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サムシング・イン・ザ・ダート

U-NEXT で「サムシング・イン・ザ・ダート」を観ました。

監督は、ジャスティン・ベンソン、アーロン・ムーアヘッド。
主演も、ジャスティン・ベンソン、アーロン・ムーアヘッド。

低予算映画です。
特撮(CG)も多少は使われていますが、監督兼主演の2人がアパートの1室で会話しているだけの映画です。

結論から言いますと、僕は面白かったです。
ただ、万人ばんにんに勧められる作品かと問われたら、うーん、どうかな。
娯楽性の少ない、どちらかというと文芸寄りの低予算映画です。
それを承知の上で興味があるなら観てください、としか言えません。

数か月前に観た「宇宙探索編集部」という映画に近いテーマの作品だと思いました。

精神的にも社会的にも大人になれないまま底辺をうろうろしている中年の男たちが、宇宙人やら超常現象やらに救いをもとめ、のめり込んでいく、という話です。

ふとスティーブン・スピルバーグの「未知との遭遇」を思い出しました。

若き日のスピルバーグや盟友ジョージ・ルーカスが1970年代末から1980年代前半にかけて、クリエーターとしてみずから体現して見せたのは、
「大人になってもピュアな少年の心を持ち続けるって大事だよね、素晴らしいよね」
という生き方です。
1960年代末~70年代半ばにアメリカン・ニューシネマで「苦悩する青年像」を描き続けたアメリカの映画界は、スピルバーグ以降、1980年代の幕開けとともに、「ピュアな少年の心を持ち続けたまま大人になる事の肯定」へと一気に舵を切りました。

「いつまでもピュアな少年の心を持ち続けていれば、いつか必ず、宇宙人が僕の脳に直接信号を送り込んで、僕らは『選ばれし者』として宇宙へ旅立てるんだ。
だから僕らは、周囲の大人たちの無理解と戦って、自分の中にあるピュアな少年の心を守り続けるんだ」

っていう、ある種の楽観主義が1980年代のハリウッドには有ったと思います。

同じころ日本では「新人類」、のちに「オタク第1世代」と呼ばれる若者たちが現れます。
いい大人が、怪獣映画に耽溺する、美少女アニメに耽溺する、特撮ヒーローに耽溺するという生き方。

潮目しおめが変わったのは、1990年代に入ってからでしょうか。
日本で言えば「地下鉄サリン事件」の頃。
「少年の心を持ち続けていれば、いつかは救われる」と思っていた当時の若者たちは、だんだん気づき始めるわけですね。
「あれ? おかしいぞ」って。
遥か宇宙の彼方かなたからUFOが飛来して僕を救ってくれるはずなのに、待てど暮らせど、宇宙人は現れない。
「選ばれし者」であるはずの僕の脳に、電波信号を送ってくれない。

いつまで経ってもUFOが飛来せず、いつまで経っても自分が「選ばれし者」だと証明できない事に苛立いらだった一部の若者たちは、いつしか、危険な妄想に取りかれていく。

「宇宙探索編集部」も、この「サムシング・イン・ザ・ダート」も、宇宙人とのファースト・コンタクトを目指す男の物語です。
ただし、「未知との遭遇」のような楽観主義とは真逆まぎゃくです。

「ピュアな少年の心を持ち続けてさえいれば何時いつかはUFOに救われるはずだったのに、いつまで経ってもUFOは来ず、救われないまま中年になってしまった男たち」

その悲哀を描いた物語です。

この映画を観ていて、
「自己欺瞞(自分自身をだます事)は、妄想の始まり」
と気づきました。

それでは、今日はこの辺で。

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