『扉』は開いていることが前提か、閉まっていることが前提か 日々風呂日記#13
こんばんは。今日は身近な「扉」を起点に、少し抽象的に「空間の広がり」みたいなものについて書いてみす。
皆さんのお家にも当然当たり前のようにある扉から、少し疑問を持てば小さいけれど大きな問いが見つかるかもしれない。
そんな文章が書けたら。
それでは、はじめましょう。
「扉」は元から開いていたか?それとも?
皆さん、最近は換気に気をつけていらっしゃる方が多いと思います。こんなご時世だもの。
換気のたびに窓や扉を開けますよね。
僕は元から窓や扉を開けておくタイプですが(寒ければもふもふした暖かいものをまずきて過ごしたり)、
それでもいつもより気にして窓や扉を開けています。
そんな中でふと思ったんです。
窓や、特に隣の部屋との関係のためにある「扉」は、元から閉まっていることが前提なのだろうか?それとも、そうじゃないとすれば、開いていることが前提。なのだろうか?
閉まっているという前提への疑い
皆さんはどちらだと思いますか?
開いているのが前提か、あるいは閉じているのが前提か。
僕が思うに、基本的には
閉じているのが前提では?という人が多いのではないでしょうか。
だって、部屋なんだし。プライバシーを守るための扉は閉まっているのがまず前提だろう。と。
もし開いていることが前提なのならば
でも、その発想を少し変えてみるとどうでしょうか。
扉は開いているというのが前提のものだ。
そう考えると部屋のプライバシーや、あるいは部屋、個室という概念が少し揺らいでくるような気がしませんか?
新しいプライバシーへの一歩
それはつまりどういうことか。
扉が開いている事を前提とするならば、
基本的に部屋なるものは全て元は繋がった空間だ。と考えるという事だと思うのです。
そして、欲しい時だけ自分の空間を切り取る装置として働く。それが扉。
じゃあそれがなんなんだ?という事ですが、
それはつまり、常に部屋の外との空間を意識するという事です。
部屋にいると、自分の場所があって、それが外と切り離された完結した空間として独立する。
それは一見プライバシーの保たれた快適な空間かもしれないけれど、
逆に他者とのコミュニティを分断したとても閉塞的な空間、あるいは閉塞的な人としての暮らし方だともいえます。
閉塞する事
その閉塞は、決して悪いことというわけではありません。
防犯や、精神衛生上も重要な要素でもあります。
でも、それだけで良いとも言えない。
そうして閉塞しているのが常になると、
それはつまり、少し大きな事を言うようですが、世界に対して、他者に対しての想像力を無くしていく事になると思うのです。
それはつまり、自分だけが良いという世界を作り出していくことの小さな一歩でもあるかもしれないのですから。
建築や空間は意外と、そういった大きな問いの小さな原因を形にしていることもある。
それが面白いところです。
今日ののぼせ具合
さて今日はこの辺で、おやすみなさい。
例にもれなく、ざっくりとして中途半端な投げかけで終わっていますが笑、
そこをきっかけに何かに想像力を開くことができると嬉しいです。
今日の僕の文章が小さな空間から、でも確かに大きな世界に開かれた扉のような存在になれたら。
それでは。
今日ののぼせ具合は90%。いい感じです。
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