたふたして、ビールジョッキに手を伸ばした。
「まったく、これっぽっちも考えてなかった?」
 雄也は口を開くのをためらった。開けば自分では制御できないことを口走ってしまいそうだった。
 酒の勢いもあったのか、彼女はとても積極的だった。雄也が酔った足どりで歩いていると彼女の方から腕を絡めてきた。またネオン看板に彩られた雑居ビルが立ち並ぶ路地裏では雄也の肩に頭を乗せてきた。
 里花子は雄也に身をあずけてきた。雄也は自分の足で歩いている感覚がなかった。それは酔いのせいばかりではなかった。
「わたしはね、言っときますけど、すぐほいほい男の人についていくほど軽くはないんですからね」
 ……………………。
 彼女は最寄り駅から出ているバスで三つ目の「野池通り前」停留所の近くに住んでいると教えてくれた。すでに深夜バスはなくなっていた。自宅マンションへの道を辿る途中で里花子は伏し目がちにしっかりした口調で告げた。 
「篠田さんだから、篠田さんだったからだよ」
 雄也は自分の顔がさらに紅潮してくるのがわかった。

         Ⅵ

 新学期を迎え、スポーツクラブの幼児教室、一般クラスの生徒はガラリと入れ替わった。
 教室に集まってくる児童や主婦の顔ぶれが変わっても、雄也たちの仕事はさほど変らない。プログラム構成に変更があるにせよやることはほとんど同じで大きな変更はない。体力増強指導、水中エクセサイズのトレーナーが替わる程度だ。
 それぞれのスタッフはそのスキルによって雇われているから、水泳以外のほかの部署へ回されることはないし、また青柳裕子のような総合職ではないので、よその関連スポーツクラブや施設への異動もない。金子はそろそろ営業本部への人事異動内示があるのではないかと期待していたようだが、それもなかった。
 変わりがあったのは里花子の雄也に対する態度だった。
 職場での彼女はそっけなく、顔を合わすことはあっても挨拶程度で、それ以上の親しい会話はなくなった。雄也は彼女の気持ちが読めなかった。あの夜のことはなんだったのだろうといくども考え倦んだ。疑問が後から後から湧き出して溢れかえった。
 雄也は駅でも車輌のなかでも彼女の姿を探していた。彼女が駅の改札のところで待っているかもしれないと思うだけで動悸が激しくなるのを覚えた。胸の辺りを針で刺すような痛みすら感じていた。
 冷たい態度を彼女にとられればとられるほど彼の気持ちは昂り、満たされない感情が増すばかりだった。彼女の冷淡な態度に臆して、また自分が傷つくのを恐れて彼女に問い質すことができなかった。
 彼女から冷淡な態度をとられた後の彼は平静でいられなかった。寝ても醒めても彼女のことが頭から離れない。なにも手につかない。いまなにをしているのだろうか、なにを考えているのだろうかと考えては抜け出せない泥濘にどっぷりと浸かっていた。
 いつしかそんな感情が雄也をつきまとい行為へと駆りたてていった。学校の女友達との待ち合わせやショッピングにもついていく。彼女ひとりでの近所のスーパーへの買い物にもついていく。まぎれもないストーカーだった。彼女をつけまわすことで、彼女との垣根が取り払われるような錯覚を覚えるからだった。
 そんなある日の午後、彼は監視員詰め所でアルバイト全員の出勤簿を整理するためにひとりきりになった。スタッフ全員の出勤簿と翌月の勤務予定表をプリントアウトし、事務局の金子の所へ届けに行こうとして立ち上がったときなにか固いものを踏みつけた。咄嗟に体重を乗せかけた足を浮かして確認してみると、ピンク色のマスコット人形のついたキーホルダーだった。それに「Takagi Rikako」と刻まれていた。
 雄也はとんでもないものを見つけてしまったと思った。すぐ彼女へ返してあげようと勤務表を見ているうちに、その気持ちが一変した。これは幸運なことじゃないのか、と。
 彼は彼女のキーホルダーと金子に届ける書類をもって詰め所を出た。その足で同じ建物の一階に入っているリペアーショップに向かった。キーホルダーには二本の鍵がついていた。一本は見覚えのあるクラブのロッカーキーで、もう一本は紛れもなく彼女のマンションの部屋の鍵と思われた。雄也はキーホルダーからマンションの鍵と思われる方を外し、コピーを頼んだ。それから金子のところへ出勤簿と勤務予定表を届けに行った。エレベーターのなかで雄也はこれからなにが起こるのか起こせるのかと、とりとめのない妄想を膨らませて興奮していた。
 金子と事務的な話を終えリペアーショップへ戻ったときにはすでに合鍵は仕上っていた。キーホルダーにオリジナルを元のようにつけ、すぐ気づかれるように監視員詰め所に積み重ねられている折りたたみ椅子の上に置いた。

 スポーツクラブの休館日、雄也は彼女のマンションの前にフルフェイスのヘルメットをかぶったままの恰好で原付バイクにまたがっていた。 
 午前十時すぎに里花子がマンションの扉を開けて出てきた。ジーンズにピンクのダウンジャケット。彼女はしばらくマンションの前で誰かを捜すように周囲を見まわしていたが、しばらくすると駅の方角へ歩きはじめた。
 雄也は原付バイクのキーを回した。スタンドを足で跳ね上げ、国道の向かい側の歩道を歩く彼女にとろとろとしたスピードを保ちながらついていく。
 彼女は駅に向かうバスに乗った。雄也はすばやくバイクをバスと同じ車線へ運ぶ。やがて駅に着く。雄也は速度を上げ、彼女を追い越して駅の駐輪場にバイクを停めた。ヘルメットをシートのなかに仕舞い、キーを引き抜き、改札口へ向かって階段を駆け上がった。
 間もなく彼女が姿を現し、一度後ろを振り返ってから改札口を抜け、上りホーム側の階段を降りていく。雄也は彼女に気づかれぬように距離を置いて後を追った。
 すでにホームに停車している電車に彼女が乗り込む。雄也が同じ車輌に乗るのと同時に扉が閉まった。彼女は扉近くのつり革につかまって立っていた。電車の揺れるたびにその横顔が見知らぬ男や女の腕や顔に隠れて見えなくなる。彼女は人形のようにつり革につかまったまま電車の揺れに身を任せていた。
 電車が勤務先の最寄り駅を通過する。次が終着駅だ。雄也は駅に近づいたところで彼女からいちばん遠い扉へ移動した。改札口も駅前も人でごった返している。
 彼女はいくども後ろをふり返る。そのとき雄也は気づかれたように思ったが、彼女はなにごともなかったようにそのまま駅前のデパートに入っていく。衣類や化粧品売り場には立ち寄らずまっすぐエスカレーターの方へ向かった。
 最上階が彼女の目的のフロアだった。そのフロアには封切り映画館と喫茶店がある。
 彼女が『レッド・サンドグラス』という洋画のタイトル看板が掛かった入り口へ向かうのを確認すると、雄也もすばやくチケットを買い求めて映画館に入った。
 さほど広くないホールの一番後ろの扉だけが観音開きに開け放たれていて、館内はおびただしい数のダウンライトに照らされていた。雄也は彼女のすがたを捜した。立ったままピンクのダウンジャケットから腕を抜こうとしている人間に目が止まった。
 彼女が入り口近くに立つ雄也の方角へ眼をやる。雄也と目が合ったように思えたが、彼女はそのまま席に腰を下ろした。
 彼女の席から数列離れた斜め後ろの席が空いていた。雄也が声を出さずにその席の隣りの女性に指で確認すると快く通してくれた。雄也と彼女の間を遮る客はいなかった。彼女は前方の舞台カーテンへ顔を向けたまま、隣の席の上に折りたたまれたジャケットを撫でていた。
 館内にショパンのノクターンが流れている。そのピアノの旋律に聞き入っている風情。隣の席に坐っている自分を想像すると雄也の心も和んでいく。
 館内にブザーが鳴り渡り、徐々に照明がおとされカーテンがモーター音と共に開いていった。両側の通路の誘導灯と高い天井のわずかなダウンライトを残して照明が落とされるのと同時に予告編紹介がはじまった。
 疾駆するスポーツカーがエンジン音を轟かせながら障害物を次から次へとかわしていく。続いてマシンガンの連射、連射。迫力満点の映像の連続。大破し、横転する車、車……。
 予告編が終了しいきなり訪れた静寂のなか見覚えのある洋画会社のロゴが映し出され、本編が始まった。ノクターンとはほど遠い神経を逆なでするようなミステリアスな音楽が流れはじめる。
 スクリーンいっぱいにどこかの片田舎の町並みが車を運転する何者かの目を通してゆっくり舐めるように映し出されていく。その合間合間に遠慮がちに俳優の名が横文字で現われては消える……。
 広い農場のトウモロコシ畑に沿ってまっすぐな道を抜けると、やがて一軒の農家が見えてくる。車はその農家の手前の木陰で停止する。
 農家の玄関から男の子と女の子、そして犬が飛び出してくる。子供たちは満面に笑みを浮かべて、畑の方へ駆けていく。犬はそのあとを吼えながら追いかけていく。
 黒い皮の手袋をした手が、ダッシュボードからサバイバルナイフとなにやら液体の入った壜を取り出す。車のドアが開き、その人間の片足が地に着く。そして、ゆっくりと農家の裏手に歩み寄る。次第に家のなかが窓から窺えるようになる。テレビの音が漏れている。人の姿はない。
 裏手のドアがゆっくりと開けられ、その家のキッチンに忍び込む。キッチンをぬけ、リビングヘ。壁にその家の家族の楽しげな写真が飾ってある。その一つひとつが侵入者の目を通して映し出されていく。その家の主であろう男が、こちらに笑いかける写真のところで一瞬映像が止まる。黒い皮の手袋をした手がその一枚を荒々しく剥ぎ取る。
 そこで映像は外で遊びまわる子どもたちへと飛ぶ。サンセットに輝く子どもと犬……。
『レッド・サンドグラス』は、妻子ある男を愛した女が、その男と家族に執拗なストーカー行為とショッキングな怪奇事件を繰り広げる、サイコサスペンス映画だった。
 彼女は明るくなってからもしばらく席を立たなかった。雄也はそんな彼女にちらちら目をやりながら席を立った。入り口近くで振り返ると、ちょうど彼女が整然と並んだ空席に囲まれたなかで、ひとりダウンジャケットに腕を通しているところだった。
 駅へと向かう途中でも、彼女はなんども後ろを振り返り、雄也を驚かせた。雄也に不安が走った。気づかれているのかもしれない。雄也の脳裏に映画のワンシーンがよぎった。
 彼女が自宅マンションのなかに消えると、雄也も自宅へ戻った。帰途バイクを走らせながら、雄也は彼女の不可解な行動を思い返していた。
 金子から彼女が仕事を辞めたと知らされたのは、その数日後だった。

 里花子がスポーツクラブを辞めた直後に、林田も金子に辞表を提出した。金子の話によると、母親の病状が悪化し、自分以外誰も病院に詰めて面倒を見てやれないから、というのがその理由だったらしい。
 林田が明かしてくれる約束だった本当の辞職理由について、なにも聞かされていなかったし、辞職の報告も受けていなかった。彼は裏切られたような、切り捨てられたような疎外感を抱いた。
 金子から知らされた直後に、雄也は林田の携帯に電話をかけた。
「おまえに相談もしないで、こういうことにになって大変申し訳なく思ってる。俺んちにはひと言では説明できないややこしい事情があるんだよ」
「ややこしい事情? 前に自分の将来の問題みたいなことを言ってたじゃないか。家庭の事情なんて初めて聞かされる話じゃないか」
「それもひとつの理由だよ。これからは田舎で生活することになる。本当に黙って辞めてすまない。余裕ができたらこっちから連絡させてもらうよ」
 林田は電話を切ろうとする。
「おまえとは親友だと思っていたけど、俺の勝手な思い込みだったのか」
「そう言うなよ。必ず近いうちに連絡するからさ」
 林田はそう言うと電話は一方的に切られた。雄也は自分の携帯電話の液晶画面からしばらく目が離せなかった。
 里花子と林田というふたりの突然の辞職は、雄也に母親が黙って家を出ていったときの寂しさと哀しさを甦らせてくれた。
 里花子はスポーツクラブを辞めたのを機にそれまでの生活パターンをすっかり変えてしまった。いつも必ず乗車していた車輌からも姿を消した。駅で数日時間ぎりぎりまで彼女が現れるのを待つことを続けてみたが、改札口から出てくる人のなかに彼女の姿を見つけることはできなかった。これまで以上の強い拒絶の意思が読みとれ、怒りすら覚えた。
 不満がないわけではないが、そこそこのやりがいと充実感がえられていた場所だった職場が、地獄と化してしまった。雄也を重い不眠症と摂食障害が襲った。彼女の笑い顔や勝ち気な表情を見ることはもう永遠にないのだ、もう会話を交わすこともできないのだと思うとさらなる絶望感と欠落感が雄也を責め苛んだ。
 浅い眠りのなかで繰り返し里花子の夢を見た。夢の展開は雄也が望まない方向へと発展していき、いきなり背後から蹴りつけられるような覚醒のされ方を繰り返していた。闇のなかでいくら目を瞬かせても焦点が定まらず、あまりのリアルさに夢の世界から現実に戻るまでに時間がかかった。目覚めてからも目覚めさせられたときの不快な感情がいつまでも尾を引いていた。

        Ⅶ

 病院に救急隊員から通報を受けた警察官が現れ、雄也は被害者との関係、事故状況について簡単な質問をされた。
 雄也は、マンション前の国道に出た時にはすでに彼女は中央分離帯に立っていたと証言した。警察官の質問は、自分から飛び込んだのか事故なのかを確認することに絞られていた。それ以外のことは訊かれなかった。
 その警察官から現場から走り去った運転手はすでに自首してきていると知らされた。書類に名前と住所、それに電話番号を求められ、それが済むと「また連絡させてもらいます」とだけ言って帰っていった。
 勤務先の運送会社の役員に伴われて自首してきた三十代の男は「前を走るダンプトラックのテールライトばかりを見ていて、中央分離帯に人がいることは確認できなかった。トラックの前にふわっとした感じで人が倒れ込んできて、気づいたときにはブレーキを踏む間もなく、どんとフロントの左側部分に当たる音と振動がした。一瞬なにが起こったのかわからず、そのまま走り去ってしまった」と、証言した。また、なぜ中央分離帯に被害者がいたのかとの問いには、その理由や状況はまったくわからないと答えた。

 ――いまさら悔いても遅すぎる……。
 集中治療室に救急搬送されてからすでにかなりの時間が経過していた。雄也はICUの前の長椅子でうなだれてすすり泣いていた。
「すいません」
 頭を垂れ、全身を震わせている雄也に、ひとりの女が声をかけてきた。か細く、震えるような声だった。
 顔を上げ、相手の顔を見て雄也は激しく動揺した。女は血の気が失せ青ざめている。
 雄也は息を呑んだ。高城里花子がいま死去した、祈りは通じず、恐れていたことが現実のことになってしまった、と直感した。
 互いに見つめ合う重苦しい沈黙の後、女が遠慮がちに口を開いた。
「高城里花子の妹の千絵です」
 ――妹?
 雄也は混乱していた。長い時間をかけて、目の前の女が口にした言葉をいくども頭のなかで反芻しなければならなかった。
「高城さんの妹さんですか?」
「はい」
 雄也は相手の顔をまじまじと見つめた。
「驚かれるのも当然です」
 雄也が知っている彼女よりどこか大人びた雰囲気を漂わせている。髪も長い。着ている服もいつもの感じとは違う。
「聞いてらっしゃいますか?」
「あなたのことをですか?」
「はい」
「いいえなにも」
「そうですか。……妹といっても、ほぼ同時に生まれたのだから、妹でも姉でも同じようなものですが」
「どうしてここがわかったんですか?」
「この病院の看護師さんから携帯に連絡をいただきました。リダイヤル記録に『妹』という表示で残っていたそうです」
 雄也は事態がやっと飲み込めた。
「怪我はどの程度なんでしょうか?」
「わかりません。ICUに救急搬送されたっきりで。もうかなり経ってるんですが……」
 そのとき照明を落とされているホールの方から人の話し声が聴こえたような気がしたが空耳だった。集中治療室の前もジャケットの擦れ合う音さえ聞きとれるほどシンと静まり返っている。ホールの方角から冷気が漂ってきているように思えた。
「姉さんとはいつから?」
 千絵が口を開いた。雄也が答えあぐねていると再度訊ねてきた。
「失礼ですが、姉とはどういうご関係なんでしょうか?」
「……スポーツクラブで一緒に」
「ああ、インストラクターをはじめたとか」
「でもいまは辞められています」
「えっ、もう辞めちゃってるんですか。ちっとも知らなかった。ラインで頻繁にやりとりしてたのになんにも教えてくれなかった」
「……………」
「あのー、お名前を教えてもらってもいいでしょうか?」
「雄也、篠田雄也です」
「ユウヤさん……」
「はい」
 二人の間に再び重い空気が漂う。
 千絵は、岡山の実家へ電話を掛けてきますと言うと、真っ暗なホールの方へ歩いていった。そしてなかなか戻ってこなかった。携帯がつながらないのだろうか、病院の外へ出て行ったのだろうかと心配になって椅子を立とうとしたとき、こちらに向かって歩いてくる彼女のすがたが見えた。
「母がすぐ上京してきてくれるそうです」
とだけ教えてくれた。
「姉とは、近々同居することになっていたんです」
 千絵が顔を両手で覆い、嗚咽を漏らしながら泣きだした。
「なんでこんなことに……」
 雄也はどう対応したらいいのかわからなかった。ただ集中治療室の扉の上の赤色灯をにらみつけていた。

「もうお気づきかとは思いますが」
 彼女はそう前置きすると、雄也の顔をちらっと見て話しはじめた。
「姉とわたしは双子でも性格はまるで違うんです。わかりやすい言葉で表現すると、姉は行動的でなんに対しても積極的ですが、わたしの方はどちらかというと引っ込み思案というか、優柔不断というか、すぐにはなにも決められないし、行動できないんです。
 親戚の者のなかには、千絵ちゃんはおっとりしててとても女の子らしい、と言ってくれる人もいるのですが、自分のことは自分が一番よく知ってます。表舞台でいつもちやほやされるのは姉の方で、その後ろで小さく縮こまっているのがわたしなんです。姉はそんなわたしを気遣って、もっと自分から前へ出なきゃだめよ、黙ってて得することなんてないんだからね、といつもわたしの背中を押し続けてくれていましたが、性格はそうそう変えられるものじゃないんですよね。
 それを姉も悟ったのか、あきらめたのか、ともに違う高校を受験するあたりからなにも言わなくなりました。千絵ちゃんは千絵ちゃんの個性があるんだから無理することないよ、というのがそのころからの姉の慰め方でした。わたしは明るく友達と談笑している姉がとてもうらやましかった。できるならわたしもその輪のなかに入って一緒に笑いころげていたかった。試みてもみましたが、どこか無理をしてて、とても居心地が悪いし、とても疲れるんです。ちっとも楽しくなんかないのに笑うことがこんなにも大変なことなのかと思ったこともありました。周りの人間にも、そのわたしの心のなかが透けて見えているようで、無理することないよと言ってくれる人も何人かいましたが、なかにはそうではなく、あからさまに批判的な言動をとる人や不快さをぶつけてくる人もいました。
 姉が言うように、わたしにはわたしの個性があるんだ、姉のような人間ばかりではなく、わたしのような人間でも受け入れてもらえる場所が必ずあるはずだと考えるようになってからは、とても楽になりました」
 彼女は、周囲の人間にも自分と姉とを比較の対象としてではなく、ひとりの女性として、ひとりの人間として見てほしかったのだ。
 千絵はいつしか意識的に姉の里花子と距離を置くような行動をとりはじめた。身に着けるものも姉が暖色系ならば、その反対の寒色系のブルーやパープルといったものを選ぶようになり、ヘアースタイルも姉がショートならば反対にロングにしていた。おかげで身近な人でなくても髪形や衣服で、姉がこちらで妹はこっちとすぐに判別できた。内面的なものもその意識の結果として、この姉妹の性格の違いをいっそう際だたせ、確立されていったように思える。
「姉は同じ東京でも慶徳女子へ、わたしは大東学園へ進学して、姉と別々に生活するようになったのもよかったのかもしれません。姉と比較されることがなくなりましたから。また姉を知らない人のなかに入っていけましたし。
 大学では多くはありませんが、仲のよい友達もできました。彼女たちの前では無理をすることなく自分らしさを出せているように思えました。これまでのことを知っている人の前だと、どうしても過去の経験から抜け切れてないというのか萎縮してしまうのをいまでも感じます」
 雄也は彼女がどこか自分に似ている、と思った。
「なんだか姉がとても完璧な、なんの悩みもない人間のように思えるでしょうが、そんな人はいませんよね。姉も当然いろんな問題を抱えて悩んでいました。外見からはとても察することはできないですが。またすべてを打ち明けてくれたわけではないでしょうが、わたしが知るかぎりでは、とても姉がそんなことで深刻に悩んでいるとはとても思えないような事柄がほとんどでした。
 でも、ひとつだけ例外がありました。そのことだけは姉はいまでもまたこれからも、もしかすると一生そのことから解き放たれることがないんじゃないかと思います。雄也さんにも姉はたぶんまだ話してないんじゃないかと思います」
「いまもそのことを引きずっているというんですか?」
「ええ」
「いまもそれを解決できないでいるんですか?」
「そうだと思います。わたしや母にとっても大変な事件だったんですが、当事者じゃないので、すでに終わったことだと思うことができるんですが、姉は決して忘れることができないんじゃないでしょうか」
「大変な事件というのは?」
「姉の口から直接話す時機が必ずくると思います。ですからいまわたしの口から話さないほうが……」
「そこまで聞いて、ほっとけるはずがないじゃないですか。いま教えてください」
「そうですか……雄也さんとは短い時間しかお話してないですが、姉と真剣におつき合いしてくださっていたのがよくわかります。いま姉の回復を心から願ってらっしゃるのは隣に坐っていて充分過ぎるくらい伝わってきます。いま雄也さんに知っておいていただいた方がいいように思えてきました」
 千絵は、しばらく口を閉ざして、赤色灯を眺めていた。雄也に話すべきかどうかではなく、どう話すべきか整理しているように思えた。
「姉が高校に入学して間もない頃からそれは始まったのだと思います。姉は快活で明るい社交的な人ですから、すぐに友達がたくさんできました。同性の方ばかりではなく、異性の方も何人かいらっしゃいました。特定の方とのおつき合いはしていなかったと思います。
 これは後からわかったのですが、一年目の夏休み頃からその方は異常に接近するようになったとのことです。姉から手紙を見せてもらいました。告白の手紙です。まじめすぎるくらいの内容で、わたしには悪い印象はありませんでした。姉はその手紙に書かれた指定の日のその時間には、わたしは姉に誘われて一緒に映画を観に行っていました。その後も姉はその方のことを無視し続けました。姉はその方の告白の手紙を見せてくれたとき、暗くてちょっと重たすぎると言っていました。姉にはめずらしく冷めたい言い方でした。返事の手紙くらい渡してあげたら、と言ったことがあります。でも姉はその方のことを無視し続け、告白の手紙を受け取ったことさえなかったこととして振る舞いました。
 秋から冬に移ろうとする頃から、その方のストーカー行為が始まりました。最初は気づかなかったそうです。学校以外でも、街なかでのあらゆる瞬間に、その方の存在を見かけるようになったそうです。そして徐々にエスカレートしていき、ある日の深夜、空気を入れ替えようと二階の自室の窓を開けたところ、反対側のお家の塀に背をもたせかけるようにしてその方が立っていたそうです。姉の姿を見るとすぐに走り去ったそうですが、姉は悲鳴を上げました。母とわたしは何事が起こったのかとびっくりして姉の部屋に入ると、血の気のうせた表情をこわばらせた姉が、ベッドの上でぬいぐるみをしっかり抱きしめてからだを震わせていました。
 母は姉から一連の話を聞き、その次の日学校ではなく、警察にわが娘へのストーカー行為を行なう学生がいることを告げに行きました。警察から学校へ、そしてその方へ、その方の家族へと話は伝わり、その日以来その方は学校へ姿を見せなくなったそうです。その方の姉へのストーカー行為もなくなりました。母は自分がとったすばやい対応がわが娘を救ったと信じていました。でもそれが軽率だったことに気づかされたのは後になってからです。
 その方は高層マンションのベランダから飛び降り自殺してしまったんです。遺書らしい遺書はなかったそうですが、机に広げられたままのノートに、生まれてこなければよかった、とだけ書き記されていたそうです」
 雄也は千絵の話を自分のストーカー行為と重ねながら聴いていた。その学生と同じようなことに発展し、追い込まれていっていたかもしれないと思った。
 自分のなかでは、愛する相手はすでに自分の一部になってしまっている。それを奪い去られるのは身を切られるように耐え難い。引き裂かれるような苦しみにのたうち回るのに等しい。相手が自分から遠く離れていくことが耐え難い。一緒にいなければならないと思えてくる。その気持ちになんの偽りもない。その状況を作り出すことが最大の目標となる。その狂おしいほどの思いが相手に伝わっていないという現実がさらに自分の神経を狂わせていく。
 外界の批判やののしりや、蔑視やさげすみや、諭しや脅迫はもはやなんの力も持たなくなる。自分のすべきことは、はっきりしている。そうしないでいることが自分自身への裏切りとなる。そこには世間の常識では測れない価値基準が確固としたものとして存在している。
「軽率なある教師が口を滑らせたおかげで、失恋による世をはかなんでの自殺ということが全校生徒に伝わることになってしまいました。公にはその相手の名前まではでてこなかったのは幸いでした。もし姉の名前が表ざたになっていたら、姉はその後の生活を平穏に過ごすことはできなかったと思います。姉は口を閉ざし続け、その方のこと、その方の自殺、すべてを忘れようと努めました。でも無理でした。
 姉の振る舞いがその方の自殺とまったくかかわりがないとは言い切れませんが、でも姉は、紛れもなく被害者です。なのにその事件のことを忘れることができずに、一生引きずって生きていかなければならないんです。理不尽だとは思いませんか?」
 千絵は雄也の反応を窺うように、うつむいたままひと言も発することができずにいる雄也の顔を覗き込んだ。

         Ⅷ

 長椅子の端っこを薄い日の光がほのかに照らしはじめた頃、医師と看護師が集中治療室の扉を開けて出てきた。千絵はいつ席を立ったのか、隣にいなかった。
「ご家族の方ですか?」
「いえ自分は……」
 雄也が言いよどんでいると、医師はかまわずに続けた。
「頭部打撲による頭蓋内出血がひどかったのですが、そのほとんどは吸引しました。外傷出血も止まりました。痙攣症状もみられません。しかし脳のダメージがどの程度なのか画像だけではわかりません。このままICUにいていただいて二十四時間看視ということになります」
「姉は死んじゃうんですか?」
 いつ戻ってきていたのか、雄也の背後から千絵が訊いた。
「いまの時点では確かなことは申し上げられません。これからのことはまだなんとも……」
 医師は言うべき言葉を失ったように思えた。
「会えるんでしょうか?」
 医師はちらりと雄也の顔を見た。
「いまはまだ昏睡状態ですが、お顔を見るだけなら」
「会わせてください」
「長くは無理ですが、それでよろしければ」
 横に立っている看護師に向かって、「なにかあったら、すぐ呼んでください」と言い残すと、医師は一礼し、薄暗い廊下をゆっくり歩いていった。
 千絵が坐っていたところに目をやるとなにかが光っていた。雄也にはそれがなんなのかすぐにわかった。リペアーショップでコピーした里花子のマンションの部屋の鍵だった。
 瞬時に昨夜のことがフラッシュバックする。
 彼女の部屋の鍵穴に鍵を差込み、回し、ドアを開けてなかに入った。そのとき鍵穴に刺さっていた鍵を引き抜いたかどうかの記憶がない。ポケットにしまった記憶も、部屋のなかのどこかに置いたという記憶もない。
 ――ポケットから落ちたのならば、すぐそばにあるはずだ。それが千絵の坐っていた方にあるというのはどういうことなんだ……。
 雄也は手を伸ばして掌で包むようにして鍵を握った。視線を感じて顔を上げると、ドアノブに手を掛けたまま雄也を見つめている看護師の険しい目と合った。
 雄也と千絵は看護師の後について集中治療室に入った。
 里花子は眩い光に照らされた手術台の上に寝かされていた。酸素マスクをつけられ、鼻にはチューブが挿入され、両腕に点滴の針が刺されていた。何箇所か髪を剃られた頭部には脳波でも診ているのか、吸盤のようなものが貼りつけられていた。脇には画像モニターやら心拍、血圧を表示する機器などが設置されていた。
「千絵だよ、聞こえる? 雄也さんも来てるよ」
 そのとき彼女の薄く閉じられた目から涙が頬を伝った。
「千絵だよ、わかる?」
 千絵の声かけになんの変化もみられない。千絵は声をあげて泣き出した。
 千絵が里花子の名前を連呼した。見かねた看護師が千絵の腕に手を差し伸べた。
「絶対安静の容態です。治療が終わったわけではありません。いま一生懸命戦ってらっしゃるんです」
 と言い、雄也に目で合図して、千絵を集中治療室から連れ出し、治療室前の長椅子に坐らせた。
「容態が安定するまでこの場でお待ちください」
 そう言うと、看護師は再び部屋のなかへ戻っていった。
 千絵が落ち着きを取り戻し「すいません。取り乱して」と、消え入るようなか細い声で言った。
 ひと言ふた言、言葉を交わすと、後はなにも語ることがなくなってしまい、二人は共に不安な表情を浮かべたまま長椅子に坐り続けていた。
 
 雄也は血がべっとりついた衣服を着替えるために、一旦自宅アパートに帰った。
 アパートの郵便受けに分厚い手紙が入っていた。
 差出人の名前を見て雄也は驚愕した。「高城里花子」と書かれていたからだ。戦慄が走った。時間経過があやふやになる。
 ――いつこの手紙は書かれたのか?
 震える手で開封し、読み始めた。
「突然こんな手紙でごめんなさい。直接会って話すべきなのかもしれませんが、どうしてもそれができそうにないので、手紙になってしまいました。お許しください。
 初めて会ったときから雄也さんのことが好きでした。青柳裕子先輩から履歴書を提出しに行った日のことを聞かされたときは本当に驚きました。雄也さんが里花子のことを心に留めてくれていたんだと知り、心の底から嬉しかった。嘘までついてわたしのことを知ろうとしてくれたんですよね。どうして言葉も交わしたことのない相手のことに、そこまで興味がもてるんだろうと不思議でなりませんでした。そのことを知ってますますわたしは雄也さんとの縁を感じ、親しくなりたいと思うようになりました。
 プール場でのことは忘れもしません。講義が休講になっただなんて見え透いた嘘までついて雄也さんと親しくなるきっかけづくりをしました。心臓が飛びだすくらいドキドキして極度に緊張していました。勇気を振り絞って挑戦したおかげで作戦は成功しました。後は雄也さんから誘ってくれるのを待つだけだと思っていました。ところがいく日経っても雄也さんはわたしを誘うどころか声すらかけてくれませんでした。
 いまでもあの待ち伏せデートのことははっきり憶えています。わたしがお酒を飲みたいと言ったときの雄也さんの驚きぶりはホントにおかしかった。とても楽しい、幸せな時間だった。
 初めてのデートからあんな展開になるなんて想像もしていませんでした。酔いのせいもあって、わたしは緊張してがちがちだったはずなのに、なにか羞恥心というかこだわりみたいなものが外されたみたいで、自分と雄也さんの間を隔てているものがなくなって、言葉も、内容も、自分でも信じられないくらいに大胆になっていました。酔いがさめて自分の言動を思い返して、わたしはとても恥ずかしくて真っ赤になってしまいました。でもすぐにとても幸せな気持ちで胸がいっぱいになりました。雄也さんとずっと前からつき合っていたように思えてうれしかったのでしょう。
 ところが、その後のことは自分でも思いもしない展開でした。雄也さんはわたしが職場であなたのことを無視したことを責めるつもりですか。わたしが職場であなたを無視するような態度をとったのには理由があったんです。あなたにはなにも言わなくても理解してもらえると信じていました。あなたの頑なな態度にはとてもがっかりさせられました。約束でもしておけばよかったと言うつもりですか。あなたとわたしの間にはそんなルールや申し合わせなど必要ないと信じていました。わたしはほかの人にわたしたち二人のことを気づかれたくなかった。誰にも知られたくなかった。秘密にしておきたかっただけなのに……。
 里花子の気持ちを理解しないで、あなたはわたしへの態度を変えました。わたしに声をかけないどころか、挨拶すらしなくなりました。それに輪をかけるように、わたしをあからさまに避けるような素振りまでとったのです」
 ――俺が避けていた?
「わたしは必死であなたの態度を理解しようとしました。でもわからない。なんでそんな態度がとれるのかわからない。そんな悶々とする日が続いたある日、あなたがわたしのことを尾行しているのに気づきました。わたしは驚愕しました。とても混乱しました。
 なぜ、なぜそんなことになるんでしょうか? なぜ声をかけてきてくれなかったんでしょうか? なぜ話かけてきてくれなかったんでしょうか?
 あなたのストーカー行為は日に日にひどくなっていきましたね。電車のなか、学校、ショッピングセンター……。いつもわたしはあなたの眼を意識せずにはいられなくなりました。わたしの心に深い傷となっている、忘れてしまえるものなら忘れてしまいたい過去のおぞましい事件をまざまざと思い出させてくれました。高校二年のときです。わたしに思いを寄せていた男性からしつこいストーカー行為をうけていました。ある夜、目に余るショッキングなことがあってから、いろんなところに相談するうちに、そのことが学校や彼のご両親に知られることになり、思いつめた彼は自殺してしまいました。その彼とあなたのことがダブってしまって、とても怖かった。なんでこんな怖くて嫌な思いばかりさせられなければならないのかと心底自分の境遇を呪いました。 
 わたしはあなたにストーカー行為をやめてもらいたいために、必死の思いである試みをすることにしました。わたしの追い込まれた気持ちに気づき、理解してくれるかもしれないと思って。
 あの日もあなたはわたしのマンションの前に立っていましたね。わたしは気づいていました。そしてあの映画館へ向かいました。ストーカーサスペンス映画『レッド・サンドグラス』です。あの映画を観て、あなたにストーカーされる人間の恐怖をわかってもらいたかったんです。
 映画館の座席に坐っていた時、もしかしたらあなたが隣の席に来てくれるかもしれないと少し期待している自分がいました。もしあの時そうなっていたら、こんな手紙を書くようなことはなかったかもしれませんね。
 でも、だめだった。だから、わたしは雄也さんのことを忘れようと、わたしの好きだった篠田雄也はもうこの世からいなくなっちゃったんだと思おうと決心しました。
 それで指導員の仕事も辞めました。…………」

         *
 
 その後も集中治療室になんの変化もない。なにも起こりそうな気配もない。ただ時間だけがとめどなく過ぎている。
 雄也を取り囲む空間が凍りついたような静寂に包まれている。近くにそれらしい時計がないのに、彼の耳には時を刻む音が確かに聴こえるように思える。 
 と、予期せぬ睡魔がふっと舞い降りてきて、それまで緊張と不安に憑りつかれていた意識が朦朧としてくる。そんな雄也と違って隣に坐っている千絵には眠そうな気配がない。
 千絵がなにかを言った。はっきり聴こえたのにかかわらず、その言葉の意味が理解できなかった。なにかを返さなければと眠気をおして口を開いたが、なんともたよりないことに自分で自分がなにを言おうとしたのか、言ったのかわからなかった。
 千絵が話しはじめた。雄也は眠気をふり払おうと自分の頬を叩いた。彼女の言葉は聴こえているのにまるで頭に入ってこない。
 ――夢のなかでのことなのか現実のことなのかはっきりしない。しゃべっているのは千絵だと思うが、里花子のようでもある。里花子はいま集中治療室で闘っている。とするといましゃべっているのは千絵で、里花子自身ではない。これが現実のことではなく夢のなかのことだとすると、相手は里花子なのかもしれない……。
 そのとき戦慄が走った。これは夢のなかのことではなく現実のことではないのかと思い惑っていた。隣に坐っているのは、千絵ではなく、里花子本人ではないのか、と。
「……なのになぜあなたはわたしの部屋のなかに忍び込んだりしたんですか。わたしは身も心も震えました、怖くて怖くて。逃げても逃げても恐怖はわたしの前に立ち塞がってくる……」
 ――いま自分に起こっているすべてのことが、自分がしでかしてしまった行為への当然の報いなのだ。責め咎められているのだ。
 里花子がこのまま意識が戻らず、死去してしまうようなことになったら、自分はとても生きてはいられない。生きていてはいけない。
 雄也は自分自身に言い聞かせていた。
 ――その覚悟だけはしておかなければならない。



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