見出し画像

新しいサービスを「次世代型なんちゃら」で例える無意味と「Dispo」

さらっと話題にならなくなった「Clubhouse」はTwitterに似た音声SNSアプリなんて紹介されていましたが、使ってみて「どこが?」と首を傾げたりはしませんでしたか? 私はそうでした。
そもそも相対的な時間軸が異なる、文字どおり次元が違うもの。
どちらが優れているということではなく別のもの。

ただ、偏見ですがデール・カーネギーやらスペンサー・ジョンソンあたりを必読と言ってのける層が日本のアクティブユーザーという印象です。

そんなイメージもあって「Clubhouse」は日本に馴染まない気がします。

世代によって多少の違いはあるものの、多くの日本人は積極的に話し合いの場へ参加する傾向が低いことと、スマートフォンの使われ方がレシーバーに過ぎない2点で。

「Dispo」も残念ながら、同じようなことになりそうな予感です。
おもしろそうなんですけどね、これ。

さっそく「次世代型Instagram」だとか、どこでそう思ったのか。
明確に違うと思うんだけどな、意図するところが。

さておき、これまた日本で難しそうだと思えるのは無意識にマイノリティでありたい思っている大多数向けではないから。
わかりやすくは「承認欲求が強いひと向けではない」でしょうか。
語弊はあっても悪気はないので、悪しからず。

これが本当に楽しめるのは「ごく普通の、ただの日常」だと思うんですね。
「ただの、そのとき」を同じタイミングで改めて共有する楽しさ。
凝りに凝って盛りに盛るInstagramとは正反対。
フォローなんか気にせず、わかるひと同士でつながるもの。
「Dispo」には、そんな印象を受けます。

ひとまず「なんちゃら」は忘れて新しいものとして楽しめばいいのに。
既知のものに言い換えて「わかろうとする」必要って、あるのでしょうか。

「Dispo」は、特別じゃないことを楽しむもの。
どうなるか楽しみです。