あづまの道の記

 「あづまの道の記」は1590年の小田原征討の際の紀行文である。木下長嘯子は当時22歳であり、現存する散文としては最古のものである。2月28日の下向から3月22までの1か月間にわたる行軍の道中で訪れた名所旧跡などの様子をつづっている。

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きさらぎ二十日あまりのころほひ、みやこをいで、東におもむきけるに、人々なごり惜しみて、うちおくりはべりけるに、あふさかの関の清水のもとにて、いまは帰りねとはべりけれど、なほ慕ふこゝろにや行きもやらざりければ、こまをとゞめて
  たゞたのめ東路遠く別るともまたたちかへりあふさかの名を
其日は近江の草津と云ふところにとまりはべり。はやくかゞみ山を過ぎけるに、かすみたなびき、折ふしこゝろありけるけい氣なれば、たゞに過ぎがたくおぼえて
  かゞみ山はるのかすみにくもらずばきみが千歳をみてもゆかなむ
古今に、「近江のや鏡の山をたてたればかねてぞ見ゆる君が千歳は」とよめる歌をおもひいだして、君が千歳を保たせ給はんことうたがひもなし。さればきみの千歳はみゆらんものをと云ふなり。おなじくはべる人のよめる
  おもかげはうつさずとてもかゞみ山なをなつかしみいざよりてみん
弥生のはじめつかた、尾張の國につきぬ。ふるさとなれば、みやこのすみかにもおとらず、なつかしくおぼえて、すみけんむかしのあとにゆきてみれば、ありしにもあらずすみあらして、庭の蓬つゆふかく、松の落葉の木を埋む。落花むなしく木を辞し風犯して梢をならす。たゞなみだは落つともおぼえぬに、袖も所せくなりにけり。まつとしもめらぬ月のほのぼのと指いでゝ、かへる雁のおとづれて行、ものかなしくはべりければ
  ふるさとはかくこそあらめかへるかりこゝろづくしになにいそぐらむ
  久かたの月はみやこのかたみかはたびにしあればながめしれつゝ
みやこのはるをおもひやりて
  中々にみぬぞかなしき花ざかりさそふあらしのうきにつけても
やう/\いそぎけるほどに、遠江のくにさよの中山をこえけるに、しばし
やすみて
  くさまくらつゆもいたくや結ぶらんなほ袖しぼるさよの中山
おなじくはべる人のよめる
  たび衣かへりて人にかたらまし月もいまはのさよの中山
  いのちなりさよの中山けふこえていつかへるべき行くへともなし
  とりの音もふもとのさとは明けぬれど我が来しかたはさよの中山
  入月をそなたのそらとかへりみて夢路に越ゆるさよの中山
さて行くまゝに、するがの國宇津の山にいたりぬ。なりひら朝臣、このつたの
細道分入し、たびのあはれもおもひしられて
  うつの山こえし人こそむかしなれわくるはおなじつたの細道
おなじくはべる人のよめる
  あづさ弓やよひの空もうつの山こえてみやこのはるは夢かは
  都いでゝいく夜なれにしかり枕夢かうつゝかうつの山ごえ
おなじ所名所、賤機山《しづはたやま》とて、富士浅間にてまします。見物ならし。まうでゝよめる。
  世の人のおもひしれとやあさ衣神もおるてふしづはたの山
そこに殿下、御あしをやすめたまうて、三日あまり御座有けるほど、人々もつかれなほして、所々にさぶらはれける中にも、みづからやすらひし家あるじこゝろありける人にて、瀧おとし石たてゝ、庭などふるくつくりなし、ことに目もあやなるけいきなり。あるじのをとこ、さかなもよほし、さけすゝめ、こまやかにものがたりして、あそびけるついでに、いはつゝじをみて
  くれなゐのわきて色こそいはつゝじ花もあるじのこゝろにぞさく
二十二日に府中をいでゝ、清見が関にと侍りけるに、浦のありさま山のたゞすまひ、めもはなちがたく覚えて、くるゝまでながめをるに、人々さらね所だにおもしろきに、浦の月さこそはあらんとまちあひけるに、その夜しもくもりがちにてゝむなしくあけなんとすれば
  おなじくは月吹きはらせ奥津風ひかりきよみが關の名もをし
おなじくはべりける人のよめる
  たび衣こゝろぞとまる東路にきよみがせきもみほの松はら
  かねのこゑも更行月のきよみがたよせくる浪にゆめぞさめぬる
それより三保の松原をみやりけるに、きゝしより見るはまさりておぼえければ、わすれめやきよみが關の浪間よりかすめていづるみほのまつはらといひけんもことわりかなとて
  おもかげも我わすれめやきよみがた関にむかへるみほのまつばら
とよみで行に、目にたつさまなるかはありけるをとひはべりければ、これなんすみだ河と云ふ。さては業平の、みやこどりにことゝひし所にやと云ひければ、翁それにはあらず、こゝはするがのくにいほはらや、すみだ河とよみしとかたりければ
  みやこどりいざやこゝにもすみだ河ことゝひかはせ浪のまに/\
かのふじの山をみれば、たかねの雪は雲よりそらにあらはれ、ふもとは田子の浦、浮島ヶ原つゞき、入江小嶋ながめやる眺望、更にいひしらず。
  いつきえておのがはるをも待えましふじのたかねの雪のしたぐさ
おなじくはべる人のよめる。
  東路のたびのすさみにながむればやまこそなけれふじの高ねに
  雪の比も雲をば帯にするがなるふじのたかねの春のあけぼの
  きゝしよりけしきにあかぬふじのねのくもにがヽゝれるゆきのむら消
  ふじのねをみる/\行けば時しらぬ雪にぞ花のはるをわするゝ
このたび、道すがらの名所のこらず見侍りて、おろかなるこゝろにかきあつめはべりけるは、この道にこゝろざしふかくして、のちのあざけりをまねくのみならし。



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