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【当たり前を疑う】人の記憶に残り続ける人は不老不死と同じではないだろうか?

今回は哲学的に「存在する」という定義について考えていきます。

突然ですがあなたはこの世に存在していますか?

この文章を読んでいるということなので恐らくこの世に存在しているのだと思います。

ですが何故あなたはこの世に存在していると思ったのでしょうか?生きているからでしょうか?

私は存在しているというという状態は周りの環境に何かしらの影響を与えるかどうかで判断できるのかなと考えています。

仮に1人暮らしで引きこもりで誰とも話さない日々ずっと続いているとします、あなたは周りの人に何も影響を与えてないので存在していないということになるでしょうか?

私は存在していると考えています。誰とも話さなくても住居を持ち、食事やトイレや呼吸はするかと思いますので周りの環境に影響を与えているからです。

仮に食事もしない、呼吸もしない、会話もしない、触れもしない、見えもしないという人がいたらそれは存在していないといえる状態だと思います。
(おばけみたいな感じですね)

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周りの環境、人、動物に影響を与えないという状況は存在していないといえると思うのです。

影響を与えるというのは何も物理的な影響だけを指していません。自分は精神的な影響の有無も指しています。おばけみたいな人の声だけ聞こえる状態で人にアドバイスをしてくれるとします。そのおばけは私が前述している定義だと存在しているということになるのです。

ここまで説明して、本記事のテーマで書いていた「人の記憶に残り続ける人は不老不死と同じではないだろうか?」について考えます。

過去の偉人の名言があなたの人生で役に立ったという経験はないでしょうか?私はあります。

この「存在」という定義を考えると過去に言った偉人の名言が現在の人の精神や人生に影響を与えているという状況を考えると人の記憶に残っているような人物である限り人は不老不死なんじゃないかなーと思うようになったのです。

ちなみに、西暦は何をきっかけにカウントをしていると思いますか?イエスキリストが生まれた年をきっかけにカウントしているのです。

イエスキリストを全世界の人が忘れるということは滅多にないでしょう。だとするとイエスキリストはいまだに存在しているのです。影響を与えているのです。

そう考えると物理的な生命の限界なんてささいなことのように感じます。

物理的に長くこの世に残る存在よりも、精神的に長くこの世に残る存在でありたい。

私はこの記事を書いてそう思いました。

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