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批評②『福島三部作』2019.8~あなたの気持ちはわからない

 3.11、及び再び起きた強い地震に触発され、原発のことが頭を回る。なので、過去のことだが、チラシや日記,、後から買った戯曲集などの記録を頼りに、

 谷賢一(DULL-COLORED POP)作・演出『福島三部作』のことを書く。
 第64回岸田國士戯曲賞受賞。第二部「1986年:メビウスの輪」が第23回鶴屋南北戯曲賞受賞。
 自分が観たのは2019年8月25日(日)。池袋の芸術劇場シアターイーストにて。第一部を13時から、第二部を16時から、第三部を19時から、間に休憩を入れながら通しで見た。上演時間の計は6時間くらいか。通しチケット1万円。
 同じ年上演のギリシャ悲劇『グリークス』10時間上演に比べれば短いが(私は観ていない)、へとへとになった。が、観た甲斐はあったと思う。
 上演後、谷氏と、長塚圭史氏のアフタートークあり。

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 谷氏は、お母さんが福島出身で、お父さんが原発に出入りしていた技術者という。その使命感から、ち密な取材を重ね、第一部をいわきで2018年に初演した。

リスクを負っても経済を回し、町を存続させる選択

 第一部「1961年:夜に昇る太陽」
 挿入音楽『上を向いて歩こう』。“何もない”田舎に、原発誘致の人々がやってくる。「原発は希望の光だ」という台詞は、「その後」を知っているゆえの胸への刺さり方だが、「その後」が異なるものであったら、どう胸に刺さったのだろう。
 
今だから、後だしジャンケンで批判するのは簡単だが。

 リスクを負っても経済を回し、町を存続させる選択。
 今、コロナ禍で、
 リスクを負っても経済を回し、国を存続させる選択。
 それを後から批判するのは簡単だが。

 故郷、土地が描かれていた。人形。子ども。

  『戯曲集 福島三部作』(而立=じりつ=書房)より一部抜粋
先生「候補地は他にもあるんです。双葉が無理なら大熊の土地を多く買います。それも無理なら東北を離れて、上越や北陸を考えてもいい」
田中「待ってくんちょ。そんな、よそさ行かれたんじゃ元も子もねえ」
田中「土地を手放すだけでねえか」「あんたがうんと言わねば、この話がまるごと消し飛ぶんだぞ」
「これは町全体の、幸せのためなんです。原子力発電所は、この町の希望なんですから」
先生「それとも一万分の一の可能性に怯えて、町と科学の発展を諦めるか」
先生「広島を知っている私が言うのです。原発は安全です。原爆とは違う」
正「おめは、反対しねがった。おめは、反対、しねがったんだ」

 立地自治体ではないが、事故後に放射能を含む風が吹いてきた、飯館村をも思う。

ねじれていく人間とは、己か

 第二部「1986年:メビウスの輪」第23回鶴屋南北戯曲賞受賞
 通し上演を観るだけで既に身体が疲れ始めていて、途中で落ちかける。

 第一部と第三部はまさしく福島、フクシマの話として迫ってくるが、この第二部は人間を見ている思いがした。ねじれていく。
 「原発は本当に安全なのか」と質問する側に立っていたはずの原発反対派のリーダーが、町長になり、「本当に安全なのか」と質問「される」側に回ると、立場上「安全です!」と答えるしかない。「日本の原発は安全です!」を連呼する。
 そこまでの経緯と心情の変化を丁寧に台詞で表現していく、うつらうつらしている観劇中の自分にも、目の前の役者の中の自我が悲鳴を上げながら変化していく、ねじれていくのが見えるように感じた。
 己を、周囲の人を見ているようだった。
 犬に語らせた演出の妙。

 『戯曲集 福島三部作』(而立書房)より一部抜粋
吉岡「原発反対の旗だけおろして、選挙に出なさい」「今まで通り、原発は危険だと言い続けてください」「原発の危険は訴えるが、原発には賛成する」「今、双葉町は危機にあります。原発の建設が終わっちまった!」「上手に政府や東電を突き上げて、補助金を出させる。寄付金を寄越させる」「それが一番得意なのは誰か。(略)元原発反対派のリーダーである、あんたじゃねえですか」
 (チェルノブイリ事故の後)
徳田「日本の原発は安全です」「日本人が運転しているからです」「だってうち、東電ですよ?」
吉岡「(原発を)止めたとして。……理由はどう説明しましょう?」「なら何故、今まで止めなかったんです?」「事故の可能性を知りながら、見過ごしていたというわけですか?  町長でありながら?」「んじゃ考えんな」「日本の原発は、結局のところ、どうなんです?」
丸岡「……忠くん! 頑張れ!」「男らしく、言ってみろ!」
忠「日本は……」「日本の原発は……」「日本の原発は……」「日本の原発は、安全です!」

 やはり、今見直しても、ここのねじれていくところは、他人事ではなく、今日でも明日でも自分に起こり得ること、いや、既に起こってしまっているかもしれないこととして、受け止めてしまう。

メディアとは、言葉とは、語るとは 

 第三部「2011年:語られたがる太陽たち」
 
通し上演の3つ目でこの辺は既にへろへろ、記憶も飛び飛び。また、3.11後の多くの報道を思い出し、第一部、第二部に比べてどこかでデジャブ(既視感)もあり、やや冷めた目で見ていた記憶。
 メディアの話があった。いじめ。

 『戯曲集 福島三部作』(而立書房)より一部抜粋
真理「『俺は語らねえ』『線量高ーい!』『私は子どもが産めるのでしょうか』『おめが放射能被害を広めてんだ』『おい放射能』 こんなものが本当に、彼らの語りたいことでしょうか。本当の声は、まだ他にあるんじゃないでしょうか。時間はかかるかもしれませんが、それを掘り当てることこそが、報道の使命なんじゃないでしょうか」
黒い人「被曝者は福島に帰れ。被曝者は福島か、広島・長崎から出てくんな」「お前らのせいで俺たちは酷い目にあってんだ。お前らが原発なんか作ったから」
荒島「……話したくてたまらなくなったんです。聞いてほしくて、どうしようもなくなっちまったんです。俺の妻のこと、津波に流された、妻と娘のこと。すみません。聞いてください」

 メディアは、言葉と映像を切り取る。それは宿命だ。それを受け取る側が、それを知ったうえで受け止めなければ、違う風に伝わる。そこのところを十分に理解したうえで、丁寧に戯曲を紡いだと思う。

他人になって言葉を発する、それを観る

 上演後、長塚圭史氏(劇作家、演出家、俳優。阿佐ヶ谷スパイダース主宰。女優・常盤貴子の夫。俳優・長塚京三の息子。2021年4月から任期5年でKAAT神奈川芸術劇場の芸術監督)と谷氏のアフタートーク。以下、自分の日記を参照。
 長塚氏は第三部が強烈と言っていた。しかし、同時に、第一部冒頭の「あなたの気持ちはわからない」に集約される、とも。さすが、言葉を操る人、言葉の力に敏感である、とその時感じた。
 長塚氏「どの役も、その人の状態になって物事を見つめる、他人事になっている体験の仕方やわからないことに入り込んで言葉を発し、上演してみる、そこに演劇の一つの価値がある」

 そう、言葉。
 言葉を通し、言葉を発し、言葉を発した他人を見ながら、他人を体験する
 福島について、都内在住の自分はつい他人事のように思いがちだが、他人の気持ちはわからないが、自分はいつそんな他人になるかわからない、いや既に他人かもしれない、そんなことを、紡がれた言葉を通し、改めて思い起こさせる芝居であった。

 「批」が入ってませんな、えーと、へとへとでした。。福島で観たらどうだったんだろう。
 ※ちなみに、谷氏の作品を観たのはこの時が初めてで、その後、別の場所で本にサインをもらい、腰の低い人だな~と思い、また別の場所で別の芝居を観たが、普通の人っぽい芝居だった。それでいいのだ、芝居は。

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