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離れていても、自分らしく生きる父親が私にとってヒーローだった。~寺門美和子さん~

こんにちは。一般社団法人りむすびです。離婚後も両親で子育てする共同養育を実践している女性「共同養育woman」特集。
今回は、両親の別居により離れて暮らす父親への思いを語る寺門美和子さんをインタビューしました。

■プロフィール

お名前:寺門美和子(てらかどみわこ)さん

結婚後、夫の事業(整体)でマネージメント・経営等を担当するが結婚生活20年で離婚。長い間従事した「からだ系ビジネス」では資格を有しておらず『資格の大切さ』を実感し『人生のやり直し』を決意。
自らの経験を活かした夫婦問題カウンセラーの資格を目指す中「離婚後の女性が自立する難しさ」を目のあたりにする。また自らの財産分与の運用の未熟さの反省もあり研究する中に、FPの仕事と出会う。
『からだと心とお金』の幸せは三つ巴。「もっとやさしく、わかりやすくお金や資産の提案がしたい」という想いから、FPの資格を取得。現在、FP相談・夫婦問題コンサルタント(新宿)「Miwa Harmonic Office」にて相談業務を行う。

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■生まれたときの環境やご両親のことを教えてください。

両親は年齢が11歳差の夫婦で、父はとても自由人でした。子どもはいないけれど一度結婚経験もある人。大正9年生まれで、戦争で満州に行っています。戦争から帰ってきた父はとても家族に大事に大切にされていて甘やかされていたようですが、どこか憎めない人でした。

私が生まれた頃は、東中野で雀荘の経営をしていたみたいです。昭和40年に歌舞伎町に場所を移してお店を始めてからは、朝まで営業していたのでなかなか家に帰ってきませんでした。
私が小学生の頃は、毎週土曜日に父のお店に母と一緒に行って1泊するという、週に1回会えるサイクルでした。
 

■両親の不仲はいつ頃からだったのでしょうか。

とにかくモテる人だったので、私が生まれて生後1週間の時、なんと愛人宅に私を連れて行ったらしいんです。その理由は純粋にあまりにも可愛くて見せたかった、というものだったそうなんですが。(笑) ただ、母はそこにはさすがに怒って「これからは私がこの子を育てます!」と言って、そのあたりから父は家に帰ってこなくなったようです。

それでも仕事をする父を、母は手伝ってはいました。父のお店にも行っていたし、お店にいるときは父も母も優しかったし、父のお友達もみんな優しくしてくれました。高度経済成長期だったからかみんながお小遣いをくれたり、父も日曜日は私の子守りをしてくれていました。私は大人の中で塗り絵をしたり観察したりして、その時間が好きでしたね。その間、母も自分の時間を持てていたはずなので、父は子育てには協力していたのかもしれません。

中学1年になるまではそんな生活が続きました。生活としては派手だったかもしれません。いい洋服を着て、おいしい洋食屋さんにもしょっちゅう連れていってもらったし、移動はタクシーでしたね。

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■その後家族の生活はどうなりましたか。

歌舞伎町のお店がなくなり、原宿に引っ越しました。大家さんからの1年限定、という条件でしたが、その時初めて父と母と私の3人でちゃんと暮らした、それはとても幸せな1年間でした。いわゆる「普通の家庭」に憧れていたんです。

私は15歳の時ですが、そのあと四ツ谷に家族でまた引っ越しましたが、そこで両親が決定的な喧嘩をしたみたいで。ある時から父親が家に帰らなくなり、母も働き始めたんです。
新宿で新しい仕事を始めた父親はお店で寝泊まりしていました。なので、私がいつも会いに行っていました。高校生の頃からは、父のお店の人手が足りない時は、母も姉も私もみんなで手伝いに行っていました。

その頃母には、生活を支えてくれる方がいて、私はその人のことを「お父さん」と呼んでいました。実の父親の呼び名は「パパ」でしたから。
その方は私たちの経済的支援をしてくれて、毎日家に来ていました。最初はいやだったけれど、面倒見てくれていたし、そのうちに受け入れるようになっていきました。100パーセントウェルカム!ということではなかったですけど、反抗も特にしませんでしたね。

■その後、両親の関係はどう変化したのでしょうか。

高校2年生の時に母から「パパと離婚しようと思う」、と聞かされました。
その時は母親の旧姓になるのがいやで、嗚咽するほど泣きました。苗字が変わっても親子でなくなるわけではないけど、なんだか父親と離れてしまう気がしてそれがいやだったんだと思います。自分でもわけがわからないくらい悲しかったのを覚えています。そして母親に、「私はパパのところに行く!」と言って父親の元に行きました。母は悲しい顔をしていましたね。

でも結局父は、母の元に戻るように私に言いました。あの時の感情も言葉に表せないけれど、脱力感にちょっと近かったと思います。だからと言って父を嫌いになったわけではないですよね。そして、結局両親は私の願いを聞き入れてくれて、離婚はしないでいてくれたんです。母は29年間ずっと一緒に暮らしていたし特別な存在ですね。

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■ご自身も離婚されていますが、どういう経緯でしたか。

2013年に離婚し裁判までいきました。子どもはいませんでしたが、会社を経営していたので会社が子どものような存在で、争った時はつらかったです。仕事環境も変えなければならず、そこからカウンセラーの資格をとり、その後ファイナンシャル・プランナーの資格もとりました。人生のどん底でしたが、仕事をするうちに自信を取り戻しました。

■これからのビジョンをお聞かせください。

私は、お金と暮らしと夫婦問題の専門家です。まずお金は、離婚する、しないに限らずとても大切なモノ。暮らしの部分でも、各自治体などの制度をうまく使うことも大切です。そして、人生100年時代と言われている中、終活・相続、これはとても重要なキーワードです。結婚した後のことを含めて豊かな知識の提供をみなさまにしていきたいです。

わたしのモットーは”和睦”。争いを沈めて仲よくなる、ということです。夫婦問題で争った人は相続などその後のことでも争ってしまうケースがあります。

そして、離婚に関する子どもの相談もあるので、私自身も勉強をして、共同養育のことをもっと学びたいですね。私の親戚がアメリカにいて、共同養育の現場をたくさん見てきました。彼らを見ていると本当に楽しそうなんです。当たり前に離婚した子どもが両親それぞれのもとで過ごす姿を見ると、日本でもそうあってほしいな、と思いますし、私と同じ志を持った仲間を増やしたいですね。

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■さいごに、子どもに会えない状況に悩まれている方にメッセージはありますか。

お子さんに会えないことに胸を痛めている方にお伝えしたいのは、(会う)回数じゃない、ということ。父親って特別な存在なんです。むしろ会わない方が、価値が高まることもあります。私は娘の立場でしたが、それは男の子でも一緒だと思います。会えないからこそ濃密な時間を過ごした時に良い思い出が残る。だからこそ、父親の生き様が大切になると思います。

私の父のように、自分のやりたいことをやって自分の人生を生き生きと過ごしている方が子どもには魅力的に映ります。高価なモノを買うとかじゃなく、会った時に元気でいてくれて、父親の価値観でいろいろなことを教えてくれたりする方が子どもにとってはうれしいものです。

大事なのは、自分軸で生きることだと思います。頑張ってもうまくいかない時は、一度すべて手放して、生まれ変わったつもりで新しい人生を生きることがいちばん。子どもにもその子の人生がある、その状況に応じて経験することがあり、そして然るべき時にきっと会えると思います。それまで自分らしく生きることが大切です。

確かに私の父は変わっていたけれど、それが私にはとても魅力的で、父と会う時はどんなボーイフレンドと会うよりドキドキしていました。私はいま、両親におもしろい人生を味わわせてもらったな、と感謝しています。お金で買えない経験をたくさんさせていただきましたから。

企画・取材:一般社団法人りむすび

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