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「飲みやすーーい!」は褒め言葉なのか?

お酒を飲んだ感想の一つに、「あ!めっちゃ飲みやすーーい!♡」というものがある。
果たしてこれが褒め言葉なのかについて今日はちょっと考えてみたい。
というか、そもそも「飲みやすいということはいいことなのか?」もっというと「飲みにくいというのは良くないことなのか?」あるいは「飲みにくいものは悪だ!」について考えてみたい。

まず前提としてこの発言をした人間が

①本当に美味しいと思っていて、それを説明もしくは表現するためにこのフレーズを使った場合
②大して美味しくなかったが、なんとなく褒めなきゃいけない雰囲気だったので当たり障りのない言葉を選んだパターン
の2つがある。

②のパターンでの発言については今回は考えない。
これはその場の空気を読んで、せっかく誰かが用意してくれたものなんだから美味しくないとは言わず、でも嘘はつきたくないので美味しいとも言わず、なんとなーーく空気をぼかして、まあ結果そのお酒を持ってきた人間を含めたその場にいる全員が「ハッピーな感じ」でそのまま会が進行していくことだけを願っての非常に誠実で優しい発言である。

これはそのお酒の評価そのものよりもお酒を提供してくれた人、あるいはその会そのもの、その場の空気自体を優先して大切にした発言な訳で、実際に美味しいと感じているかどうかとは別の話である。

こういう言葉の優しさは、人によって感じ取れるレイヤーは異なれど、あくまで「優しさ」であり、そこに対して「え?飲みやすいってどういうこと?本当は美味しくないって思ってるってこと????え???」なんてツッコミを入れたりするやつは野暮な人間である。

あの〜、だったら素直にまずいって言ってやろうか?と。その優しさを汲めよ…コミュニケーション下手め…とみんなに思われるわけである。


というわけで今回考えたいのは①のパターン。
純粋に「美味しい」という意味で「飲みやすい!」というフレーズを使っている場合である。
この発言の前提には、それがお酒であればそもそもお酒は飲みづらいものだ、というその人の常識があるように思う。
一般的なお酒は飲みづらくて苦手である。なのにこのお酒は飲みやすい。だから好きである!という論理である。
…まあわからなくはない。
ただ「飲みやすい=好き」というのはちょっと浅はかな思考な可能性があるぞ、と思うのである。

例えば同じ飲み物で、オレンジジュースがある。
これは誰にとっても「飲みやすい」飲料である(という前提で今回は進めたい。あなたにとってこれが飲みづらいものであれば別のジュースで話を進めてほしい)。
もちろん、オレンジジュースは美味しい(美味しいと思わない人は美味しいと思うジュースで話を進めてほしい)。
僕も大好きだし、特に生搾り系のやつは本当に幸せな気持ちになるくらいうまい。大学生の時によく言っていたイタリアンレストランで本当にうまいオレンジジュースを出す店があったんだけれどその話は関係ないのでまた今度。
で。

オレンジジュースは飲みやすい。
オレンジジュースはうまい。
従って、うまいものは全て飲みやすい。
ということである。

…んーー?ちょっと待ってくれ。
この論理はなんだか違わないかい?
飲みやすい、ってのと、美味しいってのは必ずしもイコールじゃないぞー、と思わないかい?(だからこそ②の用法が存在するわけだ)

例えば超高級ワイン。
ボルドーの超高級年代物ワインなんかは(まあ僕はほとんど飲んだことはないんだけれど)タンニンの渋みがきちんと出ていて、それが重厚で奥深い味わいを出しているわけである。
これを飲んで簡単にサクッと「あ、飲みやすい!(=美味しい!)」という感想は出てこないはずである。
なんならどちらかというと飲みづらい。
なんか渋いし、味が複層的すぎて初心者にはよくわからないし、これのどの要素がそんなに評価されているのだろう?と思うはずだ。

ビールだって一緒だ。
生まれて初めてビールを飲んだ人間はまず「え、苦くね?」と思うだろう。
しかし飲み続けていくとだんだんその苦味が美味しく感じられるようになり、爽やかな炭酸とホップの香りが、疲れた体に本当に染み入ってくる。
喉の奥からの「うめぇ〜〜〜〜〜〜!!!」はなかなか他の飲料では代替できない。

コーヒーもそうだろう。
僕はコーヒーが大好きなのでこれに関して自信を持って言えるが、最初はただの苦いもの、もしくは酸っぱいものとしか認識できないだろう。
今飲んで本当に美味しいと思えるコーヒーも、高校生のコーヒー飲み始めボーイだった僕が飲んだら「うえっっっ、なんか苦くてすっぺーーー」としか思わないだろうし、まさかそこに果実の甘さや黒糖のようなまろやかさ、赤道以南の太陽を浴びた爽やかな香りなんてものは感じ取れないだろう。
そしてそれこそが「コーヒーの美味しさ」なのではないか?

うまいものは、いやうまいものの中には、決してわかりやすいとは言えないものもたくさんあるのだ。
特に「代替不可能な良さ」を持つものは、その良さを理解できるようになるまでに、受け取り手側の努力や成熟度など、「レベル」を求めてくるものが多いように思う。
「ビールの美味しさ」とか「コーヒーのうまさ」とか「ワインの良さ」なんてものは、決して誰もに一瞬で理解してもらえるようなものではないのだろう。
世界的な文学作品の味わいや名作と呼ばれる映画の良さもそのひとつ。
それはすなわち、味わう人間側の舌や目が試されている、ということなのだ。
「わかりやすーーーい♡(=絶対的に良い!)」という感想しか出てこない人に「タイタンの妖女」の味わいはわかってはもらえないだろう。

豚の耳に念仏。猫に小判。
どんなに価値のあるものであったとしても、受け取る側のセンサーがきちんと耕されていないのであれば意味がないのだ。
念仏が素晴らしいものだとわかる人から見れば、「めっちゃ意味わかんない退屈な歌聞かされたんだけどぉ〜〜〜」という豚さんの可愛らしい主張は「ああその程度の成熟度なのね、あなたは」と思われるだけなわけである。

まあだから「飲みやすい=美味しい」「飲みにくい=美味しくない」という定式に全てを当てはめてしまって、そうとしか思えないのならば、もしかしたらそれは少し短絡的で、自分の感じ取る能力がまだまだ未熟なのかもな、と思うようにする方がいいのではなかろうか。

「自分にとってイージーに消費できるもの」だけを「美味しいもの」と捉えてしまうのは、いささかお子ちゃまな態度ではないだろうか?

パッと簡単に飲み込めないものだったとして、それが「そのものの質が低いんだ!」ということではなく、もしかしたら今の自分にはまだ備わっていない視点や感覚、経験あるいは目盛りのようなものがないとそのものの良さすら理解できないのかもな、というのが、ある程度の経験を積んで、それなりにこういう場面に出くわしてきた大人が自然ととる態度なのではないだろうか?

僕は自分のことを大人だというつもりはないけれど、こういう姿勢は今後もきちんと持って世界と相対していたいもんだなー、と思うのである。
そしてものの本当の良さがわかるように、コツコツと人間レベルを上げていきたいなあと思うのである。

はい。
なーんかちょっと怒りを感じる文章になってしまったな…笑

そういうわけでいまだにワインよりブドウジュースの方が美味しいと思ってしまう男の「飲みやすーーーーい♡」についての一考でした。

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