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DV家庭でみられる特徴的な虐待その2-性虐待

 DV家庭で見られるもう一つの重大な虐待は、性虐待です。同じ家庭のなかで、男児へは教育虐待、女児へは性虐待というケースも多いです。性的な支配は、支配の最終形態といえましょう。DV加害者の性虐待は、性的興奮を得るという側面だけでなく、支配欲を満たすという傾向を併せ持ちます。幼少期は性虐待をされていることを自覚できず、可愛がられている、気に入られていると捉えてしまい、発覚が遅れます。理解したら理解したで、恥ずかしさから申告することができません。加害者は、そういうことを分かっていて、加害は長期にわたって繰り返します。また、性虐待は、継父や養父によるもののみでなく、実父によるものも少なくありません。実父だと発覚しにくいため、潜在的にはもっと多いだろうと思います。 

 この国で、子どもは性的な対象とされています。性虐待の裁判に興味本位の傍聴人が湧いてくるため、時間のある弁護士で傍聴席を埋める呼びかけがされることがあります。性虐待の事案は、詳細に報道すれば性的に消費され、伝えなければ事件を誤解されてしまう。これが、ジェンダーギャップ指数120位の国の等身大の実情です。

 以下、具体的な話をするので、フラッシュバックが心配な方はここまでで止めて下さい。(なお、守秘義務に触れないよう事案の特定を避けるため、ディテールは変えています。)

 幼い娘の性器のみをアップで写真撮影したり、お風呂で父親の性器を娘に洗わせたり、父親が娘の口に舌を入れてキスをしたり、父親の性器を娘に頬ずりさせたりすることについて、私は性虐待だと思いますが、横行しています。性行を含むものについては、子どもが言い出せず、長期間継続しています。口止めされている場合もありますし、そもそも何が起こっているのかがわからない場合もあります。父親に気に入られていた子どもが、何でこんなに面会交流を拒むのだろうと不思議に思っていたら、後に性虐待があったことがわかるということもあります。

 にっこり笑って撮影された父親との仲睦まじい恋人同士のような写真。「私がお父さんを傷つけてるんじゃないか」と悩む日記。「娘は楽しそうにしていた」、「娘から誘ってきた」と言い訳する加害者。そんな鬼畜みたいなことが、普通に、誰にも気付かれずに起こっています。各地のフラワーデモでも、父親化の性虐待を話す人は決して少なくありません。

 性交を含む性虐待が発覚している面会交流事件で、調査官から、「直接面会できないのは無理からぬことだと思います。間接交流から始めてみるのはどうでしょう?」、「虐待があったからこそ離婚後に修復できたら子どもの力になると思うのです」と言われた時に、この国の司法は面会交流宗教に取り憑かれてるということを思い知り、絶望しました。その調査官は、真面目で実力のある調査官です。「どんな親でも親は親」、「両親に愛されることが子どもの幸せ」という言葉は、それに当てはまらない親を擁護する加害の言葉だと私は思います。離婚後の子どもの最善の利益のために誰がどの程度監護養育に関わるかは、「メンバーによる」と言いたいです。関係が悪化している家族関係を修復するメリットがあるのは加害者だけです。

 お風呂で陰茎を5歳の娘に洗わせていたという事案の審判で、裁判官が「その時、お子さんは嫌がってたのですか?」と質問したり、相手方代理人が「冗談でやっており、娘も喜んでいた」と主張することがあります。そんなことがあっても、幼い子どもは父を慕います。こうした事案では、面会交流が認められています。何の問題もなく。それが家裁の実務です。

 他方で、父子の仲が良かったのに、別居後に面会交流を拒むようになると、監護親が悪口を吹き込んでいるなどと言われます。しかし、同居中には加害者からの抑圧で言い出せなかった苦しさを、別居後しばらくしてからようやくポツリポツリ話し始める子どもの心理は誰が守りますか?

 どうしてこの子は、こんなに拒否感が強いのだろう。外出するにも怯えて、小学生にもなるのに母親から離れることができず、登校をしぶるようになり、心療内科に通うようになり半年後、「お風呂で股の部分を開かされたり、父親の股間が顔の近くに寄ってくるのが嫌だった。」と話し始めました。その子どもは調査官にも頑張って話したけれど、調査報告書には一行「お風呂に一緒に入るのも嫌だった」と記載されただけでした。調査官はこう言いました。「見ていたわけではありませんから」。そして、「どんな父親でも、お父さんはお父さん。両親が仲良く、愛されるほうが子どもにとって幸せです」。

 フラワーデモのきっかけともなった、実父による性虐待が無罪となった名古屋地方裁判所岡崎支部の事件の控訴審で、名古屋高等裁判所が逆転有罪としたときに、被害者のコメントを引用します。「今日、ここにつながるまでに、私は多くの傷つき体験を味わいました。信じてもらえないつらさです。子どもの訴えに静かに、真剣に耳を傾けてください。そうでないと、頑張って一歩踏み出しても、意味がなくなってしまいます。子どもの無力感をどうか救ってください。私の経験した、信じてもらえないつらさを、これから救いを求めてくる子どもたちにはどうか味わってほしくありません。」

 お風呂場で嫌なことをされたという申告をきいて、真実が分からないという裁判所。しかし、主治医は、「やっとここまで言えたのかもしれない。もっと重大な被害があるかもしれない。症状が重すぎる」と指摘しました。そして、このことが発覚しなければ、私は子どもに面会を頑張ろうと明るく励ましていた可能性がありますが、これは加害行為にほかなりません。

  大人は、子どもの拒否感にもっと耳を傾けるべきだと思います。片親疎外の考え方は、子どもの訴えを軽視する理論です。そして、親に会いたいと述べた子どもには、「本当なの?遠慮してない?」などという確認は決してされません。片面的に偏った調査を支えているのが、「離婚後の別居親との交流は子どもにとって良いことだ」という理念です。でも、それは、やっぱり。「メンバーによる」んじゃないかな。皆さんは、どうお考えになりますか。お読みいただいてありがとうございました。 以上

(kana)

*本稿は、執筆者が別のブログで発信したものを修正のうえ転載しました。 

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