見出し画像

福田翁随想録(34)

「火」が人間の欲望を加速させた

 一体どうしてこうも人間という「動物」は性悪にできているのだろうか。
 こう切り出せば、当然声高に異を唱える人がたくさん出てくることだろう。かつて中国でも諸子百家が続出して、「性悪説」と「性善説」がかまびすしく論じ合われた。
 考えてみると、なぜ今日このように、これでもかこれでもかと機械器具が手を変え品を変えわれわれの前に現れてくるのだろう。 
 確かに新製品は前の物に比べて、より早くより楽に処理してくれるようにはできている。要はより快適さを与えてくれるから、われわれは贅沢になり怠惰になり、ますます欲望を増大させている。
 文明の利器というものはいかに人間を堕落させるものであるかということを悟らなくてはならない。人間という愚かな「動物」は、自分で自分の首を絞めるような滑稽な努力をここ何千年、何万年休むことなく続けてきたではないか。
 この愚行を加速させたのはなにか。私はその大元は「火」だと考えている。
「はるか遠い遠い昔のある日ある時に、われわれの祖先の一人がたまたま火災跡の原野でほどよく焦げた栗の実を発見して食べてみた。これがホクホクして生の栗より数段うまかった。このことを仲間たちにも教え、大勢が競うように焼き栗を探するようになった。焼き栗のおいしさに味をしめた人間は火を恐れることを忘れ、火を熾す術まで身につけた」
 と、こう縄文人以前の太古に想いを馳せる。
 私は人間が「火」を使うことを覚えたからサル族から決別したと独断的に考えている。
 ギリシャ神話にこんな話がある。
 最高神ゼウスはそもそも人間には「火」を与えてはならないと考えていたのに、半神ペルメテウスがゼウスの眼をかすめてちゃっかり盗んで人間界に持ち帰ってしまう。ゼウスは怒って粘土で作った最初の女性パンドラに小箱を持たせて下界へ行かせた。「箱を空けてはいけない」と命じたのに彼女は開けてしまう。欲にかられるところが人間の性悪さをよく現わしているが、小箱の中から出てきたのは人間に与えるあらゆる災厄だった。
「火」は食物を美味しくし、寒さから守ってくれるが、その裏にはこうした危険が隠されていた。

 人間がサル族から分かれたのは四百万年前といわれるが、狩猟採集で得た食糧は細々ながらも「火」を頼りに加工したり保存したりしていたことだろう。
 農耕牧畜期に入ったのが一万年前といわれている。その前の何百万年間が奴隷社会のような搾取・被搾取の構造だったとは考えられない。それなりの「共生」社会のゆとりや楽しみがあったに違いない。
 私の友人の日本女子大の新保満教授は、多年にわたって極北でイヌイット、オーストラリアではアボリジニーの調査を続けてきた篤学の士であるが、彼らがいかに自然に融け込み、自然の恵みに感謝しながら人間関係を大切にしているかを身をもって体験したという。 
 狩猟採集時代、人間は生活に必要な動植物だけを得るにとどめて充足していた。 
 アイヌ民族は鮭の乱獲をしなかった。自分たちだけいただくのではなく熊にも分けてあげる配慮をしていた。また翌年も獲ることができるように産卵を確保してやり、資源が枯渇しないようにしていた。飼育した熊を屠殺(とさつ)する時、人間社会から厚遇を受けた証としてお腹にご馳走を一杯詰め込ませて昇天させる「熊送り」という神事がかつてはあったという。   
 人類が火を使って道具を作るという技術を覚えると、世界は略奪の世界に一変した。
 山野に自生する食糧だけでは満足せず、より美味な食糧をより多く生産し、独占したいという欲望に火がついてしまった。農具によって耕地を増やし、より豊富な食糧を収穫し、余裕が出てくると欲望は装身具にまで及ぶようになる。
 貧富の差が発生してくれば羨望からの強奪が生まれ、武器が製造されるようになり、集団が結成され、利益擁護と発展していったのは当然の成り行きだった。
 人間を強欲な物質圏に追い込み、さらに産業革命から今日の工業社会現出へと加速させていった。
 人間の飽くなき欲望は、こうした歴史の流れから醸成されたと私は見ている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?