勉強は手段でしかない

2020/3/21 かなり晴れ

何のために仕事をしてる?

と、聞かれたときにすぐ答えられるか。

それに即答できなかったとき、モヤモヤしながら仕事してたし、仕事が楽しくなかった。目的というか、何を目指しているのかが分からずに努力するのは、相当にしんどい。

そして、子どもたちもそうだと思った。

何のために勉強しているのか、そこに即答できない+勉強自体も得意ではない生徒は、勉強するのが嫌で仕方がないだろう。

そんな状態の生徒に、どうして勉強しないの?やるって決めたろ?やらなかったら高校行けないけどそれでいいんじゃね?って問い詰めるのは、酷だ、というか、誰のためにもならない。

勉強も仕事も、やった分だけ成果が出ると、それがモチベーションのアップにつながるだろう。しかし、そのモチベーションは継続的ではないし、辛いときや、パフォーマンスが落ちたときは、すぐに消えてゆくだろう。

だから、強い動機が必要だと思う。なんの為なのか、また、どんな未来を手に入れたいのか、目的、ゴール、最終地点を明確にする。最終ゴールがわからなければ、自分の方向性だけでも決める。

それがないと、自分を変えようとは思えない。自分を変えるのには、それなりの痛みがあるから。その痛みに耐えるには、耐えられるだけの理由がなければならない。

勉強をいつまでたってもしないけど、できるようになりたい、と言う生徒は、おそらく、本気でできるようになりたいのではないだろう。親や先生が勉強しなさいというから、一応、できるようになりたいと言っているのだろう。

だから、勉強をすることに対して責任を持とうとはしない。自分が同意していないからだ。大人にやらされていることだから、責任を持ちたくないのだ。

キラキラした未来をイメージさせる

それと、子どもを見ていると、どこか自信のなさが感じられる。勉強できる子も、できない子も、自分の可能性を低く見積もっている。

そうなってしまった原因は分からないが、それが行動を抑制する一端を担っているのは確かだろう。

というか、そっちの方が大きいのかもしれない。仮に自分に自信があれば、そのイメージを保つためにも勉強は頑張るだろう。

そもそも自分にできることは少ないのだから、努力をしても無駄だと考えているのかもしれない。

前、子どもの勉強プランを俺が考えたとき、俺はその子ができるようになると言い切って、そのために必要な勉強方法、勉強計画を、ことこまかに理由を述べながら説明した。

そのとき、子どもはワクワクしていた。

おそらく、勉強できるようになった自分をイメージすることができたのだろう。そのイメージが一瞬でも持てれば、その子の可能性はグッと広がる。

広がるというか、自分の可能性に気づく。そういう機会は、俺が作っていく必要がある。そこに、塾の価値があるのではないか。

自分の可能性に気付くことができれば、勉強の目的についても考えることができる。なりたい自分像を描くことにも躊躇がなくなり、やりたいこと、就きたい仕事についてもイメージが膨らむだろう。

そこが明確になっていったとき、勉強の必要性に気づく。自分で必要性に気づけば、自然と責任を持って勉強するだろう。

そのフェーズで、もし勉強をしてこなければ、やらないことによって起こるデメリットを強調することは有効な手段になる。

やっていることは同じだが、相手がどんなフェーズにいるのかで効果は変わる。

こうやって文章に書く前はめちゃくちゃモヤモヤしていたけど、書いていくうちにスッキリしてきた。

やっぱり、言語化するっていうのは大事だね。

明日はサウナ!

以上🖐️

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