演劇のアマプロを考える~技量の判定とレッスンプロ

 夏がゆき、「甲子園から」の枕詞がとれる季節となった。

 先に、前に書いたかもしれない、あるエピソードを挙げておく。

アマの世界でこそ、純粋に演技の技量を試せるのかも

 後述する「レッスンプロ」としての俳優に、ワークショップ(WS)を何度か受けたりしている。そして、ある程度お互いのことがわかり始めた段階で、全く別々の時に、全く別々の中高年俳優(有名劇団と別の中堅劇団)が「皆さんみたいなアマチュアで、本業の合間に芝居やってきた方がよかったのかもしれない」と、似たような言葉を口にし、ぼやいた。

 もちろん、一瞬の言葉であり、目の前にいるアマへのちょっとした迎合、へつらいかもしれないし、自分のプロとしての余裕があるからこその言葉かもしれない、本心ではない可能性も高いだろう。

 ただ、そこから何となく頭に浮かんだ。
 純粋に演技の技量を上げたい、上手くなりたい、はアマの世界でこそ、挑めるのではないか。
 演技の「プロ」とは、技量(だけ)ではない世界のせめぎ合いの方が、「仕事」の多数を占めているのではないか。
 
そもそも、プロ俳優とはプロと自称すればプロ、とも言われる世界ではあるが。

 まあ、なんでもそうで「好きなことは仕事にしない方がいい」の話、と言えばそこで終わってしまうのだがww
 演技は、プロだろうかアマだろうが、特に「楽しんでいない」と客に見破られれば終わりという類だ。仕事とは楽しくない段階を経るもの。さて、その兼ね合いは、など。

 そこへ行きつくための考察を、つらつらしてみる。

スポンサーでもあるアマを敬遠させる“経験者”の閉じた世界

 芸能(主に演劇、舞台)とスポーツの違いを考えてきた。

  甲子園ネタから考える演劇のアマプロ①~芸能とスポーツの共通項
 では、以下を主な共通項として挙げた。
「不要不急」の世界を「真剣に遊ぶ」
・プロ役者はアスリート(まずは体力)
・メンバーが息を合わせた集団活動を客に見せる(魅せる)
・学業成績の優先順位は低い
・一握りの「有名な成功者」はメディアに曝される

 なぜ、考えてきたかというと、長年社会人だった自分が(その間演劇経験無し)アマとして演劇に関わろうとした時、“経験者”からマウンティングをされるように感じ、実際に睨みつけられることが多々あったからだ。

 自分に少々「問題」があるとは自省しておく。スポーツも含めたいわゆる「習い事」「おけいこ事」(=お遊びでなく真剣に取り組むが、多くはプロを目指すわけではないというレベル、でおけいこ事としておく)の世界では「上下の別」「先輩が偉い」が当たり前なのかもしれず、「先輩」にちょくちょくモノ言うのは許されないのだ、おそらく。もとい、体育会系の世界と言われる。

 ただ、こちらはアマだ。演劇
(ダンスなど含めた舞台芸術系)の世界におけるアマは、その多くが同時に観劇者で、小口ながらもチケット料金を払って関係者の公演を観てくれるスポンサーである。
 
なので、“経験者”から睨みつけながら、観劇の案内をもらい、付き合い上、金を払って観にいって「よかったです~」と口にせねばならないのは苦痛でしかない。その閉じた世界を嫌いになり、足を遠ざけさせる要因だ。なので、生意気な私のこの生意気な思いは、演劇の世界がこのままの体質でいいか、を考えるヒントにはなろう、と生意気に思う。

演劇(演技)は誰でもできる

 そして、演劇、演技は誰でもできる。
 日常の人間関係が演技だ。無意識に、自分で作・演出・主演をこなし、生きている
 それをあえて意識し、主に他人が書いた(自作の場合もある)他人の生きざまを演じて、他人様に意識的に見せる、にアレンジする。それですら、上手い下手を除けば、誰でもできる。自分は役者と自称した瞬間に役者だ

演技は、技量の「差」や「基準」が明確でない

 この点、初心者の段階である程度の技量が求められ、「差」が明確になるスポーツと異なる。幼少の時分から、運動神経の有る無し(=運動に向いているかどうか)は、傍目にも明確だ。この中で、陸上競技の「走る」系は、障害を抱えない人であれば、速さや距離を無視すれば「誰でもできる」とも言えるか。
 さらに、武道の「段」や華道の免状、音楽のコンクール受賞歴などは、プロに至らない段階でも、技量をある程度客観的に評価・断定する基準と言える。演劇だと、作家や演出家はコンクール受賞などの道もあるが、有名人でないレベルで、個人の演技が評価されるモノはかなり少ない(読売や紀伊国屋、ギャラクシーなど個人演劇賞は周囲も「プロ」と認める有名人レベルで、「人気」も加味されていよう)。

演技の技量を測る要素は多く、一部「逆転」も珍しくない

 演技の技量を測る要素は、滑舌・声量、身体表現、台詞回し、所作(立ち居振る舞い)、歌唱力、美醜・スタイル(技量のうちか)、観ている人を世界に引き込むか・オーラがあるか(なんと主観的な)、客を呼べるか(……)、体力が持つかww、演出家らとの人間関係(ww?)、場慣れ(www)、などなど多岐にわたる(そもそも人生が演技の連続だから、当たり前だが)

 なので、目の前の“経験者”が「上手いのか」、正直よくわからない、判断できない、ということが、ちょくちょく起こる。多分、自分より上手いのだろうけど。ただ、演技の技量を測る要素は上に挙げたように多岐にわたるため、そのうちのひとつふたつは、初心者が“経験者”より上手い、逆転現象も容易に起こり得る。
 
(勿論、総合的には「場慣れ」「年月経験の差」はあるはずだが、それだと「長年続ければいいのか、上手くなるのか」(実際には若い時分に鍛錬を始めないと上達が遅く、そうはいかない)となる。では、何が違うか、というと、もはや目の前の技量云々を離れ、「実績」そして「人脈」「営業力」ということになりそうだ)

「レッスンプロ」としての“経験者”は先生として一線画す

 さて、アマの前に現れ、実際に接する“経験者”には、大きく分けて二通りある。遠く仰ぎ見る有名人はこの場合、別もの。

 ひとつは、「レッスンプロ」としての“経験者”
 有名劇団から無名劇団まで、また俳優(有名から無名まで)個人、演出家らが、都内だと、そこここで「演劇WS」を開いている。世間的にプロと認められる人でも、その瞬間はレッスンプロだ。発表会があるものもある。場所が確保でき、PRして客が来れば開催できる。
 なぜ開催するか、の理由だが、どこでも掲げている「演技の楽しさを知ってもらいたい」はもちろんあるとして、資金稼ぎ、自分の劇団公演PR(ファンになってもらい、有料観客リピーターへ)、若手劇団員確保や近々公演作品への男優リクルート(男性は貴重)などもあろう。また、学校教育の一環として学校などへの出張WSも最近は多い。
 ある地方の人が、自分のところの若手俳優が学校WSへ行き「教えることで自分自身の存在意義の再発見をした」と言っていた、と俳優自身へのフィードバック効果も語っていた。演技が教えられるものかどうかはさておき、俳優自身の勉強、成長にもつながるのだろう。
 
 この種のWSにはいくつか参加したが(民間)、プロの道も探りたい若者∔アマ対象と、ほぼ完全アマ対象の場合でやや対応が異なるか。
 前者の場合、「過去の自分の出演実績(主に映像)」を強調し、有力者や有力事務所、オーディションへの道の可能性の話が出る。当然と言えば当然だが。そうそう、講師が「テレビに出ていた人」系で、売りも全く異なる。「売り込めるかどうか」を考えている若者たち、やや興奮の匂い。
 一方、後者のアマ対象のWSだと、講師は、ことさら、自分の実績を強調することもなく比較的冷静に構えているように感じる。謝礼のやりとりを通して一定の時間・空間の契約が成立し、プロはお金をもらってそれなりの「技術」を伝授し、アマは、「お客さん」「生徒」の立場を意識する
 伝統的なおけいこ事だとありそうな「師匠に服従」も、現代演劇のWSではそこまでないだろう。ただ、「発表会」に向けた配役を巡っては、演出家なり主宰者との人間関係が内部で取りざたされたりする。

 ただ、技量の上手い下手の客観的基準が明確でない演技の世界とは言え、レッスンプロは「先生」、一方はお客さんとはいえ「生徒」と一線を画し、それなりの落ち着いた感覚でいられる。
 (お客さんは、その後の公演のチケットを買ってくれるお客さんにもなりうる)

「お客さん」「生徒」に混じる“経験者”の動向は

 さて、もうひとつの“経験者”。これは前にも書いたと思うが、その「お客さん」「生徒」に混じる“経験者”だ。
 自他ともに認める有名人でなく、(とりあえず)レッスンプロでもない“経験者”、この層はかなり厚く、演劇界そのものを体現しているのではないかと思われる。この層の動向が、アマと演劇の距離を近づけることもあれば、遠ざけることもある。
 この考察は、可能であれば次回以降に回す。

 

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