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消えた記憶

「深刻な物忘れの症状を訴えて病院を訪れる若者が増えていることをご存知でしょうか」
 テレビから流れてくる話に愼次の箸が止まった。
「原因がわからない。精密検査をしてもなんの異常も認められない……」
 自分の降りる駅が思い出せなくなり、パニックに襲われたという二十代の男のケースを報じていた。
 その男の場合は一度きりでそれ以降同じようなことは起こっていないそうだが、いまでもメモ帳を常に携帯しこまめにメモし、特に電車に乗るときなどは降りる駅や目的地を書いたメモをなんども読み返すようにしているそうである。ごく短い時間とはいえ記憶をなくしてしまったときの恐怖が沁みついてしまい、極度の不安感を抱えて日々暮らしているという。
 愼次は定食屋を出るとその足で公立図書館へ向かった。
 公立図書館の一階の書棚が並ぶ通路のなかほどで医学書コーナーを見つけると、愼次は「若年性健忘症」という言葉をキーワードに医学用語事典、医学専門書など手当たり次第に引っ張り出して拾い読みしていった。閉館を知らせるチャイムが流れるときには「若年性健忘症」だけでなく、「心因性健忘症」「一過性全健忘症」「記憶喪失」という一連の類似症状についての大まかな知識を得ることができた。
 図書館からの帰途「一過性全健忘症」の症状解説の内容が頭の中をぐるぐる回っていた。
 ――突発的に記憶喪失が起こる。症状が数時間続くケースが多い。眠って起きると回復していて、発症中に起きたことを思い出せない。後遺症はなにも残らない……。
 一度めのときは帰途がわからなくなったものの、帰宅するまでの一連の記憶はしっかり残っていた。しかし二度めのときは違っていた。
 気を失ったような状態に陥り、その時点から数時間の記憶が完璧に失われていた。意識を取り戻したのは自室の布団のなかだった。その間どこでなにをしていたのか、またどうやってアパートへ帰ってきたのかまったく思い出せなかった。
「発作は感情の大きな動きや強いストレスなどで誘発される傾向がある」
 精神医学専門雑誌に掲載されていた神経内科医のコメントが、愼次のこころの奥底に禍々しい怯えとともに深く刻みつけられた。

          *

 夢うつつのなかからだの震えが治まらない。腹の底から怒りが噴きだしてくる。
 頭を激しく振るだけでは足りなくて、絞れば毒気が染みだしてきそうな枕に拳を撃ちつけた。なぜ毎晩同じ場面が似たような展開で現れてくるのかわからない。
 すでに日は東側の窓を離れ、南側の窓に移っていた。カーテンを開け放つとまばゆい光が入ってきて、愼次の眼を刺した。徐々に見慣れた景色が浮かび上がてくる。軒を連ねる家屋や神社の境内の樹々……あらゆるものが溢れんばかりの陽の光をうけて陽炎っている。見上げれば抜けるような蒼穹を白雲が掠れつつ滑っていく。神社の銀杏がまれに吹いてくる風に惜しげもなく黄葉を散らしている。
 愼次は目覚まし時計を見るなり慌ただしく身支度を始めた。傷んだ階段を騒々しく駆け降りていく。母屋と愼次たちの部屋とを隔てる扉の蝶番の軋む音が聞こえる。愼次は思わず舌打ちした。家主と顔を会わせたくなかった。
 あの夜の一件以来恥辱の急所を掴まれているようで、いまも顔を合わせると卑屈な気持ちになる。
「おはようさん」
 家主の声掛けを無視して玄関脇の下駄箱の取っ手に手を掛ける。
 八十過ぎの老婆が追い縋るように不自由な右足を引きずりながら近づいてくる。
「近ごろ決められた日以外にごみを出す人がいて問題になってんだよね」
 彼女は上がり框でしゃがみ込んで靴紐を結ぼうとしている愼次のすぐ背後でそう言った。
「困ってんだよね、猫とかカラスが袋破いちゃってさ。それにさ、あんたも知ってると思うけど、ここんとこ、あちこちで放火が起こってるそうじゃないかい。火でもつけられたら大変だよ」
 愼次は手ぶらだった。
「ごみを出す日を間違えないどくれよ」
 愼次は抗議するような目で老婆を見上げた。
「別にあんただと決めつけてんじゃないんだよ。くれぐれも気をつけてくださいねって言ってんだよ」
 彼女に見送られてアパートを出る格好になった。度のきつい老眼鏡の向こうの目が微笑んでいる。
「いってらっしゃい」
 おぼろげな亡母の顔が浮かぶ。
 愼次に母親の思い出らしい思い出はなかった。畑道でリヤカーを曳くうしろ姿や古井戸端で野菜を洗う頬被りの日焼け顔といったストーリー性のない映像ばかりだ。
 競り合うように軒を突き出して建ち並ぶ民家の間の細道を抜け、錆びて朽ちつつあるシャッター街をやや行くと遮断機のない踏み切りが見えてくる。そこを渡れば駅へと続く繁華街通りに出る。家主が教えてくれた駅への最短ルートだ。
 あの宮澤診療所はその通りの途中にあった。愼次にその前を通る勇気がない。確かめてみたいという誘惑にかられないこともないが、忌避する気持ちのほうが勝っている。
 診療所のかなり手前にハンバーガー店が入った五階建ての雑居ビルがある。その手前の仮設駐輪場を右に折れても駅前ロータリーへ行ける。遠回りになるが宮澤診療所の前を通らなくてすむ。
 駅に近づくにつれ人の数が増えてくる。自分の歩調で歩くことができなくなる。ダークスーツのビジネスマン風、香水がイケてるOL風、着古したジーパンとTシャツのアルバイト風の男女たち……。
 改札口を抜け目指すホームに立つまでになん人ものからだのそこかしことぶつかる。上京したばかりのころの日々が遠い昔のことのように思えた。

          *

 愼次が生まれ育った神尾島は、鹿児島県の大隈半島から十四、五キロほどの東南の海域にある。漁業を主とする三十戸にも満たない島民が西と東のわずかな平坦な土地に家を建て、浮世離れしたように暮らしている。
 愼次の父親も漁師、祖父も漁師だった。姓が島名と同じということは、先祖は遥か昔からこの小島で魚を獲ることを生業としていたのかもしれない。
 漁業のほかにこれといった産業のない島だ。食うには困らないが、現金収入が少ないので、誰もがひと昔前の粗末な古着を着て暮らしている。子どもたちにいたっては、つぎはぎだらけの服や尻に穴のあいた半ズボンを一年通して身に着け、裸足で走り回っている。
 愼次が中学を卒業するころまでは島に小学校と呼べるものがかろうじてあった。一学級に生徒は一人か二人で、一年から六年までの十人足らずの生徒が同じ教室で同じ先生に教えてもらっていた。
 母親は愼次が小学校三年のときにひとりで島を出て行った。いまも喪失感と欠落感が彼の心に居座り続けている。
 父親は母親の失踪直後から大酒を呑むようになり、癇癪をおこして家のなかのものに当たり散らしはじめた。愼次への暴力が始まったのもそのころからだ。愼次は寝床でなんども父親の死を願った。その願いが通じたわけではないだろうが、海難事故で島の仲間数名と共に行方不明となり、その数週間後半島の荒磯で半ば腐乱した状態で発見された。彼が十一歳のときだ。
 母親とはまったくの音信不通で、愼次の面倒をみてくれる人間は祖父ただひとりだった。祖父に聞かされた話ではその母親ももうこの世にはいないとのことだった。
 中学は半島の学校に通っていた。通わせている家人が交代で釣り船を使って送り迎えをしてくれた。いつも無口で暗い顔をしているせいでよくいじめられていた。目障りでうっとうしかったのだろう。
 同じ中学に通う幼なじみの伊佐夫は愼次と違ってからだも大きく力も強かった。同級生に伊佐夫がいてくれたのはとても心強かった。
 顔を腫らし、汚れた制服姿でびっこを引きながら帰宅する愼次を、祖父はいつも慰めてくれた。
「おまえはかわいそうな子だ。親の愛を知らないんだから」
 そう言うのが祖父の口癖だった。
 中学を卒業すると神尾島の漁業組合に就職した。特にその仕事がしたかったわけではなく、祖父が整えてくれた流れに身をゆだねたにすぎない。
 数年後祖父に島を出ると告げたとき、祖父は一瞬驚いた表情を浮かべた。そして愼次の目を探るような目で睨んだ。それからゆっくり目を逸らすと、それっきり口を閉ざし、愼次がなんど呼びかけても一切応えなくなった。上京当日港で大泣きしている祖父の姿を見たとき、愼次は胸を掻きむしられるような衝撃をうけた。
 愼次に上京後の計画があったわけではない。繁華街に近い安い素泊まり旅館に宿泊していた。地方からの出稼ぎ人が一時の宿泊所として利用するその宿には、愼次のほかに片言の日本語を喋る中国系の四、五人のグループが宿泊していた。
 彼らは朝早く出掛けて行き夜遅くならないと帰ってこなかった。愼次は彼らのひとりと廊下ですれ違がったことがある。目つきも顔つきもまるでカマキリそっくりで、ねちっこく舐めまわすように見られた。
 昼間四畳半のかび臭い、なんの物音も聴こえてこない鏡台と座卓しかない部屋にひとりでいると、聴覚ばかりが冴えてきてうら寂しさがにじり寄ってきた。それが厭で、逃れるためになんの用もないのに毎日外出していた。
 街に出ると愼次は孤独を感じる暇さえなかった。刺激に満ちあふれていた。すべてが新鮮だった。光輝いて見えた。電車のなかの中吊り広告。乗客たちの早口なおしゃべり。不夜城と化した街頭の耳がはち切れんばかりの喧騒。雑居ビルに囲われた魔界のような裏路地。色鮮やかなネオン灯に彩られた歓楽街の佇まい……。
 しかしそんな生活は長くは続かなかった。持ってきた金はまさに羽が生えたように消えていく。空腹を満たすには金がいる。出掛けるにも金がいる。その速さに愼次は次第に自由を奪われていった。
 そんな生活に転機となる出来事が起こった。
 深夜、ただならぬ中国語混じりの殺気だった怒声のやりとりで目を覚まされた。隣室と愼次が寝ている部屋とは薄い壁一枚で仕切られているだけで、彼らの声は筒抜けだった。
「ドウセ、ニホンジンジャナイカ」
「○×*×△*△……××」
「ソウダ。アイツヲヤレバイイジャナイカ」
「×○○△! ×○○△□□」
「カッテナコトハスルナ!」
「ジャ、×○○△、オマエガ、ナントカシロ」
「ソウダ、×○○△ガヤレ、イマスグヤレ!」……
 愼次は布団にもぐりこんだまま身じろぎもせず聞き耳をたてていた。隣室の自分の存在が彼らの意識に上らないでいてくれることを祈った。愼次には「やれ!」という言葉が「殺れ!」と聞こえた。
 幸いにも愼次が怖れていたような事態に至ることなく、しばらくすると彼らは部屋から騒々しく出て行った。いまのうちに逃げたほうがいいんじゃないか、このまま布団に包まっていていいのか、そんな考えにとりつかれて目は冴えるばかりだった。愼次は布団を跳ね除け、荷物をまとめると宿を飛び出した。玄関口で宿の主と目が合ったが、なにも咎められなかった。ふいに宿泊者がいなくなるということは日常茶飯事のことで、そのための前払い制だった。愼次は荷物を抱えたままゲームセンターで夜を明かした。
 牛丼屋で腹ごしらえした後、駅裏の油臭い路地にあった小さな不動産屋に入った。「空き部屋多数あり」という張り紙が貼られた扉を開けてなかに入ると、スキンヘッドの関取のような中年男が新聞を読んでいた。ひと言ふた言言葉を交わしただけで愼次を上京してまだ日が浅い地方出身者と見抜いたようで、明らかに態度を変えぞんざいな気乗りしない態度をとるようになった。
 居心地悪さと怒りを我慢していると、男はやっとひとつの「物件」を提示してきた。愼次がそこに決めようとすると男は目をまん丸くして呆れたような表情でなにかを呟き、思いっきり椅子の背もたれに身をあずけた。
 男が書いて寄越した略図はいいかげんなもので、愼次はなんども来た道を戻らなければならなかった。歩いて二十分といわれた道程を行きつ戻りつしながらたっぷり一時間近くかかって目指すアパートにたどり着いた。
 家主の愼次に対する第一印象は決して良くはなかっただろう。よれよれの色あせたTシャツに膝や裾がボロボロに裂けたGパン。元の染め色が分からないくらいに履きくずされたスニーカー。おまけにボサボサで伸び放題の髪……。それでも家主は愛想よく愼次を空き部屋へと案内してくれた。
 度のきつい古いフレームの老眼鏡を掛けた、話すたびに入れ歯がカチカチ鳴る老婆の後について黒光りする階段をぎしぎし音をたてて上がっていくと、上がりきった正面が洗面所兼炊事場になっていた。コンクリートの流し台には輝きを失った蛇口がひとつあり、そのすぐ脇に油汚れのガスコンロが鈍い光を放っていた。排水口から漂ってくる生ゴミの異臭が鼻をついた。
 家主が見せてくれた三畳部屋は東側と南側に畳半畳ほどの窓があるとても明るい部屋だった。狭い部屋になぜ二つも窓があるのか案内されたときにはわからなかったが、住みはじめてその謎は解けた。広い部屋ひとつとしてではなく四つに仕切って個別に貸すほうが儲かると大家は考えたのだ。角の部屋に窓が二つ閉じ込められたのはその結果にすぎない。
 彼女の話によると、朝から夕方まで日が入りとても明るく、両方の窓を開け放っておけば風がよく通り夏も暑くないということだったが、実際は窓を開けていても熱気をおびた風しか入ってこず、吸い込む空気がモワモワと肺に入ってくるのがわかった。締め切れば文字通りサウナ風呂だった。
 理想とかけ離れた部屋だったが、狭いのは自分の棲家という感じがしてそれほど悪い印象は受けなかった。家賃の安さと明るさに惹かれた。愼次はその場で契約した。

          *

 それはなんの前触れもなく、突然訪れた。
 アパートに越して間もない頃、無性に海が見たくなって遠出をした。電車を乗り継いで辿り着いた海浜は神尾島とはくらべものにならないくらい薄汚れたものだったが、それでも砂浜に寝転がっていると、陽に温められた砂の感触と心地よさについ眠り込んでしまい、目を覚ましたときはすでに日は落ちうす暗くなりはじめていた。
 アパートのある最寄り駅に着いたのは午後九時すぎだった。改札口を出た瞬間、からだがその異変を感じとっていた。なんども往来していたはずの駅前の景観がよそよそしいものに変貌していた。往来する人の顔までが異次元の生き物のもののように見えた。
 降りる駅を間違えたのかもしれないと駅名を確かめてみたが間違っていなかった。
 昼間見る景色と夜の眺めが違ったように見えても仕方がないと思い込もうとしたが、目に前の見知らぬ佇まいにそんな簡単なすり替えはあっけなく打ち消された。駅前の景観だけでなく、アパートへ帰る道筋どころか方角さえも思い出せない。
 歩いているうちに見覚えのある眺めに出くわすかもしれないという思いに背中を押されて駅の外へ一歩を踏み出した。
 光に溢れた繁華街から遠ざかるにつれ人の姿がまばらになり、闇が支配的になってくる。進めば進むほどアパートに近づいているのかどうか怪しくなってくる。不安な思いに怯えが覆いかぶさってくる。
 コンビニ店から眩いばかりに溢れ出てくる明りに張り詰めたものがいくぶん和らげられたが、それは一時のことで再び暗闇に足を踏み入れた途端あっさり吹き飛んでしまう。
 歩めども一向に見覚えのある建物に出くわさない。通りを見通せる場所に立つたびに抱く期待はことごとく裏切られた。
 やがて愼次は先に進むのを諦めて歩き出した駅に戻ろうとした。ところが、どこをどう歩いてきたのかすっかり忘れてしまっている。家々のたたずまいばかりを気にしながら歩いてきたものだから、数分前に歩いた道も曲がったところもあやふやだった。店先を照らすコンビニ店の明かりもどこか様相が変っていて初めて目にするもののように思われた。
「情けない」といくども呟きながら似かよった路地を重い足を引きずりながら右へ左へと歩き続けた。
 ――迷っちまった。もうおまえなんかどうなっても良か。死ぬまで彷徨っとけ!
 やけっぱちな感情が噴きだしてくる。
 そこへ雨が降り始めてきた。次第に激しさが増してきて、本降りとなってくる。濡れるに任せて歩き続ける愼次をさらに激しい雨脚が石つぶてのように叩きつけてくる。風も吹きはじめてくる。それに追い討ちを掛けるように自虐的な言葉が容赦なく湧いてくる。
 二時間あまりも歩き回ったあげく、真っ白になりかけた頭にひとつの手立てが浮かんだ。タクシーを捕まえるという手があった、と。
 早速交通量の多い道路に出てタクシーに手を上げた。止まってはくれたものの濡れ鼠の愼次の姿を見た途端、窓ガラス越しにも運転手の不機嫌丸出しの顔がはっきり確認できた。乗り込むとすぐに行く先を訊ねてきた。愼次がアパート名と住所を告げるとルームミラー越しに「なんか目標ないの?」と畳み掛けてきた。近くのスーパーや銭湯の屋号、目標になりそうな神社やマンションの名称を並べ立てた。
「そんなもん俺が知るわけねえだろうが」
 たまりかねた運転手が凄みの利いた声を発した。その荒々しさに愼次は途端に口がきけなくなった。
 運転手は帽子をとり頭をごしごしと掻くと、乱暴に料金メーターを倒して車を発進させた。まっすぐ走っているかと思うとどこぞの交差点を曲がり、また曲がるということを繰り返した。
 しばらく走っていると見覚えのある駅ビルが見えてきた。
「あっ、あそこの前で良かけん降ろしてください」
 運転手はルームミラーに映る愼次をちらっと見た。
 運転手に請求された料金を支払うと駅ビルのなかに駆け込み、公衆電話を探した。手帳を出し家主に電話を掛けた。長いコールのあと家主が出た。
「どうしたんだい? いま時分」
 名を告げると、寝ていたのかひしゃげた声で訊いてきた。
「駅からの道順ば教えてもらえんですか?」
「道順? なんで……もしかして、あんた、迷っちゃったのかい?」
 家主は喉がひきつったような声で笑った。
「帰る道がわからなくなっちゃったのかい?」
 愼次が黙っていると畳みかけるように訊いてきた。
「やだよ、この人」
 愼次のなかに恥ずかしさと怒りが芽生えた。
「冗談じゃないよ、夜中に。まったく」
 なにをしているのか、がさがさという音がする。
「待っとくれよ。えーと、駅ビルの方からだと、ほら、左手に中くらいの道が見えてんだろ?」
「左の方ですか?」
「そう、その通りをまっすぐ来ると……」
「ちょっと待ってくれんですか。パチンコ屋が見える通りですか?」
「えっ? パチンコ屋? そんなのあったっけか」
「赤とか黄色とかネオンが交互に点滅したり、流れるごと見えたりするパチンコ屋です」
「あんた、八千代通りにパチンコ屋なんかないよ。それ西口じゃないのかい?」
「西口じゃなかです!」
「あんた、ほんとどうしちゃったんだい?」
 そんな捗らないやりとりをしていると料金切れの警告音がなり、いきなりぷつりと切れてしまった。十円玉がなく仕方なく百円玉で掛け直した。
 彼女が教えてくれた道を辿りながら、愼次はなんども深いため息を吐いた。
 ――いま俺のなかでなにかが起こっている……
 
 目覚めると、なに事もなかったかのような目覚めの感覚だった。なんの不調も感じなかったが時間の感覚はなかった。どのくらい寝ていたのかすぐにはわからなかった。かなり長い時間寝ていたようだ。窓外は薄暗かった。
 病院へ行こうと思い立ちアパートを出た。どこの病院の何科の診療を受ければいいのか迷った。そのとき頭に浮かんだのが宮澤診療所だった。
 受付窓口で看護師に症状と関係のない細かいことをいろいろ質問された。 その後いつまでたっても呼ばれることなく、がらんとした診療所の待合室で待たされた。
 診療室に入ると真っ先に白い口髭を生やした白衣を着た男と目が合った。
「どうしたの?」
 肘掛つきの椅子に座っている医師に昨夜のことを話すと、
「いまも記憶がないの?」
 と素っ気なく訊いてきた。
 否定すると、愼次に上半身の服をすべて脱ぐようにと命じた。
 からだの数箇所に赤い斑点状のものができていた。それは蚊にさされたものだ。それを触診しながらつぶさに観察していたので、愼次が「それは関係ないと思う」と言うと、「どうして君にわかる?」と不機嫌そうに言い返された。 
 言われるままにジーパンも膝まで下ろした。穿いていた白のトランクスはゴムも布地もくたびれきっていた。変色もしていた。
 ――どうしてあんときああまで弱々しくなったとだろう。
 愼次はいまも悔やんでいる。
 ――顔をまともに見ることができなかった。青虫ほどの神経も持っていなかった。「そいつも脱いで」とあいつは言った。俺は耳を疑った。診察室の白いカーテンの一点を見つめていると頭がくらくらしてきた。……
「おやおや」
 医者は口髭の両端あたりにかすかに笑みを浮かべて、恥毛に埋もれたものをしげしげと見ていた。そして机の引出しから鉗子鋏のような器具を取り出し、器用に摘み、蕾のような包皮に覆われた亀頭を手荒く顕わにした。
 金属の冷たい感触と同時に刺すような痛みが下半身を貫いた。さらに発せられた呪いたくなるような言葉と物言いにカチリとなにかが切り替わるのがわかった。と同時に激しい怒りが込み上げてきた。
 愼次は丸椅子がはじけ飛ぶくらいの勢いで立ち上がり、ジーパンを素早く上げるとなにも言わずに表に飛び出した。
 そこからの記憶がプツリと切れている。愼次にその後自分がなにをし、どこをどう辿ってアパートまで帰ってきたのか覚えていない。気がついたのは自分の部屋の布団のなかだった。Tシャツもジーパンもひどく煤汚れていて、なによりたまらなく石油臭かった。

          *

 S駅で一瞬だけ車輌にほどよい空間が生まれるが、すぐに降りた人と同じくらいの人が乗車してくる。その状態が乗換駅のM駅まで変わらない。
 愼次もM駅で私鉄に乗り換える。私鉄も同じようなもので、旧型の座席を取り払った車輌に大勢の客と一緒に押し込められ、停車と発進、加速と減速のたびに前後左右に揉まれてバイト先の最寄駅に着く。
 工場正門を入ってすぐの建物の入り口でタイムカードに打刻し、薄暗い更衣室で作業服に着替えて作業場へ向かう。薄汚れたガラス窓と壁の補強パイプ柱があらわな簡易事務室にはすでに同じ濃紺のつなぎ服に身を包んだ男たちと浅黄色の上着とズボンを着た女たちがたむろしていた。
「遅い!」
 事務室のなかに入るや否や作業机に片尻を載せて腕組みをしている緒方に注意された。その直後に後ろから数人の男たちがどかどかと固まりになって入ってきた。
「もっと早く来れねえのか!」
 緒方がこれみよがしに自分の腕時計を見た。
「時間すぎてるじゃねえか」
 緒方は年長者の山岸康史をにらみつけた。
「毎日同じ事を言わせるな」
 言い返す者はいないが一様に「またか」という顔をしている。
 大半が一年未満の契約アルバイトだ。正規職員は緒方とその下の男と女二名しかいない。緒方を除いて職員もアルバイトもみな若い。高校卒業したての者、中退組、夜間大学生、その他素性がわからない者。
 ベルトコンベアーが稼動しはじめると作業場は途端に騒々しくなる。ベルトコンベアーで運ばれてくる部品を緩衝シートでひとつずつ包んでダンボール箱に詰め込んでいく。単純な作業だが、流れてくる量は半端じゃなかった。決まった筋肉を集中的に酷使するのですぐにしこりのようなものができて痛みはじめる。
 なんども腕を回したり、揉んだりして痛みを散らしながら作業をこなしていく。流れ作業と積み上げられていく痛みのせいでなにも考えることができない。ただ呪詛じみた言葉を念仏のように呟き続けることはできる。
「糞、失せろ、消え失せろ……」
 十二時きっかりに昼休みのチャイムが作業場に流れる。と同時にベルトコンベアーが一斉に止まる。愼次の耳にベルトコンベアーの残響音が鳴りやまない。
「さあ、メシの時間だ」
 緒方がそう叫んだときにはもう全員が持ち場を離れている。就労者全員が働き蟻のように同じ方向へ、同じつなぎ服を身にまとったからだを大儀そうに左右に揺らしながら進んでいく。
「ここ、いい?」
 社員食堂で愼次が旨みの薄い味噌ラーメンのスープを啜っていると、テーブルの向こう側から声を掛けられた。山岸康史だった。愼次と目が合うとパイプ椅子をガラガラ音立てて引きずってきて向かいの席に坐った。
「緒方のことだけどよ」
 眉間に皺を寄せた顔がいつもより大きく見える。
「みんな朝来るの遅いって言うんだな、俺に。で、どうしろって言ったと思う? 明日からみんなより早く来るようにしてくれねえかって言うんだ。一番年長の俺がそうすればみんなも早く来るようになるって言うんだ」
 カレーライスをスプーンでひと口運んでせわしなく顎を動かしながら話し続ける。
「伝票取りに事務所に言ったとき、緒方が田淵課長に説教されてる最中でよ。おまえんとこのバイトの遅刻者が多い、なぜ注意しない、いまにズルズルに弛んできて無断欠勤者を出すぞってな」
 山岸は饒舌だった。
「俺に早く来いって言いたかとか?」
「まさか!」
 山岸はカレーを食べ終わるとトレーを持って席を立った。
そのとき愼次の頭に幼なじみの伊佐夫の顔が浮かんだ。
 伊佐夫はいまもまだ島で漁師をやっている。「東京へ行く」とうち明けたとき「一緒に行ってもいいか?」と問われたが、すぐに断った。上京の最大の理由は島と結びつくすべてのものから遠ざかりたかったからだ。断わったときの伊佐夫の啞然とした表情が脳裏にこびりついて離れない。
「コーヒー飲めるだろ?」
 コーヒーカップを両手に持った山岸がまた目の前の席に坐った。
 山岸はコーヒーをひと口啜るとタバコと100円ライターを胸ポケットから取り出した。
「吸うか?」
 断ったが、なんども勧めるので仕方なく一本を受け取って火をつけてもらう。咳き込む愼次に山岸は笑みを浮かべた。
「俺なあ、おまえがそう遠くないうちにここ辞めちまうような気がしてんだ」
 にわかに山岸の前に坐っていることが苦痛になる。スープを飲み干すと立ち上がった。
「まあ、待てよ。話があるんだ。おまえにとっていい話だ」
 愼次のこころは動かなかった。無言のまま山岸に背を向けて返却口へ歩き出した。
「じゃあ、また今度な。決して悪い話じゃないから」
 山岸の視線を感じながら社員食堂を出た。

          *

「男湯」と書かれた曇りガラス戸を引いて銭湯のなかに入ると、生暖かい、石鹸の香りの混じった湯の匂いが鼻腔をくすぐる。
 終業時刻前に緒方から「残業してくれ」と頼まれたが愼次は断った。わずかな金子のためにさらに苦痛を長引かせることはしたくない。一刻も早くここの銭湯の湯船に浸かって手足を伸ばしたかった。
 目の高さよりやや低い手すりに置かれた受け皿に入浴料を入れて見上げると、番台のおやじと目が合った。おやじはずり落ちそうなメガネを手の甲で押し上げ無言のまま受け皿の硬貨を拾い上げ、すぐに小型テレビの方へ顔を向けた。愼次にはその素っ気なさがありがたかった。
 脱衣場には外とは明らかに違う柔らかい空気が満ちている。古めかしい淡い水色の三枚羽の扇風機が天井でゆっくり回っている。戦禍をまぬがれた古い民家が多いこの辺りでもこの手の建物は珍しい存在で、もう何軒も残っていないという。
 平日のこの時間は空いている。今日も人の姿はまばらだった。ここ数日ですっかり秋めいてきている。クーラーの効いた部屋にいるみたいだ。
 番台のおやじの視線を避けるためにロッカー台の裏に回る。ロッカー台とは反対側の大きな一枚鏡に痩せたからだが映っている。愼次は青白い自分の尻をその鏡に映しながら、汗臭い下着とジーパンをロッカーに投げ入れカギを引き抜いた。
 カランに備え付けられた混合栓の前で数人の男たちがいじけたような格好でからだを洗っている。ガラス戸を音たてて入ってきた愼次に関心を向ける者はいない。
 番台からも浴槽からも目の届かない壁際のカランの前に腰を下ろす。大きめのタオルをシャワーフックに掛け、もう一枚のフェイスタオルをボディソープで泡立ててからだを洗い、そのタオルで股間を覆う。シャワーを流しっぱなしにしたままリンスインシャンプーで髪を洗い、手早く洗い流す。手探りでシャワーフックに掛けた大きめのタオルを取り髪の水気をとる。そのタオルで前を隠して大浴槽横の白爆湯に素早く腰を沈める。
 湯船に首まで浸かって手足を伸ばしていると、疲労感と同時にからだに染みこんだ忌わしい数限りない記憶が溶け出していくように思える。
 宮澤診療所の医者の顔が鼻先近くに浮かび上がってくるが、瞬く間に浴槽の縁から掛け流しの湯水とともに排水口へ流れていく。

「深刻な顔をして、なんかあったのかい?」
 アパートの階段を上がろうとしたとき家主に声をかけられた。そのまま階段を上がろうとすると、「あんた宛に荷物が届いてるよ」と呼び止められた。買い物帰りらしく手に白いビニール袋が下げられていた。
 家主の後について母屋のなかに入った途端、小型犬が愼次に向かって激しく吠えたてた。 家主はその犬を空いている方の腕で抱きかかえると、「これ」と言ってうす暗いなか床を指さした。
「親というものはありがたいよね。あんたは幸せ者だよ。あたしはね、この歳になっても自分の親のことを考えると切なくなるんだよ。偉かったよね。自分が自分がというところがまったくなくって。着るものだって食べるものだって、自分たちはいいからってあたしたちにくれたりしてさ……」
 彼女の話をさえぎってずしりと重い箱を抱えて母屋を出た。
 部屋に入ってダンボール箱のふたを開けると、米と味噌、それに数種類の缶詰が入っていた。米と缶詰との間に二つ折りの便せんがのぞいている。手に取って広げると懐かしい字面が現われた。
「大変じゃろが頑張れ。こっちのことはなんの心配もいらん。お前はお前のやりたかことば一所懸命やれ。食べたかもんも食べられんのじゃなかか。わずかじゃけど送る」
 便せんの裏にしわくちゃになった一万円札が一枚糊で貼りつけられていた。
「最近足が覚束なくなってきて畑にも海にも出るのに気が重い。家のなかにひとりでじっとしておると歳のせいか昔のことばかり思い出す。ここ数日はおまえと暮らしとったころのことが無性に懐かしく思い出されてならん。
 おまえが爺ちゃんにとっての唯一の血の繋がった子じゃけんな。いまは遠くに行ってしもうて昔のように抱いてやれんのが無性に辛い。他人がおまえのことをなんと言おうとおまえは爺ちゃんの宝物ぞ。たとえ爺ちゃんが死んでも爺ちゃんはおまえばいつも見守っとる。
 おまえがまだこまかかったときおまえが連れてきた犬のことば憶えとるか。おまえがやったことを知っとるもんが他にもおった。隣の緒方の婆ちゃんが犬ば抱えて裏山へ行く姿や血だらけでぼーっと畦道ば歩きよっとったとこを見とったらしか。
 口止めばしちょったけど、あん婆さんは口が軽くて野添の爺さんにとおに話しとった。野添の爺さんが心配して忠告してくれらしたっど。それで緒方の婆さんの家に行って、うちの孫の話が広まったらただじゃ済まさんぞと震え上がらせとったとをおまえは知らんじゃろ。あん時の爺ちゃんの気持ちは本気やった。おまえをどうこうする奴がおったら何ばしとったかわからん。
 爺ちゃんにはあの犬ば始末せずにはおれんかったおまえの気持ちがようわかる。おまえにできる最後の取り返し方じゃったとじゃろ。
 おまえのおる東京で昌枝は自分だけ幸せに暮らしとる。昌枝には情というもんがなか。金の無心を手紙でなん度かしてきちょったけど、爺ちゃんはなんも応えんかった。おまえを引き取るように書き送った手紙になんも応えんかったようにな。
 爺ちゃんは爺ちゃんなりに昌枝のことの始末は済んどる。おまえはまだ済んどらん。いまおまえになんも知らせんで死んでしもうたら手がかりがなくなってしまう。おまえがどうするかはわからんけど、おまえはおまえなりにケリをつける必要が出てくるように思うので念のため知らせておく。……」
 二枚めの便せんに住所と電話番号を記したメモ用紙と一枚の写真が貼りつけられていた。愼次の実母の若いころのものだ。もはやカラー写真とはいえないほど変色して黄ばみ、印画紙自体も角がちぎれ、深い折り目が入っていた。
 これまで亡き者としていた母親のことについて今更どうして知らせる気になったのか、愼次には祖父の真意がわからなかった。
 再び写真に目を落とした。愼次の記憶のなかにある顔とはまるで違っていた。薄幸を絵に描いたような表情を浮かべている。写っている若い女がいまこの地球上に存在し、同じ空気を吸って暮らしているということが想像しがたかった。ぼやけかかった写真と同じように実母は希薄で、もはや愼次の中ではさして重要な存在ではなかった。ケリをつけるほどのことでもなく、遠い昔に憎しみも恋しさも消えていた。
 幼児期の愼次に培われなければならなかったもの、その時でなければ育まれえなかったものは与えられず、性格を形成するうえでの大きな要因となるべきものを受け取ることができなかった。失われたものはかえってこないし、奪われたたものももう永遠に授けられない。そのことを知っているかのように、いまの愼次に実母への敬慕の念はなく、会いたいという思いも湧かない。
 愼次に祖父の手紙にある犬との一連の出来事が甦ってくる。
 愼次の父親が死去して間もないころのことだ。ひとりで公園の砂場にしゃがんで砂遊びをしているところに一匹の子犬が現われ、おびえる様子もなく短い尻尾を揺らしながら近づいてきた。手を差し伸べると頭を低くしてさらに近づいてきた。栗色の柔らかい毛で覆われたからだを撫でてやると地面に仰向けになって手を舐めたり、軽く噛んだりしてきた。まとわりつき家までついてきた。よそへ行くそぶりもみせなかった。
 子犬を飼い始めて数日後、飼い主だという隣村に住むひとりの大男が訪ねてきた。祖父は真偽を確かめることなくあっさり愼次の腕から子犬を奪い取りその男に差し出した。
 愼次は幾日も泣いていた。数日とはいえ子犬と固い絆ができてしまっていたのだ。愼次はどうしても諦めきれず、隣村にいくどとなく足を運び子犬を探し回った。愼次が子犬を見つけ出すのにそう時間はかからなかった。子犬は愼次を忘れてはいなかった。愼次の姿を見ると駆け寄ってきて、からだを捩じらせながら愼次の手をさかんに舐めた。愼次は子犬を抱いたまま自宅へ駆けて帰った。祖父に気づかれぬように納屋でこっそり飼い始めたが、すぐに見つかり理由を尋ねられた。愼次は子犬が勝手に戻ってきたのだと嘘をついた。祖父は愼次の子犬への執着ぶりに困り果て、しかたなくしばらく様子を見ることにした。
 翌日男が再び訪ねてきた。祖父は男に事のなりゆきを話して聞かせ、子犬を譲ってくれるように頼んだ。しかし男の心は変わらず、子犬は連れ帰られた。そんな事があっても愼次は諦めきれず隣村へ足しげく通った。飼うことができないのだと悟ると、祖父の目を盗んで納屋から真新しい草刈鎌を持ち出し、人気のない裏山まで子犬を抱いていって殺し、骸は愼次が考えうる最良の方法で埋葬した。
 喉を鎌で引き裂いたときの感触、ぱっくり開いた裂け目から噴きだすおびただしい量の血の温もり、愼次を見つめる眼にうっすらと浮かんだ涙、そして小さな命が終焉を迎えるまでの一刻一刻の変化が脳裏に焼きついている。
 帰宅すると祖父は家にいて、愼次の血のついた服と草刈鎌を見て真っ青になった。祖父は愼次が手に掛けた対象が人ではなく子犬と知ると安堵し、叱ることはせずすぐさま愼次を着替えさせ、かまどで血糊のついた衣類は焼いて灰にし、草刈鎌もきれいに洗ってくれた。そしてこの事はどんなことがあっても他人に話してはならないときつくくぎを刺した。
 その日の夕刻、男が凄い剣幕で家に殴り込んできた。「うちの犬がいる筈だ」と語気強く祖父に迫った。祖父はなに食わぬ顔で嘘を突き通した。

 湯に浸かったおかげでからだに染み込んだ疲労感は緩んでいたが、肩や腰の痛みは鉛でも埋め込まれているかのように重く残っている。しこりが脈打つたびに疼いた。
 思いを巡らせていると、ふいに緒方や山岸らの顔が浮かんできてなにもかもがつくづく厭になった。いまの仕事を続けていく気力が失せていった。辞めることに気持ちが固まると、気分だけでなく蓄積された疲労感までが軽減されているように思えた。
 辞めてどうする? すぐに次の仕事が決まるとは思えない。また同じようなバイトをはじめるのか……そんなことを考えている間に眠りに落ちた。

 真夜中、部屋の扉を叩く音で目を覚ました。
「田舎から電話だよ」
 扉を開けると、白っぽい顔をした寝間着姿の家主が文句ひとつ言わずに小声で教えてくれた。それだけ告げるためにわざわざ足が悪いのに二階まで上がってきてくれたのだ。
「今日マサ爺ちゃんが亡くなった」
 電話に出るなり、電話の主がいきなりそう告げた。
 その声に聞き覚えがあった。なにかと愼次の面倒をみてくれていた漁業組合長の鎌田健吾だった。彼は父親や祖父とはかつての仕事仲間で、ちょくちょく愼次の家へも顔を出していた。
 自宅で玄関口にうつぶせになって倒れているのを近所の主婦に発見された。すでに心肺停止状態で、死因は心不全だった。
「誰にも看取られることなく、たったひとりで亡くなったようだ。後から爺ちゃんの家に行ったんだが、部屋のなかはこれからだれか客人でも迎い入れでもするかっごと、きれいに掃除が行き届いとって、食器も飾り棚もきちんと整理整頓されとった」
 鎌田は感情を押し殺した声で教えてくれた。
 愼次はすぐに帰り支度をはじめた。すでに息を引き取っていることがわかっていても気が急いた。荷造りの最中に愼次の手が止まった。帰郷するのに足る金がないことに気づいたのだ。
 ――いま帰りたくても帰れん。死んだ爺ちゃんの顔ば見ることもできん……。
 愼次はふがいない自分が腹立しく、情けなかった。旅費を貸りる当てもなかった。
 数時間うつらうつらした後急きたてられるように目覚めた。腕時計を見る。いつもならすでに出掛けている時間だった。寝床から這い出し、着替え、洗顔し、歯を磨く。時計を見る。七時十五分。緒方が出勤し、作業着に着替えているころだ。
 布団を畳み、枕とともに勢いよく押入れに押し込んだ。そのとき木造二階の三畳部屋が悲鳴を上げた。
 窓から空を見上げると、昨日の朝と同じように薄い雲の塊が形を変えながら東の方へ移動していた。神社の境内の銀杏は一日だけでかなり落葉が進んでいる。
 ――すぐ給与清算してもらえないか、前払いはできないか……。
 あれこれ考えているうちに緒方に電話する気力を失った。
 昼すぎごろ山岸康史から電話が掛かってきた。
「おまえ、どうしたんだ? 無断欠勤かよ」
「田舎の爺ちゃんが死んだんだ」
「そうだったのか。でも電話すべきだったな。緒方、カンカンだぜ。いまさっき出てったけど」
「構わない。どうせ辞めるんだから」
「そうか、やっぱりな」
 山岸がちょっと笑った。
「ところでさ、稼げる仕事があるんだけど、俺と一緒にやってみる気はないか?」
「おまえと?」
「ああ。一日数時間で最低二万。成功報酬として一件につき二、三十万くらい貰える」
 山岸の声は誇らしげで明るかった。
「今夜その仲介人と会うんだけど、おまえも一緒に行ってみないか?」
「俺はいい。金は稼ぎたかけど……」
「だったら迷うことないじゃないか。決まりだな」
「どんな仕事なんだ?」
 山岸は言いよどんだ。
「詳しいことは会ったときちゃんと話す。六時きっかりにF駅の改札口で」
 そう言うなり電話は切れた。
 ――山岸に借りられないか。
 愼次の頭に微笑みかける祖父のしわくちゃな顔が浮かんだ。申し訳ない気持ちと自責の念でしばらくその場を動けなかった。

          *

 目の前を通る人のなかに伊佐夫に似た顔を見つけてハッとさせられた。それをきっかけに注意して見ていると、いる、いる。漁業組合長の鎌田健吾をはじめ島の人間とどことなく似ている顔が右へ左へと通り過ぎていく。
 腕時計を見る。まだ約束の時間まで二十分もある。時間の流れがとても遅く感じられる。早く着きすぎてしまった。
 また腕時計を見る。さほど長針の指し示す位置は変わっていない。
 山岸は約束の時間ぴったりに現われ、愼次を駅ビル内の喫茶店に誘った。「どうして俺が前田や山中でなくお前に声を掛けたと思う?」「…………………」
「わからないよな。前田や中山には隠してたけれど、俺もおまえと同じ地方出身者なんだ。九州の炭鉱街の生まれで、父親は坑夫だったんだよ。家を出てなければいまも地元で暮らしていただろうな。 
 親父は俺が小学四年のときに炭鉱の炭塵爆発事故で死んでる。爆発地点からかなり離れた地下坑道で倒れていたそうだ。別の坑口へ向かって暗い坑道のなかを這うように進んでる途中で気を失ったんだろうな。収容されていた体育館で父親の死に顔を見たとき俺は涙もでなかったよ。鼻の穴まで真っ黒でさ。俺は親父のような死に方はしたくなくて高校卒業するとすぐ母親をひとり残して東京に出てきた。
 ずっと待ってたんだ、今回のようなチャンスを。
 母親か? 生きてるよ、いまも。同じ家でわずかな年金で細々と暮らしてる。時々電話が掛かってくるけど、無理して明るく話そうとするんだ。わかるんだよね、もう限界なんだということが。孤独に押し潰されそうな感じが。何とかしてやりたいのは山々なんだけど」
 山岸はそこまで話し終えると、テーブルの上の氷の入ったグラスに手を伸ばした。
「おまえはな、いまのおまえは、俺が上京してきたときとおんなじなんだよ。おんなじ顔してる。態度もなにもかもな。似すぎてこっちがおかしくなるくらいだ。怒るなよ。親近感を持ってるということなんだからさ。それとおまえが弟みたいに思えてしょうがないんだよ。自殺した弟みたいな錯覚が起こるんだ」
「自殺?」
「ああ。『生きる意味がわからない』って書き置きして。十五のガキんちょがさ。笑っちゃうだろ?」
「……………………」
 山岸は苦々しい顔つきでタバコに火をつけた。
「俺がどうしておまえに接触してきたか不思議だっただろう? これから一緒に仕事するのに蟠りみたいなものがおまえと俺との間にない方がいいと思うからこんな話をしてるんだ」
 愼次もグラスの冷水を飲み干した。
「前田や山中は俺たちとは違う。根っからの能天気な都会育ちのプライド高いお坊ちゃんだ。なにがやりたいのか、自分がなにをすればいいのかまったく見えてないし、それ自体どうでもいいのかもしれないけど、自分ではいっぱし時代の波に乗ってるつもりでいる。傍から見れば掃溜めに流されてるだけさ。そのうえ根性も覚悟もない。軽いもんさ。根からして俺たちとは違う。引きずってるもんが違うんだ」
 愼次には山岸がなにを言ってるのか、なにを伝えようとしているのか理解できなかった。
「……仕事の内容は訊けたのか?」
「焦るなって」
「俺が今日ここに来たのはな……」
「分かった、分かった。おまえの田舎のこととか家のこととか聞きたかったけど、またの機会でいいや」
 そういうと新しいタバコに火を点け、ひと息吸ってから仕事の話をはじめた。
「ひと言でいえば人助けだ」
「人助け?」
「ああ」
「人助けで稼げるのか?」
「ああ、稼げる」
 山岸は椅子の上に置いていた肩掛けカバンのファスナーを開け、中から小冊子を取り出した。今日会う仕事の仲介者から預かっている資料だった。
「おまえは人工透析というのを知ってるか?」
「知らん」
「腎臓病の人が受ける治療のひとつだ。腎臓で血液のなかにとり込んだからだのなかの老廃物や余計なものを濾過して尿として体外に排泄しているんだけど、腎臓病の人はそれがうまくできない。その機能が衰えた人はこの人工透析で腎臓の代わりをしてもらわなければ死ぬ厄介な病気だ。
 それも一週間に三度も四度も病院へ行ってやってもらわなければならない。注射みたいに、短時間で、はい、おしまい、というもんじゃない。三時間も四時間もただじっとベッドに横になったまま濾過し終わるまで我慢してなければならない」
 小冊子のページをめくって、人工透析を受けている患者を撮影したカラーページを見せた。
「完治することはない。透析は治療じゃないんだ。ここに書いてある。その透析治療も五年くらいから徐々に難しくなる。その後は年を重ねるうちに合併症の心配がでてくる。透析治療は十年が限度といわれている。
 そういう腎臓病の人が世界中にうようよいる。日本だけでも二十二万人もいる。そのほとんどの人がこの人工透析の助けをかりて生きている。そういう患者が日本だけで一年に約一万人ずつ増えてるんだそうだ。
 完治させようとすれば、腎臓移植しかない。健康な腎臓ひとつもらえば人工透析の苦しみ、死の恐怖から解放される。近親者からの臓器提供というのはよく聞くけど、他人からの臓器移植は腎臓に限らず肝臓でも心臓でも法律の縛りも厳しくて頻繁におこなわれているわけじゃない」
 そこで山岸は小冊子を手にとって続けた。
「いま腎臓だけでなく肝臓でも心臓でも移植してほしいという希望者の数に対して提供される数はほんのわずかなんだそうだ。日本じゃ年に数件しかない。そりゃあそうだよな。身内にいなければドナー登録者の死を待つだけだから。登録してても必ず自分の順番が回ってくるというわけじゃない。移植前に合併症で多くの人が亡くなっている。
 死にたくなければ自分でドナー探しをすることになる。金で自分が死ななくてすむのならと考える人がでてくる。当然な話だよな。国内がだめなら海外でもっていうことで、外国人から金で二つある腎臓のひとつを買って移植してもらうという医療ビジネスがまかり通るようになる。数年前まで臓器売買が合法だったフィリピンでもイメージが悪いというので禁止する法律が施行されたらしいけど、ブローカーの人間に言わせると決して取り締まれないというのがいまの状況だそうだ。裏に隠れるだけだと」
「腎臓が売れるのか?」
「ああ。でもさっきも話したけど、臓器移植というものに対して日本の法律の縛りは厳しくて、提供者との間で金銭のやりとりがあってはならない。それがばれると提供者も仲介者も厳罰に処せられる。しかしな、それは国内だけの話で」
「売る人を見つけられるのか?」
「ああ。いまじゃあ腎臓ひとつぐらい売ってもなんてことないという、借金地獄に墜ちてにっちもさっちもいかなくなった人や食べるものも満足に得られないという極貧状態の人がたくさんいる」
 山岸はテーブルの上のグラスを手に取り、解けかかっている氷をガリガリと音たてて噛み砕いた。
「中国にはかなりの数の死刑囚があふれてて収容しきれない状況らしい。北京オリンピックの前までは死刑執行される数も、また死刑囚から取り出された臓器の移植手術もかなり行われていたけど、国際社会の批難やら北京オリンピック開催国という面目もあって死刑執行数が激減して提供される臓器も少なくなった。また外国人への臓器移植も禁止という中国政府の通達まで出されて。その辺の事情はここに詳しく書いてある」
 山岸は小冊子をめくると確認するように書かれていることに目を走らせて、さらに続けた。
「それで北京オリンピックも終わり国際社会の目が逸れはじめたころから、また以前のように死刑執行が行われるようになった。と同時に、臓器移植数も増加しだした」
「死刑囚の臓器をどうやって手に入れるんだ?」
「そっちの心配はいらない。中国の正式な医療機関の医師たちが日本を含めた外国人への移植ビジネスを拡大したくていま盛んに持ちかけてきているんだそうだ。確かに中国でも臓器移植の仲介、売買はもちろん、外国人への移植も違法という通達がだされた。しかし、それは国際批判の目をそらすための表向きの通達であって法律じゃない。中央政府の通達は地方地域への強制力がそれほどない。かつてのようなどんなことをやってもひっかからないというわけじゃないが、死刑囚自身やその家族の事前同意をはじめその後の生活面の面倒をみるなどの条件で、合法的にドナーの臓器を手に入れて移植することは可能なんだそうだ。移植技術も医療設備も整った医療機関がいまの中国にはある」
「取締りがゆるいといっても違法なことに変わりはなかじゃなかか。罰せられないという保証はあるのか?」
「そりゃあ、おおっぴらに金を取って日本人に移植しているということが表ざたになれば中央政府だって黙ってはいないだろうよ。だがな、俺たちの仕事はそっちまでタッチしない。国内の移植してほしいという人の説得と渡航前の準備とお世話だ」
「説得?」
「ああ、お膳立てはちゃんと整えられてて、俺たちはただ会ってマニュアルに沿って話を進めるだけだよ。一からはじめるわけじゃない」
「その後は?」
「その中国の医療機関にぶらさがってるブローカーに引き渡される。あとは俺たちの手の届かない、知らされもしない組織が動いて移植手術が行われる」
「……………………」
「大丈夫だよ、おまえひとりでやるわけじゃない。俺と組んでやるんだから」
 愼次の不安を読み取ったのか、山岸は愼次の話をさえぎって言った。
「おまえと?」
「ああ。俺とおまえだ」
 やや沈黙があって、山岸が身を乗り出してきて愼次の腕を掴んだ。
「どうだ、今夜、会ってみるだけ会ってみないか?」

          *

 山岸は駅前の欅並木通りを足早にぐんぐん進んでいく。黒皮のジャケットの背中を見つめながら遅れまいとして愼次も速度を上げる。
 結局、愼次は山岸の積極さに押し切られて同行することになった。仕事の内容にこころを動かされたわけではなかった。ましてや山岸の出自や自殺した弟の話でもなかった。
 国道をまたぐ歩道橋の手前で山岸が突然振り返った。すぐ後ろに張りつくように愼次がいるのにちょっと驚いた風だった。すぐに向き直ると軽快なステップで階段を駆け上がっていく。
 目的のマンションはその歩道橋からほど近いところにあった。山岸は以前にも来たことがあるらしく、一度も足を止めることなく迷わず高級マンションの玄関に辿りついた。躊躇うことなく大きな観音開きの重々しいガラス扉を押してエントランスに入った。そしてモニター付きオートロックの入力設備の前に立ち、テンキー付きの操作パネルに部屋番号を入力し呼び出しボタンを押した。
「ハイ、ナンデスカ」
 イントネーションがたどたどしい男の声が応えた。
「山岸、山岸康史です」
 自動扉のドアロックが解かれる音と共に自動ドアが勝手に開いた。
 内側は広々としたロビーになっていた。その豪華さに目を瞠らされた。天井は高く、美術品のような照明が吊るされている。壁の柔らかい間接照明の光がその空間に適度な明るさと落ち着きを与えていた。
 床には踏み心地の良いベージュのカーペットが敷かれ、大きな革張りのソファとガラステーブル、その脇に大きめの観葉植物が置かれている。
 山岸と愼次はそのロビーを突っ切り、二基あるエレベーターの扉の前に立った。軽い到着音と共に扉が開いた。エレベーターに乗ると山岸は慣れた手つきで最上階のボタンを押した。
 目的階で扉が開くと、黒のスーツに暗紅色の細いネクタイを締めた若い痩せた男が待っていた。最上階は規則性があるのかないのか複雑な部屋割りになっている。
「コッチヘ」
 その男にエレベーターから一番遠い部屋に案内された。入ってすぐの部屋には同系色の真新しい家具らが備え付けられ、テレビボードには大型液晶テレビが置かれている。棚の置物も壁の絵画もいかにも高額そうだ。また生活臭がない。
 男は「シバラク、ココデオマチクダサイ」と言い残して部屋の扉を閉ざして出ていった。
 間もなくして勢いよく奥の方の扉が開けられ、これからゴルフにでも行くようなラフな格好の太った男がひとり入ってきた。
「山岸君、この人がこの前言ってた人か?」
「はい。神尾君です」
 愼次は相手の顔を見ないまま頭を下げた。
「そう。それで神尾君には仕事の内容は話してあるのか?」
「いえ、まだ」
 山岸は嘘を言った。
「どっかで会ったことあったかな?」
 そのとき初めて愼次は男の顔を見た。
 見た途端、愼次は自分の目を疑った。
 相手の顔にあの宮澤診療所の医者の顔が張りついている。一瞬でからだが凍りついた。
 睨みつける愼次に、男の温和そうな表情が一変し、鋭いまなざしが返えってきた。そして、あのときと同じように口髭を生やした口元をかすかに動かせて呟いたように思えた。
 ――マイクロペニス……
 愼次を打ちのめし屈辱の辛酸を舐めさせられた言葉が、いままたこの場で発せられたような錯覚が起こる。
「そんな怖い顔をしてどうしたんだ?」
 なにが起こっているのかわからず、山岸が愼次の耳そばで小声で問いただした。
「なに考えてるんだ?」
 心臓の鼓動が増し、頭が混乱してくる。持てるすべての感覚が奪い去られていく。
「山岸君、彼とは縁を切った方がいい」
「えっ!」
 男は愼次から目を逸らし、ソファにからだを沈ませ、腕組みをすると天井にタバコの煙を吐き出した。そしてタバコを灰皿に捻りつぶして「せっかく足を運んでもらって悪いんだけど」と言い、ソファから立ち上がった。
「なぜなんですか?」
 山岸が部屋を出かかっている男の背中に向かって、情けない声を発した。
「あとで携帯の方に電話をくれ」
 男はそう言うと愼次の方をチラッと見下ろして出て行った。
「なんかあったのか?」
 帰路の途中で山岸が不機嫌な声で訊いてきた。目には険しさがあった。愼次を責めている目つきだった。
「連絡する」と言うと、山岸は振り返ることなく駅の改札口を抜け、混雑するホームの人込みのなかに消えていった。

 彼から電話が掛かってきたのは十時すぎだった。
「今回の話はなかったことにしてくれ」
 受話器の向こうの山岸の声に滑らかさはなかった。
「なんだったんだ? なにがあったんだ?」
 山岸は小声でつぶやくように言った。
「俺の方から誘っといてなんだけど、今回のことは全部忘れてくれ」
 カラカラに乾いた愼次の口からは掠れ声も出ない。
「それから仕事の内容もな。絶対口外すんなよ」
 幼い者を諭すような口調だった。
 そのとき愼次にあの医者の顔が浮かんだ。山岸がまだなにか話しているのもかまわず、耳に当てていた受話器を床に叩きつけた。家主の悲鳴に近い叱声が襲い掛かってくる。
 アパートを飛び出すと闇雲に駆けだした。
 スピードが速くなる。
 胸の奥に疼きが感じられる。
 血の味がする。
 気がつくと商店が建ち並ぶ、あの広い通りに達していた。どこをどう走ってたどり着いたのか思い返すことができない。
 ささくれだった感情が好き勝手に吹き荒れている。
 愼次は走るのをやめた。もう少し先へ行けば愼次が避け続けてきた宮澤診療所が見えてくる。ここで引き返さなければその前を通ることになる。
 不思議なことに、あれほど忌み拒み続けてきたはずなのに、いま愼次に引き返そうという気持ちが起こらなかった。
 ひと足ごとにおぼろげな記憶と現実の風景とが奇妙な一致をみせはじめる。
 診療所の建物はそっくり消え失せていた。その敷地奥の一角にすすけたブロック塀の残骸と焼けこげた木片がうず高く積まれていた。跡地はすっかり均され、真新しい白い砂利が撒かれていた。

 ロウソクのような火が一本だけ揺れている。やがてその火がみるみるうちに数を増し、あっという間にひとつに溶け合い、太い火柱となって目の前に立ちはだかる。
 火柱の根もとから鮮やかなオレンジ色の筋がいく本も這い出し、怪しく忍び寄ってくる。投網を打ち広げたように飛び火が撒き散らされ、その一つひとつが新たな火種となって拡散されていく。
 服にとりついた炎を払おうとした瞬間、焼けこげの一部が剥がれ落ち、カーテンに飛び火し瞬時に巨人の舌先のような炎が現れ、ぬらぬらと天井を舐めはじめる。
 いつの間にか手に灯油缶を抱えている。入口の方はすでに燃えさかっている。灯油缶を放り投げると同時に、ボンという音とともに正視できないほどのまばゆさを放つ海と化す。
 どこからともなくけたたましいサイレンの音が聴こえてくる。逃げ出そうとするもからだがいうことをきかない。足元を見ると炎がまとわりついている。焦れば焦るほど深みに引きずりこまれていく……。

 愼次に手応えと自覚が芽生えはじめる。
 そのときいきなり背後から両腕を強く掴まれた。驚いて振り返ると、愼次の顔のすぐ近くに眼光鋭い男の顔があった。
 愼次にはその顔が、はるか遠い昔に脳裏に焼きつけられた、犬を取り返しに来た大男のもののように思えた。

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