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【中国戦記】弁髪の少年を見た 2006/7/30

広州の地下鉄に乗っていたときのことである。
ふと気がつけば私の横にベン髪がいた。
驚きで一度に眠気が飛んでしまった。
北陸本線福井発米原行きの鈍行列車の中で気がついたらとなりの乗客がちょんまげだったというようなものだ。

大昔の「中国人イメージ」によると、中国人は漫画「のらくろ」の豚勝将軍(とんくゎつしやうぐん)みたいに「XXアルノコトヨ」とかいう奇妙な日本語を話し(そんなしゃべり方する中国人など見たことない)、頭は「ラーメンマン」のような弁髪と相場が決まっていたものだ。
弁髪とは清朝のころの一般的な風習のひとつで、アタマの前半部分を完全に剃り落とし後半部を長く伸ばして三つ編みにするというもので言うまでもなく漢民族独自の風習ではない。
清朝は北方ツングース系の満州族であったため、騎馬民族の習慣としてアタマを剃っていたのだそうで、これを漢民族に強要したことから「中国人=弁髪」というイメージが生じたようだ。

なお、「頭を剃る文化」はモンゴル騎馬民族の特徴であり、完全に剃りあげるタイプや髪を部分的に残すタイプなどさまざまな体系があるらしい。
そういえばモンゴリアン・チョップで高名なキラー・カーンもちゃんとアタマを剃っていたのでなるほどと思う。
余談になるが、社会的体裁を一切取り繕う必要がない南極の昭和基地ではスキンヘッドやモヒカン刈等さまざまな奇行が一般化しているとのことで、数年前の第38次隊だったかにはホンモノのちょんまげをした隊員がいたそうだ。
一説によれば、わが国における「ちょんまげ」もモンゴル民族固有の剃髪文化の亜流ということで日本人騎馬民族説の根拠のひとつとなっているそうだがどんなものであろうか。

そういうわけで、清朝末期まで中国人の髪型といえば弁髪が主流であり、海外への留学生やアメリカ大陸横断鉄道敷設の苦力(クーリー)などは海外においても弁髪をしていたというから、どうやら中国人=弁髪というイメージはこの時代に定着したのかもしれない。
そういえば、郷土福井県の偉人藤野厳九郎翁が仙台の医学校で教鞭を取っておられたとき、ちょうど清国から留学に来ていた学生周樹人(後の魯迅)はまだ弁髪であったと聞く。
また蒋介石が日本に軍事留学していたのもこの頃であるが、新潟県高田の野砲兵19連隊で隊付勤務をしていたのがちょうど辛亥革命の起きる1910年であるから、蒋介石が弁髪のまま帝国陸軍の軍服を着ていたかどうかは分からない。
蒋介石は若い頃からなかなかの男前であったそうだが、もしかするとこの頃からハゲアタマであったのかもしれない。
ともかくも1910年の辛亥革命で清朝が滅んで以来弁髪は大陸から姿を消し、今はせいぜい黄飛鴻の映画で見られるくらいである。

と思っていたのだが、目を凝らしてよく見てみると確かに地下鉄の中で私の横に立っている子供の頭は弁髪だった。
前髪の部分と後ろ髪の部分を残してすべて剃り上げ、後ろ髪は三つ編みにこそしていないが30センチくらいの長さで伸びていた。
そもそも弁髪とは元は「辮髪」と書き、字義から見れば「編んだ髪」を指すので現代中国語においては女の子のかわいらしい「お下げ」も「ベン髪」ということになるのだが、辮髪の本質的な定義は髪を剃ることにあるので、したがってこのぼうやの「局所的ロングヘア(長髪と書くと弁髪を切った太平天国の乱が「長髪族の乱」と別称された故事に矛盾してしまう)」も、立派に弁髪ということになる。

最近の内地の若い親などには、幼い我が子の頭髪に脱色もしくは染色を施し、古典的暴走族のような髪型にしては目を細めるという嘆かわしい風潮が目立つようだが(名前も暴走族のような漢字の読みをするケースが多いのはなぜだ?)、大陸においても結構子供の髪型は親にいじくられるケースが増えてきたようだ。
よく見かけるのが後ろ髪をペンギンの尻尾のように伸ばすというもので、今回のベン髪少年もその発展形であるようだ。

いったい親はナニを考えておるか。
いっぺん親の顔を見てみたいものだ。
そう思っていると、ずばりその隣に母親が立っていた。
意外と普通だったのが意外だった。

【追記とあとがき】
中国人イコール辮髪というステレオタイプは現代でも一部根強い人気があるようで、劇画「男塾」では謎の中国人王大人(わんたーれん)以下いくらでも出てくる。
こんにちでも中国武術に脳を侵された日本人の中には辮髪のひとが実在するということも何かに出ていた気がするが、実際のところ中国で本物の辮髪を見かけることは日本で本物のチョンマゲを見かけるのと同じくらいにはまれなことだ。
日本のステレオタイプだとラーメンマンのようにつるつるの頭からいきなりお下げが生えているようなイメージのようだが、清朝期の古写真などを見ると実際には頭の前半分をそり落として後ろ半分を束ねたものであったようだ。

ところで中国時代の私は髪型については基本的に短めの角刈り(中国語では「平頭」)だったのだが、時に大きな改変を加えることもあった。
業務上大きな失態をやってしまい本社の利益を大きく損ねてしまった(ということらしい)ことに対して、「日本では反省を表明するときはこうするのだよ」と言って頭を丸く剃り上げたこともあったし、出張に来た上司の意味不明な要求によりモホーク刈りにしたこともあった。
今となっては懐かしいもんだ。

なお冒頭に登場する豚勝将軍の「XXアルヨ」調の日本語は、実は協和語といって満州で公用語とするために作られた略式日本語なのだそうで、日本人以外には大変難しい膠着語の文法や活用なども極力省いて、日本語を母国語としない人でも習得が可能であることが特徴らしい。
もっとも「響きがひとをバカにしている」といって毛嫌いする日本人もいて、日本人が作っておきながら日本人にはあまり喜ばれなかったという残念な人工言語だ。
敗戦及び満州国の滅亡とともに失われた言語となったが、覚えやすかったせいか戦前の協和語をのちのちまで覚えていた中国人も少なくはなかったようだ。



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