不登校とは、生きるという選択
私の人生、3/4は不登校。
長い長い期間、見えない何かと戦ってきた。
最初のきっかけとなった担任の先生からの過度な指導、それは大人達が想像をできないくらいの壮絶な日々があった。
ただ、担任が変わっても、変わらない自分。
トラウマは消したつもりでも消えないものだった。
だから、私はいつも自分に言い聞かせていた。
「自分が悪い。私のせいでみんなを苦しめている」
幼い私の頭の中はいつもこれ。
だから、小1の頃からずっと[生きる]ということについて考えていた。
最初は、単なる疑問からだったのかもしれない。
[なんで、私は生きているのか??]
でも、だんだんその考えは変化していった。
[私が生きている意味は何?]
今ある命が何のためにあるのかが分からなくなっていた。
そして、今の記憶が正しければ…
小4の時、生きているのをやめようと思ったことがあった。
大人が知れば、必ず止めるような行動もしていた。
でも、私にはその決断はできない。
ただ、一つ言えるのは幼い子どもにそこまで追い込んだ状況を作ったことに問題があるということ。
そして、中学生になりさらに不安も強く反抗期とも重なり大変だった。
その頃の考えは、
[私がいなくならないと、大人達は私の苦しみに気づかない]
必死に訴えていたつもりの私でも、伝わらない思い。
大人に知ってほしいけど、最終手段を選ぶのか。
まだまだ子どもな私は、ただ生きるしかなかった。
だけど、どんなことがあっても私を救ってくれた人はいた。
その人たちは、私が学校に行きたくない思いを理解して尊重してくれた。
無理に来いとも行きなさいとも言わない。
だけど、そっと側に居てくれる。
それが私にとって安心だった。
だから、学校に行かないという選択は、生きる選択に繋がった。
その人達が、私が学校に行けるようになるよりも私がニコニコ元気でいることを望んでくれたのは、その時の私の生きる力を付けてくれたことと同じなのだ。
だから、不登校は命を守る行動としてある。それを広く知ってほしい。
私があのまま、学校に行って辛い思いをしたままだったら、生きるという選択肢を失っていたかもしれない。
でも、【不登校】という選択があったから、私は今生きている。
もちろん、不登校になってからの苦しみや辛さは沢山ある。
でも、そんなことよりもまずは命を繋げることが大事。
だから、子どもたちの小さくて大きな選択は見逃さないでほしい。
それは、生きるという選択だから…
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