三年間の断片的な記憶2
小説
兄からお下がりとしてもらったSurfaceのノートパソコンが相棒だった。
銀色に鈍く光るボディに、黒色でパンタグラフ式の叩きやすいキーボード。中学二年の時にもらったそれは、なにせお下がりだから、高校に入るころにはすでに少し傷みかけていた。
キーボードを覆っていた布の隅はめくれかけ、タイピングをしようとしても、ときおり右半分が反応しなくなる。そうなるといつも、キーボードを取り外しタブレットとしても使えたそのパソコンの、キーボードの部分を何度も取り外しては、またくっつけて、様子を伺いながら触れていた。
最初に使っていたソフトはWeb上にあるMicrosoftのWord。機能が制限されていて、縦書きや原稿用紙の設定はできなかった。
だから横書きのまま、淡々と文字を並べていった。ちょうど創作の楽しさに気づきだしたころで、楽しみを先行させるあまり、「プロットを書く」だとか「最後まで書ききる」だとかは眼中になく、ただ思いついたアイデアを文章にして、並べていった。
使用ソフトはその後も転々と変わっていき、ArtOfWords、TATEditor、そしてGoogleドキュメントに落ち着いた。縦書きにして作品を提出するときは、USBにデータを入れ、学校のパソコンに備え付けてあるWordで縦書きにした。
学校のパソコン室で執筆することもあった。基本的に人はおらず、私がキーボードをたたく音だけが、教室に響いていた。普段パンタグラフ式のキーボードを使っているせいもあってか、パソコン室に置いてあるメンブレン式のキーボードはわずかに感触が違って、違和感があり、しかしその違和感すらも執筆をしているときはどこか心地よかった。
普段は、学校から帰宅するとまずノートパソコンを開く。
とりあえず夕飯まで。夕飯が終わってから、課題をしよう。
そうして、下宿していた家の狭い自室の中で、ひとり黙々と画面と向き合い、言葉を並べていく。ときおりTATEditorの原稿用紙機能を使い、枚数を換算し、進捗を見つつ、文字数が足りなさそうであれば展開を詰めていく。
南に面した部屋は、学校から帰ってすぐは、まだ陽が射して明るいけれど、私がキーボードをたたき続け、ふと顔を上げると、いつの間にか部屋の中は薄暗くなっている。私は椅子から立ち上がり、電気をパチッと灯して、また作業を再開する。
いつもずっと、自室で書いていた。カフェに行ったり図書館に行って書き進めたことはない。そうしようと思えばできたのかもしれないけれど、なぜか、ほかの場所で執筆をしようと思うことはなかった。狭い部屋でひとりだったけれど、目の前の画面では、自分以外の誰かが、自分の手によって生き生きと動いていた。
自室にいると、ときおり誰かが二階にある部屋まで階段を上る足音や、寮母さんが掃除機をかける音が聞こえたけれど、それさえも快適なノイズとして処理できた。
迷いなくキーボードを叩けるとき、そこには大きな高揚と快感があって、それを享受していると、他のことなんてどうでもよく思えられた。近所の中学校のチャイムの音とか、迫りくる課題とか、この先も生きる意味とか。
画面から放たれる、自ら創り上げた世界が、私に触れようとする何かから、私を守ってくれていた。
また小説は私を守るだけでなく、外の世界へ連れ出してくれた。
三年間の中で、小説を書いたことで二回、県外に招待してもらう機会に恵まれ、新幹線に飛び乗った。
憂鬱なことなどひとつもなく、ただ自分の小説が評価され、それを最終的に認めてもらうために新幹線に乗って、目的地へ向かっていると、純粋な楽しみだけで心が構成され、風船のようにふわふわと足取りは軽くなった。
岩手へ行き、授賞式の帰りに旅館へ泊まらせてもらい、宮沢賢治の足跡を辿ったり、東京の某出版社に招待され、ワークショップに参加したりした。
東京のワークショップでは、私と同じように小説を書いていた人が、他に六人いて、某作家の下で、小説を書く上で大切なことを学んだりした。
もちろんそれらも覚えているけれど、私はそれ以上に、某出版社の床の色とか、トイレに向かった時に見えたオフィスの、山のように積み重なった紙類とか、お昼に出されたお弁当の尋常じゃない量とか、そんなことが映像として明瞭に記憶の隅にこびりついている。
それから、たくさんの人と出会った。特に東京のワークショップは、地方ブロック代表者として、全国から集まった七人だったから、様々な地域から来てくれた人がいた。ワークショップが終わった後も、その人たちの出身地に近い話を聞くと、彼ら彼女らは今どうしているだろうと、想う時もあった。
それから、ワークショップからずいぶん経ったあとに送られてきた、作品を掲載した冊子の裏表紙の裏。そこには某作家のサインと共に「書き続けてください」との一言があった。
見た瞬間、呪われたと思った。呪いと書いて「まじない」と読んだりするけれど、これはそんな軽いものではなく、もっと重量があっておどろおどろしい「のろい」だった。
ただ書くのではなく、続けていく。好きなことなら簡単なように思えるけれど、そこには「心身が健康」だったり「執筆を好きで居続ける」だったり「時間の余裕がある」といった、まるで奇跡のように様々な条件が重なっているのを、その奇跡を、意図的に続けていくことではないだろうか。
その作家は「筆を折るな」とは私たちに書かなかった。きっと、ポッキリと折れてしまってもいいのだろう。しばらく創作から距離を置く時期があってもいいのだろう。けれど、それでもいつかまた、書き出してほしい。続けるとは、そういうことだから。強く吹き付ける逆風によって、創作をする灯火が消えてもいい。また、自ら火を起こしてくれるなら、それで万々歳だ。
私はそんな、声にならない言葉を、サインから聞いたような気がした。
執筆を続けていると、ときおり「傑作」と言われるような作品が、自分の手元からポンと生まれることがある。自他共に認める出来栄えで、高く評価もされ、様々な人間のどんな読みにも耐えられる。私の場合、それは高二の夏に書いた作品「まどろみの星」だった。
「まどろみの星」が評価されているうちはまだ良い。問題は、傑作の次の作品を書く、そのときだった。書き続けるということは、その傑作を、更新していかねばならない。そうでなければ、少なくとも他者から高い評価を得続けることはできない。
ポンと、「傑作だ」とは意図せずに生み出してしまった作品に、私は喉を絞められたような心地になった。これを超えなければ。少なくともこれと同等の作品を作らなければ。
ちょうど、まどろみの星が評価を得ていた頃と同時期に、私は地元の高校生向けの文学賞において、別の作品で佳作をもらっていた。正直、納得はできなかった。私の中でその作品は、「まどろみの星」の何倍も気を配って書いた作品で、それが「まどろみの星」より評価されていないという事実を素直に受け入れることができなかった。それが高校二年の秋ごろのことで、私は、高校三年目でもう一度、この地元の文学賞で評価されようと決意した。
その文学賞は高校生向けとはいえレベルが高かった。作品を応募するには、応募する以前に全国区のコンクールで入賞経験があるか、もしくは学校長の推薦を必要とするからだ。集まる作品は腕に覚えのある人間たちのものばかり。その中で、私は佳作を超えてみたかった。
コンテストでのし上がるにはどうすればいいか。単純なことだった。良い作品を書けばいい。「まどろみの星」と同じような良い作品を。
コンテストの募集開始は夏ごろだったが、私は春休みから執筆を進めた。案はあった。初めてしっかりとプロットも書いた。しかし、ひとつ問題があった。
社会問題の一つになっている「ルッキズム」をテーマに取り入れていたのだ。小説という個人を描き出す物語の中で、社会問題をどう組み込み、昇華させていくか。私はそれに苦戦した。
書きたい情景も、広げたい展開も決まっているけれど、これで本当に私の伝えたいことが伝わるだろうか。社会問題という大きな存在を、うまく個人の物語の中に収めることができるだろうか。
執筆に行き詰まると、ちゃんみなの「美人」を聴いた。曲を聴くと、ぼんやりとだったが、作品の一貫したイメージが掴めるようだった。
小説で何かを訴えようとするたびに、その無力さを突き付けられる。けれど、その無力さを前提としたままで、書き続けなければ、物語は完成しない。物語が完成しなければ、傑作を超える作品も誕生しない。
「まどろみの星」を書いていた時の私を召喚したいと、何度も考え、そのたびに、この小説を書き上げるのは、「まどろみの星」を書いた後の、今の私なんだと思い知らされた。
結局私は、春休み内に作品を書き終わらせたものの、そこから三、四か月ほど寝かせたのち、夏休みにブラッシュアップし、作品を提出した。
秋ごろ、結果が発表された。満足のいく内容だった。私は担任からの結果報告を電話で聞きながら、軽くガッツポーズをした。
青春がいつからいつまでを指すのかはわからないけれど、高校三年間の青春の半分を私は間違いなく小説に捧げていたと思う。
使い古したお古のノートパソコンは、本格的に受験期に突入し、小説を書くことを控えようとしていた頃に、まともに充電もできなくなった。
私は今この文章を、大学生協で買った、新しいノートパソコンで書いている。
「書き続けてください」
書く道具が変わっても、環境が変わっても、私自身が変化しても、この呪いは半永久的に、私を創作へ向かわせるのだろう。
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