長編小説 雨粒のひかり 【1.モラトリアム】2018年7月

 私は小さい頃から引っ込み思案で、言いたいことがあっても黙り込んでしまうことが多かった。
「ひかりちゃんって、何を考えてるのか分からない」
 そう言われても、それが何か? としか思わず、誰かに自分の感情を伝える義務などないと考えていた。
 誰かに自分の名前を呼ばれるのも、自己紹介されるのも嫌い。それは自分の存在を否応なく再認識させられるからで、自己嫌悪から逃れるためにこの世から消えていなくなりたいと思い詰めることなど日常茶飯事だった。

 5月の終わりに派遣の仕事を始めて、あっという間に時は過ぎ、ついに7月に突入してしまった。
 こんな私でも、仕事を1ヶ月続けることができた。少し誇らしくなって、1人でほくそ笑む。
 なんだか今日は気分が良い。調子の良さに身を任せて自室を片付けていると、学生の頃に使っていたノートが出てきた。捨てようと思い、いらない雑誌が積まれた山に乗せようとしたところで、ピタリと手を止める。
 もう10年以上前のノートだ。黒歴史でも何でもない、ただの過去の産物。どうせなら読んでから捨てよう。
 ノートの表紙をめくった。



時雨

 私は、雨の日に生まれた。二月の寒々しい空が降らせる雨は、せっかく温まった心を冷やしてしまっただろうか。

 我慢強かったから、今まで泣くことをあまりしてこなかった。辛くても誰にも言えなくて、ひとり、心の中で泣いていた。
 溜まりに溜まった涙が、少しずつ心を腐らせていくのが分かった。そうしているうちに、人に悪意を向けられたときも自らを傷つけたときも、何も感じなくなった。
 感情が鈍化している。そう気付いたときには、死が背後に迫ってきていた。

 心療内科を受診しても、気持ちは晴れなかった。なんとなく自分の人生に現実味を感じられなくて、胸のあたりがぞわぞわする。それが生きるということなのだとしたら、なんて残酷な世界なのだろう。
 曖昧なことばかりで、何も分からない。本当に知りたいことは本にもネットにも載っていなくて、決まった答えがないことを知る。
 うまく折り合いをつけられるほど、私はまだ成熟していない。途方に暮れて、空を仰いだ。

 きれいな青空だった。その青が、悲しみの青ではないことぐらいは理解できた。
 私はいつまで経っても浮かばれないような気がして、どうせ死ぬなら青空が隠れた雨の日に死にたいと思うのであった。


 罫線から飛び出た右上がりの文字は、確かに私自身が書いたものだった。
 あまり記憶にないが、確かにあの頃の私はもがき苦しんでいた。精神を病み、先が見えず、塞ぎ込んでいた。それを、この文面が今の私に強く主張してくる。
 まだ道半ばなのだ。思わず口を固く結ぶ。
 外が暗くなってきた。一雨降るかもしれない。遠くの方で、雷鳴が聞こえた。