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黒占
2022年9月3日 14:27
空虚が満たされた日の夜。 ひとしきり恋の余韻に酔い痴れた私は彼女に手紙を書いた。文字通りの恋文である。 心という器に満ちるどころか溢れ出んとするそれを、ただ何処かに吐き出さなければならないと思ったのだ。 便箋を引っ張り出し、亡き祖母の遺品であるこの文机に向かい。思いつく言葉を何とか繋がるように並べて、一つの文章にしてゆく。 幼い頃に亡くなった私の祖母は筆忠実な人で、たくさんの人と文通をし
2022年9月4日 18:01
手紙を外に持ち歩いたその日。 私は夕方になって、ようやくあの子を見に行った。 日が傾くまで、どうにも事を起こせなかった。何となくそれは、無粋な事であるように思えた。なるべくあの時と同じ状況が良い。夕陽の下で、もう一度彼女の麗しい顔を垣間見たかったのである。 あの時ほどでは無いにしても、また夕焼けが赤く教室を覆っていた。 私はつい先週と同じように、素知らぬ顔を装って一年B組に這入った。
2022年9月6日 16:34
心が内へ閉じこもったまま膨らみ始めて、二年が経った。 それだけの時間が経てば、流石に情報も増える。あの日教室で私が見たあの子は、水橋譲花という名前らしい。手紙を書き始めた時はあんなにも知りたかった事だというのに、不気味なほど感情が動かなかった。ただ、綺麗な名前だな───とだけ考えた。 彼女───水橋は、文芸部に所属していた。あの夏休みに一緒に居た二人の男もその一員であったようだ。 私が入学
2022年9月8日 14:55
私は膨張を続けている。 ひと時の悲しみが胸を裂こうとも、脳はただそれを整理し、解体する。 つい先刻までの私の心に渦巻いていた激しい感情も、ここへ帰り着いた頃にはすっかり理性によって水平化され、鎮静していた。 ただ、執着だけが、ここに残っている。 つい一時間ほど前。終業式が終わった後の事である。 高校最後の一学期を終えた私は、二年前の春と同じように夕方まで学校に居残っていた。特に理由も
2022年9月10日 17:19
思う、という行為は心の領分だ。 情報を受容して、そこに意味を感じ、味わう。 考えるのは、脳の領分だ。 情報を整理して、その中に理屈を見出し、飲み込む。 そうして人は味わったものを飲み込み、吸収してゆく。 心の喉元を過ぎれば、如何なる美味も単なる栄養である。脳はただそれらの成分を分類し、消化するだけなのだ。 恋もまた、味わうものであるらしい。 その甘味や苦味に、私の心はずっと酔ってい
2022年9月15日 23:54
気がつくと私は、林の中に立っていた。 風に木の葉が擦れる音と蜩の啼き声だけが、身体を包んでいる。 昏く深い緑が、さわさわと揺れている。 ───ここは、何処だろう。 陽はまだ、完全に落ちてはいないようだ。 少し遠くに目を遣ると、木立の間に小豆色の空が開けている。 目算でおよそ数十米ほどの距離である。彼処からならば、景色が見渡せるかもしれない。少なくとも手掛かりくらいにはなるはずだ