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ひな誕祭②丹生ちゃん推しの中年男性

 「4回目のひな誕祭」の二日目、13:00ごろにハマスタの最寄り駅から地上に出ると、いきなりメンバーの写真がプリントされた4トントラックが前を通り過ぎた。有志でお金を出し合って作ったみたいで、SNSで映像が出回っていたからファンの間では有名だった。周囲の人は写真を撮りながら「これあれだよ」「本物じゃん」と話していた。
 ライブ当日、会場では様々なイベントが行われる。グッズ販売はもちろん、サインTシャツなどが当たる抽選会やメンバー宛の祝い花の展示、ライブ会場の最寄り駅に有志が広告のポスターを出したり、さっきみたいにメンバーがプリントされたトラックが会場周りを走っていたりする。楽しもうと思えば一日中楽しめる。テーマパークみたいだ。今ではそう思えるけど、日向坂のファンになりたてだったころ、アイドル文化になじみのなかった僕には理解できないものが結構あった。
 その中でも、同じメンバーを応援している「同担」同士で集合写真を撮るイベントが最も奇妙に見えた。正直、少し馬鹿にしていた。
 「ひなくり2021」で集合写真を撮っているファンの集団を初めて見たとき、どういう感情でやっているのかが分からなかった。なんだか、クラスで同じ人を好きになった人で写真撮っているように見えた。同じメンバーを好きな人同士で同族意識が芽生えるってことだろうか。それをポジティブにとらえて「写真を撮りたい」って思うことは僕にはできなかった。僕にとって「好き」という気持ちは恥ずかしいし、少し、気持ち悪い。
 グッズを買って、推しがプリントされたのぼりと写真を撮って、一通りやることを終えても時間があった。この日も会場周りで集合写真を撮っている集団があった。自分と同じメンバーを推している人達が集合写真を撮っているのを見たとき、少し、入りたい気がした。自分でも不思議だった。昨日のライブのせいだと思った。あの体験は、あらゆる面で僕を変えてしまったみたいだった。
 これまでは自分以外のファンを、単に「同じメンバーを好きな人」くらいに思っていた。僕にとって、あくまで好きというのは個人的な話で、集合写真を撮るほどファンの人との共有意識を持つことは無かった。でも、一日目の声出しライブを経験した今では、集合写真を撮る人の気持ちが分かる気がする。彼らにとって自分以外のファンは同じ空間で、同じ時間を共有した仲間なのだろう。ライブだけじゃなくて普段から好きなメンバーが活躍できなくてやきもきしたり、すごいパフォーマンスを見て好きになって良かったと思ったり、もちろん笑顔を見て幸せになったり、いろんな感情を共有している。多分、ライブ会場での集合写真は文化祭の後の集合写真に近い。個人とメンバーとの関係だけじゃなくて、全体としてのファン対メンバーという関係があるのもアイドルオタクの醍醐味だと思う。ファンとメンバーみんなで青春している。だから写真を撮りたくもなる。また新しい世界が広がった。
SNSで集合写真を撮る時間と場所が告知されていたので急いでそこに向かった。現場に着くと、僕と同じタオルを持った人たちが挨拶して別れていくところだった。予定が変更になっていたようで、写真はすでに撮り終わっていた。僕にとってアイドル文化はまだまだ難しい。

 二日目のライブが始まった。トイレに並んだりしているうちにライブ開始直前になってしまったから、前日のようにライブ前に隣の人と話すことはできなかった。ライブが始まってしばらくすると、周りに僕より声を出す人がいないことに気づいた。昨日は隣のコール経験があった男の子と仲良くなれたから思う存分声を出せたけど、いつもそういうわけにはいかないみたいだ。ライブがたくさんの不確定要素から成り立っていることに改めて気づく。
 
 特定のメンバーを特別に贔屓して応援している人を指す「単推し」という言葉がある。逆にグループ全体を満遍なく応援している人を「箱推し」と言うが、この二つは完璧に区別されるものではなく、「〇〇ちゃん単推し寄りの箱推し」「一応箱推しだけど〇〇ちゃん単推し感強め」みたいにグラデーションがある。
 僕の右斜め前方に丹生ちゃんのタオルを首にかけている中年の男性がいた。モニターに丹生ちゃんが映った時だけ他のメンバーの時とは明らかに異なる熱量で声援を送っていたので、かなり偏った「丹生ちゃん単推し」だと分かった。声が周囲より大きいし、丹生ちゃんを注視しすぎて周りとは若干違うタイミングで声を出すし、そのうえ中年男性と絶叫の組み合わせもかなり奇妙だったからすごく目立っていた。大学生だとそこまでおかしくはないんだけど。
 無意識のうちにその男性のことを考えていた。見た目は、よくライブ会場で見る感じのオタクの中年男性。ぎりぎり髪は生えていたけど背が低くて、太っている。普段は何をしているのだろうか。正直既婚者には見えない。彼女がいたことあるかも怪しい。幸せなのだろうか。余計なお世話だとは分かっているけど考えてしまう。丹生ちゃんを好きになって幸せになっているのだろうか。もしかしたら、逆のこともあり得るかもしれない。丹生ちゃんに出会わなければ、好きになっていなければ、現実世界に自分を好きになってくれる人が現れていたかもしれない。一方通行を抜け出せない思いは、結局独りよがりで、最初から無かった方が良かったんじゃないだろうか。
 いつの間にか同じメンバーを好きな人と集合写真を撮れない自分のことを考えていた。集合写真を撮る人の気持ちは分かったけれど、それでも集合写真を撮ることに僕はまだ抵抗がある。
 僕は、自分がメンバーのことが好きだという思いが、気持ち悪くて、恥ずかしい。相手は自分に対して特別な感情はないのに、自分だけが一方的に、勝手に特別に思っていて、相手のことを考えているはずなのに、めちゃくちゃわがままで、エゴの塊で、気持ち悪い。見た目にも似合わなくて、相手とも釣り合わなくて、恥ずかしい。推しのタオルを掲げて写真を撮ることが、「好き」を全面に掲げて写真を撮ることが気持ち悪くて、恥ずかしくて、やっぱりできない気がした。
 好意は恥ずかしくて、気持ち悪い。そんな前提が僕の中にあるから「丹生ちゃん単推し」の男性が気になる。この男性の好意も、やっぱり、気持ち悪い。恥ずかしくて、恰好悪い。丹生ちゃんにとって重すぎて、迷惑だと思ってしまう。
 ライブの演出で、メンバーを載せたトロッコが目の前に来た。メンバーとの距離は約10メートル。ファンはタオルを見せたりペンライトを振ったりして必死にメンバーにアピールする。メンバーは自分の名前が書かれたタオルやペンライトの色を頼りに自分を応援しているファンを見つけてリアクションする。
 そのトロッコに丹生ちゃんも乗っていた。当然「丹生ちゃん単推し」の中年男性もタオルを掲げ、脂っこい体を震わせて名前を叫んだ。僕はずっとその男性と丹生ちゃんを見ていた。
 ほんの1,2秒だった。丹生ちゃんはその男性の方向を指さして、おなじみの、これまでたくさんの人を幸せにしてきた笑顔を見せた。直後に男性はタオルを降ろし、席に座って水を飲んだ。今の笑顔は間違いなく彼だけに向けられていたのだと思った。
 そうやでな。
 僕は、つぶやいていた。
 そうやでな。絶対こっちが正しいよな。そんなわけないねん。好意が悪者なはずないねん。好意はそもそも、絶対いいもんなはずやん。なんやねん、好意が気持ち悪いとか、恥ずかしいとか。ふざけんなよ。俺も、社会も。「好き」がない世界なんかおかしいやん。独りよがりになるくらい誰かを肯定する感情が、悪者なわけない。誰かを大切に思う感情が、幸せを願う感情が悪者なわけない。「好き」がないよりあった方がいいやん。「好き」が追い出される世界なんかなくなった方がいい。
 そんな、当たり前のことを思った。そんな当たり前のことを忘れていたのだと思った。
 セミが鳴くのは求愛行動らしい。その事実を知った時、僕は、羨ましいと思った。僕にはそんな真似できない。そんな恥ずかしい、気持ち悪いことできない。僕でなくても、普通に生きていて、「好き」を叫ぶことができる場所はなかなかないと思う。それが簡単にできるセミが羨ましかった。
 コールは、行き場のない「好き」を開放する。全力で、ひたすら肉体的に、「好き」を叫ぶ。セミみたいに。メンバーが絶対受け入れてくれると信じられるから、僕たちは思いっきり「好き」を叫ぶことができる。いつの間にか嫌われていた好意が、彼女たちのおかげで行き場を得て、本来の色を取り戻す。僕たちがセミと違うのは、「好き」で誰かとつながれることだ。会場に好きがあふれる。見たことのない景色だった。
 シンプルに「好き」を叫ぶだけのコールは、どこまでもまっすぐな日向坂に良く似合う。好意を疑う姿なんか全く想像できない日向坂に良く似合う。
好意はいいもん。彼女たちがちゃんと受け止めてくれるから、当たり前のことを思い出せた。
 彼女たちがやっぱり好きだと思った。まったく気持ち悪くも恥ずかしくもなかった。
 
 ここで二日間のライブの振り返りを終わる。
 ライブ直後の陶酔感はやっぱりすでに失われている。立ち直ろうとすれば立ち直れるくらいには体力的にも精神的にも回復している。でも、立ち直るのが正しいことなのかも分からない。日向坂にもらった良い部分だけ持って前に進むこともできるけれど、それが正しいことなのかもよく分からない。ずっとライブの余韻の中にいてもいい。そんなことはできないけれど、そう思う。別の生きがいなんて見つけたくない。別のもっと素晴らしいものになんか出会いたくない。あのライブを消費したくない。
 生きるためには、手段と目的が必要だと思っている。世界平和も、地球環境も、助け合いも生きるために必要だけど、生きる目的ではなくて、人生の価値をいまいち信じ切れていない僕には、生きる目的が必要で、日向坂は絶対、そこにいてほしい。日向坂があるから、まあ、人生にも価値がある。日向坂がいる人生を守りたいと思う。
 最初は生きる目的だったのに、いつの間にかそれに依存して、手段みたいになっていることがある。生きる目的として相手からエネルギーを摂取して何とか生きているみたいな。自分の人生の意味を依存させる相手を探しているみたいな。悪いとは思わないけど、逆じゃないか、とは思う。僕は、日向坂をそんな風に扱いたくない。簡単に言えば、信仰していたい。信じていたらいいことがあるとかじゃなく、それのために生きる、そうやって生きていきたい。仕事にとって有益なものを得られたとか、そういうのはもってのほかで、しかも、自分の人生に意味を持たせるために日向坂に依存しているのでもなく、ただそういう状態。信仰しようとしていないけど、信仰している状態。依存しているとも気づかずに、依存している状態。何も信じていなければ生きられないから宗教を見つけたわけじゃなくて、宗教だとも思わないうちにキリストのおかげで人生に意味を感じている状態。自分でも何を言っているのか分からないようで、少しずつ核心に近づいている気がする。
 何も言わなくていい。日向坂のつくるすべてが美しい。それを大事にする。
 このライブの体験をもとにまたいくつか文章を書くだろうけど、日向坂のために書こうと思う。日向坂が好きだということ以外書かないでおこう。
 僕なんかが日向坂46を定義しちゃいけない。

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