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アニメ版『チェンソーマン』が「邦画っぽい」と言われてしまう構成上の理由

アニメ版『チェンソーマン』は十分に良作といえる水準の作品であったにもかかわらず、特に原作ファンからの評価が辛く、「勢いが足りない」「単調」「邦画っぽい」などと評する声が少なからず聞かれました。

私も原作を先に読んでいたのですが、両者を比較すると、緩急を自在にコントロールしている原作のストーリー展開に対し、アニメ版はどこか一本調子で散漫な印象を受けました。
実際にはアニメ版のストーリー展開は原作の流れを忠実になぞっているので、両者の印象の違いには不思議な驚きがあります。

また『チェンソーマン』原作からは洋画、それもハリウッド製の娯楽映画に近い雰囲気を感じるところもあったので、アニメ版が「邦画っぽい」という印象を視聴者に抱かせていることもなかなか興味深いところです。

このアニメ版の「邦画っぽさ」がどこから来ているのか、シリーズ構成の面から分析できるのではないかと思い、素人ながら私見をまとめてみました。

『チェンソーマン』原作1~38話と、アニメ版のネタバレを含んでおりますのでご注意ください。

※この記事の内容は、以前Twitterで書いた内容を加筆修正して編集したものとなっています。

原作とアニメ版、構成の比較

まずは『チェンソーマン』原作(1話~38話)とアニメ版(全12話)、それぞれのストーリー構成の全体像を見てみましょう。
(画像の文字が小さくて申し訳ありません)

原作 丸数字が話数
アニメ版 #付きの数字が放映話 対応する原作話をカッコ内に丸数字で表記

全体をざっくりと三幕に分けたうえで、第二幕を前半と後半に切り分けてみました。
この二つを比較してまず思うのは、やはりアニメ版は原作のエピソードの流れを忠実に踏襲しているということです。
大きく異なる点といえば、アニメ版で筋肉の悪魔の登場シーンがカットされたことぐらいで、細かいアニメオリジナルの追加シーンはどれもストーリー全体の流れにはほぼ影響がないと言えるでしょう。

ではアニメ版にはなぜ、『チェンソーマン』原作にはあまり感じられなかった「邦画っぽさ」が生じてしまっているのでしょうか。
私が考えるアニメ版のストーリー構成上の問題点は、大きく3つあります。

  • 「ヤマ」の消失

  • 第三幕のスタートタイミング

  • 終盤の「アキラッシュ」

これらの問題点について理解するためにはまず、アニメ放映分にあたる原作のストーリー構造を把握する必要があります。

少し長くなってしまいますが、お付き合いください。

原作『チェンソーマン』(1~38話)のストーリー構造

「家」を獲得する物語

原作『チェンソーマン』1~38話を一言でまとめてしまえば、
主人公デンジが「暗い家」を捨て「明るい家」を獲得する物語
とすることができます。

このことは原作第1話と第38話のそれぞれに描かれている「眠るデンジ」のコマが象徴的になっています。

第1話
第38話

第1話では、暗い物置のような小屋で、孤独な上に空腹で、身体のあちこちの機能を欠損したデンジが、ポチタだけを抱えて眠ろうとしている。
一方の第38話では、その全ての要素・・・・・が反転した状態になっているのが容易に見て取れます。

こうした反転が、主人公デンジの獲得した全てを端的に表していると言えるでしょう。

デンジの「神」としてのマキマ

デンジがこの「暗い家」を捨てる最初の契機となるのは、もちろんポチタと融合したことです。
しかしそれが夢想のままで終わらず具現化されることになるのは、デンジがマキマと出会ったことによります。

マキマはデンジを外の世界に連れ出し、彼に食事を与え、後に家族となる仲間たちに引き合わせることになる。
「明るい家」は名義上では早川アキのものではありますが、物語の装置としては全てがデンジのために用意された、家族込みでの「家」です。

デンジを「暗い家」から連れ出したのも、「明るい家」に属する全てを与えることになるのも、いずれもマキマの手によるものです。
ゆえに物語上でマキマはデンジにとっての「神」に等しい存在であり、崇拝と忠誠の対象となります。(デンジはこの感情を「恋」、または「愛」として認識している)
ちなみにこのデンジのマキマに対する感情は原作38話以降、特に第一部終盤において物語の重要な背景として機能しています。

第二幕において主人公デンジに課される責務

「暗い家」から出発して「明るい家」に至るのが『チェンソーマン』原作38話までのデンジの「旅路」であるわけですが、それを「旅」たらしめるためには何らかの旅程、つまり経由地、紆余曲折が必要になります。

それが主に第二幕で展開される、デンジの公安対魔特異4課隊員としての仕事、つまりは「デビルハンター」としての悪魔狩りです。

デンジのこの仕事は一般人のそれとはまったく事情が異なり、業務の手順を徐々に覚えていったり失敗を繰り返しつつ成長していくということが禁じられています。

マキマの口から語られる失敗時のリスク

デンジが「明るい家」を獲得するためには、デビルハンターとして成果を挙げ続けることが必須条件であり、失敗したときのリスクは自身の生命です。

このように主人公の状況を追い込み、成功報酬と失敗のリスクを明示しておく創作上の手法は英語圏で「ステーク」(stake、賭け金)と呼ばれており、作中の緊張感を維持するための常套手段とされています。

物語上でデンジは常に勝利し続けることが義務づけられ、実際に勝利し続けることで読者には爽快感が与えられます。
また、逆に勝利が脅かされるストーリー展開となればそこには葛藤が生じ、物語がよりドラマチックになっていくというわけです。

ミッドポイント:物語の攻守が切り替わる瞬間

現代ハリウッド映画において金科玉条とされている構成法が三幕構成ですが、これは物語を単純に三幕に分割するというだけのものではなく、第二幕の中央部分に「ミッドポイント」と呼ばれる重大イベントを設置することが大きな特徴となっています。

そしてハリウッド製の大多数の商業映画では、物語前半に「お楽しみ」、つまりその作品の「ウリ」を配置して観客を楽しませ、ミッドポイント以後は一気に緊張感を高めて物語を収束させる、という作劇が行われています。

『チェンソーマン』原作38話までの物語においても、おそらく作者が意識的に作り上げたものだと思われますが、同様の構造が見られます。

原作38話までを一連の物語とすると、そのミッドポイントは新人歓迎会、特に「ゲロキス」の場面に設定されていると考えていいでしょう。

「ゲロキス」以前のデンジは小さな敗北(対「ヒルの悪魔」戦)や小さな失望(女性の胸を揉む)を経験してはいますが、総合的には勝利を続けています。
ところがこの新人歓迎会の後からは、まずサムライソードと沢渡アカネのコンビによって個人としては完全に敗北し、さらにその後は岸辺の指導によって繰り返し殺され続け、公安からの逃亡もまた不可能であることを思い知らされることになります。

「ゲロキス」はデンジの価値観を内面から劇的に揺さぶる出来事であり、マキマへの忠誠心をより強固に、よりプラトニックなものへと変化させています。

また、この「ゲロキス」を越えた翌朝にデンジは姫野と友人になる約束をし、人間関係にも微妙な変化が訪れます。
この変化が姫野の死をより劇的にし、その後の「泣けない自分」を冷淡に見つめるデンジの主人公としての特異さを際立たせる効果もあります。

第二幕終盤のデンジははっきりと自分の「家」と命を天秤に掛けた戦いを意識するようになり、飛躍的に緊張感の高まった物語は第三幕で一気に収束へと向かうことになります。

岸辺に「家」を「襲撃」される直前のデンジの台詞

原作1~38話のほぼ中間点である19話から始まる新人歓迎会、特に外面と内面の様々な葛藤が交錯する「ゲロキス」の場面が、物語の攻守が切り替わりデンジが敗北に脅かされるようになる契機、つまりミッドポイントであると言えるでしょう。

このように物語の構造を把握すると、原作ファンの間で「永久機関の完成」というシーンがなぜ大きな人気を博していたのか、そしてアニメ版の同シーンがなぜ大きな失望を招くことになってしまったのか、その理由が理解できるようになります。

物語前半最後の見せ場:「永久機関の完成」

「永遠の悪魔」と対決し勝利するのが、「永久機関の完成」の場面です。
この物語前半最後の見せ場は、デンジが連戦連勝、向かうところ敵なし状態である最後の瞬間でもあります。

「永遠の悪魔」は弱点を晒しさえしなければ事実上の不死身であり、本来ならばデビルハンターたちには勝ち目のなかった相手です。
それをデンジは、敵の血を飲んで回復、攻撃を延々と続けることで敵を精神的に追い詰め、最終的に屈服させるという、登場人物たちにも読者にも予想外だった勝ち方を成し遂げてみせます。

このときの読者はデンジの頭上にいる姫野の視点にも感情移入し、「この頭のネジがぶっ飛んだ男なら……」という思いを共有して、最大の爽快感に浸ることができます。

「永久機関の完成」はデンジが物語の中で極める頂点であり、同時に物語の「甘い」前半部分の締めとなる大きなイベントでもあるのです。

物語を登山に例えるなら、まさに山頂に登りつめたその瞬間ということになるでしょう。
そしてその後に展開される「新人歓迎会」は、物語を下山させる前の、山頂での一時の休息にあたります。

「ゲロキス」から先、デンジの勝利は裏返っていき、物語は収束に向かって一直線です。

アニメ版の構成上の問題点①:「ヤマ」の消失

アニメ版のストーリー構成にどのような問題があったか、それは「永久機関の完成」という前半最大の山場と、ミッドポイントとしての「ゲロキス」、その両者の重要性を軽視してしまったことです。

アニメ版では「永久機関の完成」の直前、デンジが永遠の悪魔の口へと身を投げるシーンで第6話を終了しているので、まるで山頂を目の前にした残り50メートル地点で休憩を入れてしまったような状況です。

アニメ版第6話のラストシーン

間を空けてしまったために視聴者の興奮は落ち着き、再開後の第7話前半で「永久機関の完成」を迎えても、その爽快感は半減しています。

さらにまずいのが第7話には「新人歓迎会」がほぼ丸ごと盛り込まれているため、エピソードが渋滞して「永久機関の完成」と「ゲロキス」が互いのインパクトを消し合っています。

方向性の違う大きなイベントが同居している第7話

つまりアニメ版では第二幕前半最後のイベントとミッドポイントを軽視して一つの放映話に詰め込んでしまったため、まさに「ヤマ」が消失してしまった状態です。

「ヤマ」の消失は、三幕構成、特にミッドポイントを軽視しがちな邦画にはよく発生している問題です。

アニメ版の構成上の問題点②:第三幕のスタートタイミング

そしてミッドポイントの軽視と同根の問題として、第三幕のスタートタイミングのまずさがアニメ版にはありました。

三幕構成の第二幕終盤では、「全てを失う」シークエンス(フォール、オール・イズ・ロストとも呼ばれる)が展開されることが一般的です。

一般的な三幕構成における「全てを失う」シークエンスの位置

『チェンソーマン』もこの例外ではなく、デンジはサムライソードに手ひどく敗北し、アキは無為に寿命を縮め、姫野をはじめとする4課メンバーの大半が殉職しています。

このような落ち込みから主人公サイドは反撃の芽を発見して育て、第三幕で一気に開花させるというのが物語構成の「王道」です。

『チェンソーマン』原作では、岸辺によるデンジとパワーへの指導、アキの未来の悪魔との契約、マキマによるヤクザへの工作などが反撃の芽として描かれましたが、第三幕の開始時にはさらに強い力で物語を前進させていました。

それが第34話の冒頭での新規キャラの一斉登場です。
サメの魔人、暴力の魔人、蜘蛛の悪魔、天使の悪魔、一気に4人ものキャラを新規に投入するというのはかなり強引な手法ですが、読者を驚かせる効果は非常に高いものがあります。

第34話の冒頭と第三幕の開始がぴったりと重ねられているため、誰が見ても、ここから反撃開始だ! となる、とても明快な構成です。

ところがアニメ版では、この新キャラたちの登場は第11話の中盤過ぎに配置されています。

アニメ版第11話

これでは第三幕の開始を視聴者がはっきりと認識することが難しく、なんとなく反撃が始まってしまった感が否めない。

アキが未来の悪魔と契約するシークエンスやマキマがヤクザを脅す場面は、どうにかして第10話に収めておくべきだったと考えられます。
そうなれば視聴者は第10話と第11話のインターバルで作品世界と同じ「決戦前夜」のような雰囲気を体験でき、第三幕への期待を高めていたはずです。

シリーズ形式の物語において放映話の途中で幕を切り替えるのは、やはりメリハリ、山と谷を明確にするという面で大きなハンデとなっていたと思われます。

アニメ版の構成上の問題点③:終盤の「アキラッシュ」

そして最後の問題点として、おそらくこれは制作陣からすればある程度意図されたものなのでしょうが、終盤にアキの視点を必要以上に強調し続けたことが挙げられます。
これにより、ストーリーを収束させるべき終盤で焦点がどこかにズレてしまった印象が強まりました。

『チェンソーマン』はあくまでデンジが主人公として中心にいる物語であり、その存在意義を視聴者に見失わせてしまってはいけません。

アキはたしかに姫野が言うように、かっこよく、真面目で優しく、等身大の人間の魅力を持った重要なキャラクターです。
しかし、残念ながら主人公ではない。

原作でのアキの物語上での役割は、主人公デンジの鏡像であり、影であり、安全装置です。
(同時に家族として、デンジが獲得するべき「トロフィー」の役割も果たしている)

アキは常にデンジと対比的に描かれ、デンジが一般人的な思考からいかに抜け出さなければならないのか、一歩判断を誤れば何が起こりうるのか、そうしたものを「サンプル」として提供することになる損な役回りです。
そして同時に、この悲劇性こそがアキをキャラクターとして輝かせ、読者や視聴者に対して魅力的な人物にしているのです。

アニメ版では、第10話のオープニングとラスト、第11話のオープニングとラスト、第12話のオープニングと、5回連続(エピローグでのアニメオリジナルの描写を含めれば6回連続とも言える)でアキの視点から物語の要諦を構成しており、完全にデンジとの主客が転倒しています。

第10話の冒頭も入院中のアキの描写であるため、アキ視点が終盤の要所を占める

アキの心理描写を行うこと自体が悪いのではなく、あくまでデンジとの比重が問題なのです。
終盤で挿入されるアキの悲劇性も岸辺の哀感も、すべてデンジがどのようなキャラクターであり、どのような物語性をもっているかを描くために必要な描写でした。

繰り返しますが、アキは優れたキャラクターであり、ことによるとデンジよりも一般人的な共感を得やすい性質をもっているかもしれません。
しかしストーリー構造の解説で述べたように、原作『チェンソーマン』38話までは「デンジが『家』を獲得する物語」であり、中心にいるべきはデンジなのです。
ここがブレてしまうと、物語は散漫になります。

アキを主人公に格上げしたかったのなら、原作のエピソード展開の順序や描写の仕方からは思いきって離れる必要があったことでしょう。

まとめ

以上3点、『チェンソーマン』アニメ版のシリーズ構成における問題点でした。

要約してしまえば、

  • 山場がはっきりしていない

  • 主人公の存在感が弱い

ということになります。

このような問題は邦画に限ったものではまったくないのですが、日本人がそのような問題を抱えた作品に遭遇するのは、当然ながら国産映画のほうが機会が多くなります。
盛り上がりどころのはっきりしない洋画は、そもそも輸入されるまでに至らないからです。

商業的に成功する洋画は、かなり地味な作品であったとしても、三幕構成にきっちりと則っているものが大半です。(脱三幕構成に挑戦するような作品は、商業ベースに乗せることが困難と判断されて製作されにくい)

したがって、もし『チェンソーマン』アニメ版の制作陣が「ハリウッドっぽさ」「洋画っぽさ」「王道感」を前面に出したかったのなら、もっとゴリゴリの三幕構成に乗せてしまうのが手っ取り早い方法だったのに、というのが個人的な感想です。

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