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ブッダの生涯⑹ ついに訪れた『成道』の時

ブッダは『苦行を実践、難行をもってしても、わたくしは常人の法を超える、非常にすぐれた聖なる知見に至ることはできなかった。それはなぜか。そのための聖なる智慧にいまだ到達していなかったからである。この聖なる智慧が獲られたなら、それは生死を脱する聖なるものであり、それを実践するものはまさしく苦の消滅に導かれるのである』(中部経典)
と、反省した。

このように反省した時『苦行はなんの利益もない』とブッダは苦行を捨てる決意をした。従来の沙門達が修行する禅定や苦行を実践すればある程度の平静さや強い意志力が得られる。しかしそれは人生の苦悩を根本的に解決することにはならない。なぜなら根本的な解決の道は『人生の真理を知る』という智慧の範疇に属することがらだからだ。

この事実をブッダが悟ったとき、苦行をきっぱりと捨てる決意をしたのである。そしてブッダは『瞑想(めいそう)』によって独自の道を見いだそうと決心した。即ち、現実の人間をあるがままに観察すること(如実見)によって、具体的な生きた人間に即した真理を発見し、安心立命の境地(涅槃)を得ようとすることであった。

・ついに訪れた成道の時
ブッダは苦行林から出てナイランジャナー河に入って沐浴し、長年の苦行生活の汚れた体を洗い清めた。川岸のセーナ村に滞在していると村の娘、スジャータが現れて乳粥を差し出した。この様子を眺めていた苦行の仲間五比丘はブッダがもはや苦行をする意思はなく堕落したと思い込み去った。
スジャータの乳粥によって元気を回復したブッダはナイランジャナー河の近くに茂る『菩提樹』の下に赴き一束の草を譲り受けてその下に『結跏趺坐』(結跏趺坐けっかふざ 坐禅(ざぜん)法の一つで、両脚を組んですわる方法。 跏は足を組み合わせる意、趺は足の甲。 両脚を組み、左右の足の甲を反対側のももの上にのせて安坐する)した。そして深い瞑想に入り、深い禅定にとどまりながら真実の自己の姿を見た(如実見)。この内省によって把握された自己の「ありかた」はあるがままの真実相であって、それはすでに自己という枠を超えた人間一般の普遍的な「ありかた」であり、さらには万物普遍の真理でもあった。
この万物普遍の「ありかた」を仏教では、『法(ダルマ、dharma)』と呼ぶ。即ち自己を通して人生の生、老、病、死という苦悩の生じてくる真理(法)とそれらの滅してゆく真理(法)についてあるがままに見られた。
『法(ダルマ)』が存在することを、そしてその真理が『縁起』に他ならないことを正しく理解し、さとりに至ったのである。さとりとは『縁起』の自覚に他ならない。
『縁起』…他との関係が縁となって生起すること。 自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており,したがってそれ自身の本性,本質または実体といったものは存在せず,空である,と説かれる。

これがゴーダマ・シッダルタの辿り着いたさとりの境地である。ブッダは我々の心の中に『煩悩』と言われる問題点がありそれが苦悩を生み出す原因であることを見つけ出す。従って原因を解消すれば苦悩も解決される。
この世においては苦しみには必ず原因があること、その原因を正しく取り除くことが苦からの解脱であること、そしてそれを達成した時に縁起の世界を正しく理解することができること、それがさとりであることをブッダは身をもって示した。

さとりの成就を『成道(じょうどう)』という。
時にゴーダマ・シッダルタ35歳。今や精神的な安らぎの境地、涅槃に到達していた。もはや死の恐怖はなく、欲望のとりこになることもなく、心は静まり、清らかで、完全に苦を滅する智慧が獲得されていた。成道のあと、ゴーダマ・シッダルタは『仏陀(Buddha、ブッダ)』と呼ばれる。「ブッダ」とは「さとった人、真理に目覚めた人」という意味である。

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