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女たちの7日戦争

「ぼくらの7日間戦争」という児童文学をご存じだろうか。
夏休みの7日間で大人に反抗する中学生の物語である。

私もこの作品を読んだのがずいぶん昔なのでオチの部分など大分忘れつつあるのだが、ふとこの作品は女たちの行く先を暗示しているように思えた。

「ぼくらの7日間戦争」では子供たちは解放区なるものをつくり、立てこもり、ラストは解放区から逃げ出して大人を出し抜き、そして(はっきり書かれてはいなかったと思うが)たぶん日常へと戻っていった。

私にはどうしてもこの物語の流れが女たちのこの社会での行く末と重なって見えた。

もちろん大人の保護下にある子供たちは解放区で一生生きていくことはできない。
解放区なるアイディアだって大人から着想を得たもの(というかまんま大人の猿真似)だし、インフラも整えられないし、経済だって回せない。
豊かな国の、恵まれた子供たちの大人へのカウンターごっこ遊びにすぎない。

さて、上の段落の文章の「子供」を「女」に、「大人」を「男」に読み換えてみると悲しいほど意味が通ってしまう。
女たちが「男女平等(というテイで女を甘やかせ)」だの「人を性別でなく能力で判断するべき(もちろん女が苦手なジャンルは配慮しろ)」だの言えたのはどうしてだ?
男たちが許してくれたからだ。
男たちは怒らなかった。
いくら女が「男女平等のために生得的に不利に作られている女を優遇しろ(ただし男女平等というテイで)」と今の社会構造ではとても通らないことを主張しようと、女子供の言うことだからと本気にしなかった。
ちょうど子供たちが解放区を作っても大人たちは最初「解放区なんて言葉どこで覚えてきたんだろうな」「微笑ましいわね」みたいな反応だったように。(記憶違いだったらごめん)

子供たちが自分たちが解放区を作っても大人は本気で攻撃できないことを分かっていたように、女たちも「(女に配慮したうえで)男女平等だから人を能力で判断しろ」とか言ってもなんだかんだで男は女に優しくしたいはずだと思い込んでいたように。
何をやっても大人は、男は許してくれるはずだ。そのはずだったのに。

まさか大人が、男がガチになってしまうなんて計算外だった。
事実「ぼくらの7日間戦争」では大人は7日目まで大人の手段を取らなかった。
ガチになるまで7日の猶予をくれたともいえる。
さてはて、男はいつまで女の児戯に猶予をくれるだろう?
これは私個人の感覚に過ぎないが、今が本当に最後のボーナスタイムだろう。マリオのスター状態だろう。
つまり今が6日目である。
「男女平等のために女を優遇しろ」と言っても大して怒らなかった男たちに調子をよくした女たちが「男女平等のために女を優遇しつつ勝者男性のうまみだけよこせ。もちろん責任など背負わない」と言い出してとうとうマジになりだした。
やり過ぎた。完全にやり過ぎた。もう6日目の夕方くらいかもしれん。

ちなみに「女たちの7日間戦争」が「ぼくらの7日間戦争」より悲惨な点は、「ぼくらの」では少年たちは大人たちがまさか自分たちの味方になってくれるとは思っていなかった。
大人たちが解放区に一緒にやって来て彼らのためのインフラやら必要なものを用意してくれるとはさすがに思っていなかった。大人は対等に戦うべき敵だった。
彼らはその点わきまえていたといえる。

だが、女たちは信じている。
自分たちの7日間戦争に男たちが参戦してくれるはずだと。
もっといえば、「解放区」女だけの街をインフラから何から作って整備してプレゼントしてくれるはずだと。
それが自分たち女に対する当然の償いだと、女たちは信じている。
なぜなのかはこの記事を読んでくれればいい。
一言で言えば女は深層心理で自分たちは男にはすべての面において敵わないし、それを男も分かっているはずだから当然補填があるだろうと信じているからだ。

最後に。
子供たちが解放区をつくり、大人相手に戦争をやれたのは大人から与えられた夏休み期間だったからだ。
夏休みはいつか終わる。ごっこ遊びも学校という巨大な制度の前にはもう続けられない。
終わればまた大人に定められた学校制度の中に帰って行かねばならない。
彼らは自分の国を作れなかったのだから。
そしてもちろん宿題をやらなかった責任は当人にのしかかる。

そのムーブメントは所詮は大人が作った制度の上での文字通り児戯にすぎない。

さて、女たちが当然やるべき宿題をやらなかったツケは、一体何で回ってくるのだろう。
私はそのツケを背負わされるz世代である。
マジで上の世代の女ども何してくれてんだよ。

追記
このごろ、フェミニズムは本気じゃなかったんだなと思う。
つまりフェミニズムなる運動を男の前でやれば、男たちは「俺たちはこんなことを女性に言わせてしまうほど、させてしまうほど貴女たちを苦しめていたのか!申し訳ない!すぐに今までの損失分を補填させていただくとともにこれからは二度と女性にそのようなことを言わせぬよう、させぬよう精進してまいります!はは~っ。」と平身低頭して喜んで女の召使になり下がるはずだと思っていたのだ。

だからこそ「女だけの街が欲しい」というのは「女が自分で自分たちの街をつくりたい」という意味ではなく、ここまで女性に言わせてしまった男側が反省し、無償で女性だけの街をプレゼントし、もちろん点検整備も無償で行うべきという意味なのだ。
結局、「男女平等が欲しい」の真の意味は「男女平等が欲しいなどと女に言わせてしまった男が反省し、女性を男女平等のテイのもと優遇するべき。それが当然の補填である」だったのかもしれない。

欲しいのは平等ではない。謝罪と賠償だ。

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