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推しがいると人生は輝くか —宇多田ヒカルを手掛かりに—


「推しがいると人生は輝きますか?」

先日、友人に問いかけられた。
この直前まで、私は大好きな宇多田ヒカルについて熱く語っていたところだったので、ここでいう「推し」とは、紛れもなく私にとっての宇多田ヒカルのことである。

同年代の親しい仲にも関わらず、丁寧語で、まっすぐな目で投げかけられたこの問いについて、私はその場ではきちんと答えを返すことができなかった。

推しがいると人生は輝くか——?


確かに、宇多田ヒカルと出会う数年前まではどうやって生きていたかわからないほど、今は宇多田ヒカルに依存した日々を送っている。
新曲が出ればもちろんTwitterで騒ぎ、新曲なんて出なくても宇多田ヒカルのSNSに少しでも動きがあればそれだけで大騒ぎしていた時期もある。
昨年やっっっとの思いでライブのチケットを手に入れた時は、21年分の人生のご褒美だと、会う人会う人に聞かれてもないのに自慢しまくり、実際、ライブでのナマ宇多田は世界中の言語を掻き集めても言い表すことは不可能なくらい素晴らしかった。それからずっと、「私はナマの宇多田ヒカルをこの目で見て2時間歌声を浴びたんだからな!」という謎の自信と気概を忘れずに生きようと心掛けている。

充分、宇多田ヒカルによって毎日が楽しくなっていると言える。
最近では、宇多田ヒカルの私物とおそろいのリュックを背負って、るんるんしながら街をウロウロしていたりもする。

宇多田ヒカルによって毎日が彩られているのは確かだ。ただどうしても引っかかるのは「輝いているか否か」という部分である。


宇多田ヒカルの音楽、また宇多田ヒカルという存在は、日常をキラキラ輝かせるものではないように思う。
どん底、絶望の底にいるとき、またそこまではいかなくても、言いようのない不安に駆られているときに、一緒に苦しんでくれる存在というか、自分と同じ景色を隣で肩を並べて見てくれる存在だ。また、道のほんの少し先に立っていて、今にも消えかかりそうな蝋燭の炎で足元を照らしてくれる存在でもあったり。

宇多田ヒカルの音楽また存在は、「平凡な日常を楽しく彩る」ものではなく、「限界の淵にいる人間が一線を飛び越えないようにしてくれる」ものだ。

支えてくれる、とも違うし、背中を押してくれる、とも違う。宇多田ヒカルと私の間に物理的な力の作用は一切ない。ただ、宇多田ヒカルと彼女の音楽がそこにある、確かに私に見えていて聴こえている、この人も私と同じ絶望と孤独を感じている、それだけで気持ちをほんの少し、落ち着けてくれるのだ。


何が言いたいかというと、つまり、宇多田ヒカルを推していることによって別に人生は輝いていない。キラキラした夢を見せてくれるアイドルとは違って、宇多田ヒカルは究極に、残酷なまでに「現実」だからだ。なんなら嫌でも現実を突きつけてくる。宇多田ヒカルと肩を並べようものなら、もうすぐそこに迫っている恐怖から目をそらすことはできない。


「推しがいると人生は輝きますか?」

現在、友人がくれたこの問題に対する個人的最適解は、

「輝きはしないが、死ななくて済む」

という結論に至っている。


#宇多田ヒカル #推し #人生


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