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不登校でも、「1人の人間としてみてほしい」

私が小学4年生の時、沢山沢山考えてたどり着いた「1人の人間として見てほしい」という言葉。

それには経緯があった。

当時の新しく担任となった先生に言われた一言からだった。

「〇〇だけはゆずれない」「あいちゃんだけに特別扱いできない」

その言葉を言われた瞬間、私はトイレへ逃げ込み涙を流しました。

確かに、年度が変わる時、担任の先生へは親からも学校側からも私への配慮については話があったはず。

だけど、その「特別」ということを意味していたわけではないのだ。

もちろん、他の子たちとは違う配慮が必要だからこそ、担任の認識がずれていたのかもしれない。

だけどだけど、繊細と言われている子どもにそんなにも自分の意見だけを押し付ける必要があってのか?
 
そんなことがあって、私は何日も何日も自分の思いを言葉にしようと考えた。

なぜなら、私自身も特別扱いなどしてほしくない年頃で、悲しみだけではなく何か怒りを感じていたのかもしれない。

本当に本当に私が言いたかったのは、「1人の人間としてみてほしい」クラスの1人として見て欲しかっただけ…

一人一人にあった声かけをするのと同じように、私という1人の人間に合った対応をしてほしかった。

これって、何も知らない周りの人からしたら、私はただのまがままに見えるかもしれない。

だけど、私が支援者になってから、やっと理解できたこのことの理屈。

私が不登校の親子の居場所づくりを始めてから、子どもたちの支援の足りなさを感じていて…

学校に行っている子たちには沢山の学びや選択肢がある中で、学校に行かない選択をしただけで、関わる人も減り選択肢も減る。

それっておかしいのでは?と思ったのだ。

だからこそ、私がやりたい支援は、誰もが当たり前に受けているサポートを担うという役割を持った居場所であることだった。

不登校の子たちにも、いや特に必要。

人は1人では生きていけないのだから、必ず誰かと支え合って生きている。

必ずサポートを受けながら生きていることに、みんな気付いていないだけ。

その、「当たり前」の支援を不登校の親子へも届ける必要がある。 

大事なのは、「特別」ではなく「当たり前!」ということ…

私が当事者の時も、支援者としても、考えは全く違ってなかった。

不登校真っ只中の時でも、1人の人間としてサポートをしてほしいかった。特別とかゆずれないとか、そんなのは私の考えとは違う。

支援者となった今でも、不登校の親子に手を差し伸べるのは当たり前。何も特別なことではなく、人が生きていくために必要なこと。

という考えは、立場が違えど同じ方向を向いているのだ。

特別扱いだから、と甘えていると思わないでほしい。

みんなどんな時でも、必死に生きていて、精一杯頑張ってる。

そんな人たちを、しっかりと1人の人間として見ることが、これからの多様性を認めることに繋がるのではないか…

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