宇宙探索編集部
(Vtuber の台本)
字幕:映画の感想
字幕:宇宙探索編集部
今日も優しく、うそを語ろう。
こんばんは、京モウソヲ潟郎です。
一週間ほど前の話になりますが、「宇宙探索編集部」という映画を観ました。
ちょっと、というか、かなり遠い場所にある単館上映アート系の映画館に行きました。
久しぶりの独立系映画館。
全体の雰囲気は、まさに昭和の映画館といった感じです。
観客は、僕の他に中年の女性が1人。
「ノスタルジー」って、不思議な感覚ですよね。
甘美な魅力と同時に、なんか怖い感じもある。
「いつまでも此処に居たい」という思いと、「いつまでも此処に居ちゃ駄目だ」という焦燥感が同時に沸いて来て、せめぎ合うんですよ。
最近、僕は、映画が終わって客席が明るくなった時のお客さん達の雰囲気を、注意して感じ取るようにしています。
ただし今回は、観客が僕と女性の2人だけでしたし、そのもう1人のお客さんは離れた場所に座っていて、映画が終わると直ぐに劇場から出て行ってしまったので、「映画終了後の客席の雰囲気を味わう」っていうシチュエーションじゃありませんでした。ちょっと残念。
さて、それではネタバレ有りで「宇宙探索編集部」の感想を語っていきましょう。
字幕:ネタバレ注意!!!
(少し、間を空ける)
僕の感想をひとことで言うと「まあまあ良かった」という感じです。
いわゆるフェイク・ドキュメンタリー映画です。
誤解を恐れずに例えるなら、白石晃士の映画からホラー要素を取り去って、「未知との遭遇」要素を入れ込んで、ヒューマン・ドラマに仕立てたような作品です。
中だるみは感じましたけど、ラストが良かったので、最終的には好印象を持って観終えることが出来ました。
「ジャンプ・カット」というのでしょうか、コマを中抜きして時間を飛ばす技法を、とにかく多用していました。
……っていうか、最初から最後まで、ずっとそれが続くんですよ。
さすがに辟易させられます。
この手のフェイク・ドキュメンタリーに於いて、かつて一般的だった技法は「手ブレの多用」でしょう。
わざと稚拙で素人っぽい撮影をすることで、フェイク・ドキュメンタリーに臨場感を持たせる訳です。
この手法は最近は下火だと思います。以前より控えめになって来ている印象です。
「宇宙探索編集部」は、わざと稚拙で素人っぽい「編集」によって、フェイク・ドキュメンタリーとしての臨場感を演出している。
その意図は分かりますが、最初から最後まで、ずーっと同じ技法を使うのは、流石にやりすぎだろう、と。
観ているこっちは、だんだん飽きて来ちゃうんですよ。
その辺の演出プランは、もう少し煮詰めて欲しかったな、というのが正直なところです。
この映画のホームページを読むと、学生の卒業制作と書いてあります。
いろいろと制約のある中で作られたと想像できます。致し方ない部分が有ったのかも知れません。
良かった点を言いますと、まずはラスト・シーンの素晴らしさです。
亡き娘に捧げる詩を朗読しようとして胸を詰まらせる主人公の顔のアップで、スパッと終わらせる。
非常に余韻の残る、良い幕引きです。
あらすじは公式ホームページに書かれていますから、そちらを読んで頂くのが一番だと思いますが、僕の方でもサラッと紹介して置きましょう。
1990年代の中国で、UFОブームに乗って部数を伸ばした「宇宙探索」という科学雑誌が有りました。
あくまで真面目に科学的に宇宙人の可能性を論じていたその科学雑誌は、ブームの一時期だけはイケイケドンドンで景気が良かったのですが、ブームが過ぎ去ると同時に一気に部数を減らし、以来30年間、細々と発行を続けて来ました。
その科学雑誌「宇宙探索」に、いよいよ廃刊の危機が迫っています。
……という設定で、主人公は「宇宙探索」の編集長です。
まず冒頭で、ブームど真ん中の若かりし編集長のインタビュー映像が流れます。
当時の編集長は希望と自信に満ち溢れ、宇宙人の実在を語り、いつの日か彼らと交信するという夢を語ります。
その顔からは、一途に夢を追いかける純粋さが溢れ出ています。
時は流れて30年後。
現在の老いた編集長の姿が映ります。
ブームが去り、雑誌の発行部数も落ち込み、廃刊寸前に追い込まれ、妻と離婚し、一人娘を亡くした男の姿です。(娘の死因は自殺です)
老いて、家族も無く、落ちぶれて、それでも過去の栄光と夢を忘れられない男の姿。
彼は今でも宇宙人との出会いを夢見ている。
30年前と同じように、宇宙人の実在を語る。
しかし、若かりし頃の自信と希望に満ち溢れたあの純粋な笑顔は失われ、老いて落ちぶれた現在の彼の目には、狂気の光が宿っている。
彼の言動は、一見、科学雑誌の編集長らしく理論的なようにも思われますが、どこか浮世離れしているというか、世間とズレています。
例えば、素うどんみたいな安い麺を啜る夕食の場面があります。
妻に逃げられた廃刊寸前の雑誌編集長が食べている夕食は、質素で、孤独です。
その安い素うどんのような夕食を啜りながら、彼は言います。
「セックスは生殖のためにするものだ。快楽のためのセックスは無駄な行為だ」
「一日に必要な最低限の栄養摂取で充分だ」
……科学的な判断から、妻と別れた。質素な食事を摂っているのも科学的理由からだ……という風を装っていますが、落ちぶれてしまった自分自身を騙して、折り合いを付けようとしているのがバレバレです。
孤独な老いた男が夕飯を食いながらブツブツぼやいているだけなら、まだマシですが、主人公の言動が明らかに常軌を逸している場面も有ります。
「テレビの砂嵐の映像には、宇宙人からの信号が含まれている」などと言い出し、手作りの奇妙な器具を頭に装着してテレビのアンテナに接続するシーンです。
そして、場面は変わり、精神科病院。
「娘は鬱病だった。鬱病は遺伝する」という編集長のモノローグ。
ここで暗示されるのは、彼自身が鬱病であること、そして娘の死に対して責任を感じていることです。
そうこうしているうちに、とある村で誰かが撮影した映像が、ネット上でバズります。
超常現象のようにも見えるその映像の真偽を探るべく、編集長以下3人しか居ない「宇宙探索」編集部員たちは、映像の撮影場所である村を目指して、長い旅に出ます。
映画の中程まで、僕はこの作品を、「トンデモな妄想に取り憑かれた男と、彼に振り回される周囲の人々の珍道中」物語だと思っていました。
現実の世界にも、似非自然食品やら、インチキ健康器具、陰謀論など、トンデモ妄想に取り憑かれた人々が居ます。彼らには、独特の「哀しい滑稽さ」が有ります。
それを描くのが、この映画の主題なのだろう、と。
しかし、映画が進むにつれて、「あれ?」と思い始めました。
トンデモ妄想に取り憑かれているにしては、主人公の言動が案外、冷静で真面です。
テレビと自分の頭を接続した場面以外では、奇行に走る事も無い。
一時的に精神に変調を来していたのだろうけれど、病院での治療を経て、現在の彼は正常さを取り戻しているように見えます。
では何故、彼は、宇宙人を追い求めて長い旅を続けているのか?
「フィクションだと分かった上で、信じている『振り』をして、読者や聴衆を楽しませる」というメタな姿勢なのでしょうか?
……いや、そんな風には見えない。
いったい、彼を駆り立てているものは何でしょうか?
映画を最後まで観て、やっと理解できました。
ああ、これは、「人生の意味を追い続けた男の物語」だったんだな、と。
「自分の人生の意味を探し続ける事に、自分の人生を費やしてしまった男」の哀しさを表現した映画だと気づきました。
それは、賭け事に熱中するあまり「次こそは勝って、これまでの負けを挽回してやる! 次こそは、次こそは……」という無限の罠にハマった人間にも似ています。
若かりし頃に「宇宙人と交信する」という壮大な夢を持った。
一時期は、ブームに乗って大成功を収めた。
やがてブームは去り、没落が始まった。
この時点で、普通の人なら、転職するなりして人生設計をやり直していた事でしょう。
しかし主人公には、それが出来なかった。
壮大な夢と、大きな成功体験を捨てきれなかった。
30年の歳月が経ち、夢を諦めきれず人生を費やし、老いて孤独な男になってしまった。
……もう戻れない。
ここで諦めたら、俺の人生は全くの無意味だ。
そんなのは嫌だ。だから何が何でも宇宙人を見つける必要がある。
でなければ、俺の人生は救われない。
かつて若かりし頃の彼を駆り立てていたのは夢と情熱だったのでしょう。
しかし老いた現在、彼を駆り立てているのは、「自分の人生が無意味だなんて思いたくない」という強迫観念です。
京極夏彦的な表現をすれば「憑き物」です。
それは不幸で不健康な状態だと、僕は思いました。
では、その憑き物は、どうすれば落ちるのでしょうか?
この作品は、おとぎ話的・ファンタジー的な結末で、優しく主人公の憑き物を落としてくれます。
そして、エピローグ。
主人公の執着の依り代だった雑誌「宇宙探索」は役目を終えて廃刊になり、編集部は解散し、主人公が新たな人生の一歩を踏み出した所で、物語は終わります。
ちょっと考えさせられましたね。
現実の世界にも、
「俺の人生の『意味』って何なんだ?」
「私の人生は、生きるに値する……そう思わせてくれる『意味』が欲しい」
と、(意識的であれ無意識的であれ)思っている人は、少なくないように思います。
そういう人が、救いをもとめて怪しげな宗教に入信したり、奇妙な自然食品にハマったり、陰謀論にのめり込んだりするのかも知れません。
妄想めいた珍説を披露する人も、実は、心の底からそれを信じている訳じゃなくて、「自分の人生は無意味だ」という遣る瀬無さを忘れるために、その思いから救われるために、「信じた振りをしているだけ」なのかも知れません。
西遊記のモチーフが何度か登場します。
単に、「中国だから西遊記」という以上の意味があると、最後まで観た所で理解できました。
これは「巡礼」なんですね。
旅の真の目的は、怪奇現象の調査じゃなくて、主人公の魂の救済だった訳です。
それと、中国の風景がエキゾチックでした。
邪道な観方かも知れませんが、僕にとって、外国映画を観る理由の半分くらいは、「外国のエキゾチックな風景を見たいから」です。
当たり前ですが、ハリウッド映画には「アメリカの典型的な郊外住宅地」が数多く登場します。
アメリカ人にとっては「ありふれた典型的な住宅地」かも知れませんが、僕ら日本人にとっては、エキゾチックな異国の風景です。
ただ最近は、あまりにも多くのハリウッド映画を観過ぎたせいで、アメリカの風景に対して、ちょっと食傷気味というか、異国情緒を感じにくくなっている。
その点、中国映画に出てくる風景は、まだまだ新鮮に感じられます。
雑誌「宇宙探索」の編集部があるレトロな建物とか。
日本の昭和的レトロ感とも、アメリカのレトロとも、ヨーロッパのそれとも違う。
田舎の道や、建物、山々なんかも、映画で見慣れたアメリカやヨーロッパの風景とは明らかに違う。
日本の風景とは多少の共通点がありますが、やっぱり違います。
北京中心部のオフィス街なんかは、おそらく世界中どこにでもある「最先端のオフィス街」と大差ないとは思いますが、この映画では、高層ビル街を遠景にして、わざと暈かして映します。
主人公とは縁遠い場所、よく分からない場所、という意味だと思います。
とりあえず、今日はこの辺で。
(少し、間を空ける)
「僕の言うことは全て、うそだ」
と、クレタ人が言った。
「今日も優しく、うそを語ろう」
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