24.01.06 対話・グルーヴ・ソサエティ2

 50型のテレビを購入した。明日届く予定。家電売り場に行くと他の65型・75型などに挟まれて霞んでしまうが、家に置いたらたぶん大きく感じるのだと思う。
 大型のテレビを買う人生になるとは思わなかった。この4年は「こうなるとは思わなかった」の連続であると反芻する。東京に出る。自転車でディズニーランドまで行く。散歩ついでに表参道で買い物をする。結婚する。3LDKのマンションに住む。
 このまま、「こうなるとは思わなかった」を感じ続ける人生であるといいな〜と思う。想像できない刺激を受けることが、自分にとって生きる糧になる。

 Twitterのアカウントを全削除。iPhoneのトップ画面、Twitterのあった場所をついつい癖で触ってしまう自分がいる。そのぐらい依存している。何せ10年以上触っているのだから仕方ないことではあると思うが。そう思うとスマホも10年くらい使っていることになる。すごいなー。
 「つぶやく」というのを常態的に行わなくなったのはいつ頃くらいからだろうか。これも多分、東京に引っ越してきてからぐらいだと思う。要するに、裏で話したいことみたいなものが無くなったのだろう。昔は、「誰にも言えないけど、言いたくて仕方がないこと」みたいなものが山のようにあった。それを吐き出すための逃げ口がTwitterだったり、mixiのつぶやきだったりみたいなものになっていた。mixiのアカウントも消してしまって随分久しいが、過去を遡れなくなってしまったことを思うと、消さなくてもよかったかもしれないなー。Twitterは過去のログを取得できるのが大変ありがたい。

 Web上でチマチマと作っていた自分の日記は、遡ろうとすれば2002年ごろ、小5くらいまで遡ることができると思われる。気がつけば、立派な20年選手であるということが非常に恐ろしい。
 前略プロフや、いわゆる「リアル」など、消えてしまったサービスもいくつかあるので、もう追いきれなくなってしまったものもある。あの時、ちょっとだけでも頭を回して「保存しておく」みたいなことができたら、卒業アルバムのように見返したりすることもできたのかもしれない。そうしておけばよかったのになとほんの少しだけ思うこともあるが、まあそのうち忘れることだろうとも思う。

 いろんなものを忘れていく感覚がある。忘れるし、覚えられない。3,4年前ならスラスラと覚えていた新しい曲の歌詞が覚えられない。おととい食べたご飯が何か思い出せない。今日やらなきゃいけないことも、メモに留めておかないとあっという間に忘れてしまう。
 これが、脳の問題なのか心の問題なのかはよくわからない。昔よりも、降りかかる出来事に驚いたり、心を揺さぶられたりすることが無くなったというのは大きく影響にしているようには思うのだが、それは多分30歳になって、体験の質が変わったからなんだろう。前よりも明らかに、一つ一つの出来事に対して頭を使って考えているような感覚は確かにある。
 それまでは、頭じゃなくて心で考えていたことが多かった。「なんであの人は◯◯してくれないのか」とか、「なんで自分は◯◯ができないんだろう」ということにずっとピン留めしてしまっていた。そうではなくて、「あの人が◯◯してくれるようになるために自分は何をしてみよう?」とか、「自分が◯◯できないのは◯◯が理由だから、そこは考えなくていい」とか。そんなふうに考え始めたあたりから、一つの出来事をあまり反芻しなくなっていったように思う。それから、自分の中に取り入れられる情報量が飛躍的に増えたようには思う。
 ある一つの出来事から、データだけを取り込むのではなくて、データを組み合わせて得られる別の何かも同時に取り込もうとするようになった。そうすると、データに対して「データ」以上の価値を見出せなくなってくる感じはある。
 これは間違いなく仕事が起点ではあるのだけど、気づいたら趣味の領域でもそんな感じになってきている。マンガを繰り返し読まなくなった、とか。

 でも、果たしてそのまま生きていっていいのか?という疑問は自分の中で沸々と湧いている。だからこそ、もうちょっと体験の質を変えてみたいと思っているのである。これは意識的にやらないとなかなか難しい。だからこそ、やってみようと自分を奮い立たせ続けることが肝要。ということで、50型のテレビを買ってみたわけである。次は何をしようかな。

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