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「ルックバック」に抱くもの

 藤本タツキ原作の映画「ルックバック」を見ました。感想を書き留めます。ネタバレ必至です。

感想

 「ルックバック」を読んだのは、ジャンプ+で公開されてから少し時間が経った頃だった。公開されてすぐにTwitter(現X)のタイムラインは大いに、そして良い意味で、荒れに荒れていた。みんなが声をそろえて「ルックバック」について、そして作者である「藤本タツキ」について語っていた。

 その少し異様な光景を傍目で見つつ、ある日私はとうとう、ジャンプ+で「ルックバック」を読んでしまった。

 映画を見てもそうだったのだが、この作品を見てまず感じるのは「羨ましい」という感情だ。私は主に小説という媒体で創作に携わっているが、小説ひいては執筆という行為は、突き詰めれば孤独な作業だ。どれだけ仲間内で膝を突き合わせて創作論を語ろうと、プロットの良し悪しを評価し合おうと、書いているまさにその時は、独りで書くしかない。

 しかし藤野と京本は違う。漫画という媒体では、ストーリーラインと絵、という概念が並んで存在し、二つの質量は、ほぼ均等に私には見える。そして二つの概念が融合し合って初めて、「漫画」という一つの媒体が成立する。藤野と京本は「ストーリーライン」と「絵」という二つの概念をうまく分担し合って、一つの作品を創り上げている。この、「他者と協力して一つの作品を創り上げる」という感覚が、小説では欠落している。だからこそ、原作でも映画でも終盤の、藤野と京本が二人で創作に携わっている姿を見ると、感動よりも先に、羨望がふつふつと静かに湧いてくる。

 そして次に感じるのは、私の世界と、「ルックバック」の世界とのリンクだ。それは共感という感情になって私の心の内側を揺らす。
 
 まず、自分よりも格上の相手に抱く嫉妬と諦めについて。原作でも映画でも、藤野は初めて出会う、自分よりも格段に絵がうまい、「京本」という存在に対して、嫉妬を抱く。そして嫉妬の矛先は、やがて自分自身に対する焦燥感や、物足りなさに変わり、藤野は絵に心血を注ぐようになる。私はここで、あっさりと筆を折るのではなく、京本に対してあからさまに敵意を抱くのでもなく、自分の未熟さにしっかりと目を向ける藤野が、漫画家としてやがて成功していく理由だと思う。嫉妬という感情を、きちんと原動力に変えていくことが藤野はできるのだ。

 私は、努力は努力だと思った瞬間、その努力は続かなくなると思っている。努力を続けている人間は、努力を努力だと思っていない。そして、努力を続けていける人間は、大まかに分けて二通りいるだろう。

 ひとつは、努力を義務だと思っているタイプ。地味で面倒くさくて報われる可能性もない努力というものを、義務感で忍耐強くやってのけるタイプ。もうひとつは、努力を努力だと思っていないタイプ。いわゆる夢中になっていて、嬉々として努力に時間を割き、その自覚すらないタイプだ。作中では明確に描かれていないが、私は藤野が前者で、京本は後者なのではないかと思う。京本の圧倒的な努力量は、忍耐力が成し得たものというよりは、無我夢中で気づいたらそこまで来ていたという印象が強い。

 そして、諦めだ。藤野はおよそ二年間に及び続けていた、絵を描くという努力を、ある日、京本の絵を再び見たことで、ぱたりとやめてしまう。それは藤野が、生活を犠牲にしてまで努力をしたからこそ、京本との距離が正確に測れてしまい、その差に、ある種笑ってしまうほど絶望したからだろう。また藤野は、「自分が代替の利く存在だ」と気づいてしまう。人が画力の高さを求めるとき、頼るべきは自分ではなく京本であり、自分は唯一無二の存在ではなく、言ってしまえば、京本の下位互換であるとわかってしまった。他者からの承認が少なからず下地にあった藤野にとって、この代替可能という意識は、絵という分野においての、藤野自身の熱量を冷めさせてしまった。

 努力の天才が近くにいると、自分のすべてを否定されたような気持ちになる。自分がどれだけ努力をしても、努力の天才はそれを上回り、結果を出していく。なまじ努力の天才は努力をしている分だけ、余計努力の天才の結果は正当性を帯び、こちら側が今までしてきたことが、無に帰したような感覚になる。彼がいるのなら、自分は筆を執り続けなくても良いのではないか。そんな疑念が頭に浮かび始める。

 ルックバックの作品としての旨味は、こうして小学生の藤野が、「小学生らしい絶望」を抱いたところに、京本の「憧れ」が燦然と登場するところにある。京本の藤野を見る純な目は、嘘がなく、本心から藤野を尊敬していることが、藤野自身にも伝わって響く。

 そう、天才には嘘がない。偽る必要がないからだ。真の天才だろうと、努力の天才だろうと、天才は天才となれる分野においては、悠々と息継ぎができる。天才は存在自体が圧倒的で、時にその存在が人を威圧する。

 だからこそ人は、自分が自分より上だと思っていた人間から認められると、飛んで喜びたくなる。藤野が雨の中踊りながら帰るシーンは、ルックバックで一、二を争う注目ポイントと言ってもいいだろう。

 自分が天才だと思っていた人間が、実は自分を認めてくれていて、映らないと思っていたはずの天才の視界に、自分は存在していて、天才のその存在に、自分も確かに影響を与えていて。自分が嫌でも認めざるを得ない人間から、認められていたこと。それがどんなに嬉しいことか。

 そうして藤野と京本は二人三脚で漫画を描いていく。この展開は先述の通り、羨ましい限りだ。やがて二人は、別々の道を歩み始める。映画では、中々アシスタントを決められない藤野の描写に、昔、背景を担当していた京本が、藤野にとって代替不能な存在であったことが伺える。

 しかしある日、「本当の絶望」が藤野を襲う。「小学生らしい絶望」とは比にならない、重くのしかかる本当の絶望を前に、藤野が行ってきたこと、今行っていることは、無力なように思われる。実際、創作というのは突き詰めれば虚構であり、なんの実力も持たない。
 けれど、やはりここでも絶望する藤野に対して、京本が一条の光を差し伸べる。そして、その光はやはり二人で行ってきた「漫画」(さらに言えば、二人の原点である四コマ漫画)なのだ。

 「背中を見て」

 映画として、映像として「ルックバック」を見ていると、この題がより克明に胸に刻まれる。京本は藤野に手を引かれ、実際に藤野の背中を見ていた。そんな京本が「背中を見て」と藤野に訴える。それは、「振り返る」という行為が、藤野と京本の間で、「前を向く」という意味を帯びた証だ。そして、藤野が実際に振り返った先には、昔京本にあげたサインがあり、そこで藤野は、原点に立ち返る。

 「どうして描くのか」

 百人いれば百通りの答えがある問いだ。私は未だにはっきりとした答えが出せないが、藤野は自分の中に京本を通して、この答えを見つけた。そして、映画では藤野がひとつ、息を吸う。この呼吸に、前を向き描き続ける藤野の覚悟が現れているように思う。

 そして、エンドロールに流れるharuka nakamura「Light Song」の、讃美歌のような響きは、藤野の無念を浄化し、京本の願いを現実にする力がある。

 いち創作者として、現時点でも小説を書き続けている身として感じたのは、自分がいつか、筆を折った時、この物語はまた違う様相を帯びてくるのではないかということ。けれど、この作品は当分の間、私に筆を折らせてくれないだろうということだ。絶望に瀕してなお、創作者として生きる藤野が見せる背中は、称賛に値する。

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