Pさんの目がテン! Vol.28 E.M.フォースターから見た「ヴァージニア・ウルフ」3(Pさん)

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 前回の、二つの引用に戻る。しつこいので繰りかえさないけれども、ヴァージニア・ウルフの批評、書評について言うと、その作家に対する評にはなっているけれども、どこかそれ以上の価値を持っているような感じがする。「同時代作家の作品は、一つずつ出版されるので、ゆっくりと現れてくる意匠の部分々々を見ているようなものだ。」というフレーズが、何度かここを通りかかったけれども、忘れることが出来ない。E.M.フォースターが、この評論の中ほどで触れている、これもヴァージニア・ウルフの感覚性、感覚から起草して場面とか描写とか、そこから根や蔦を伸ばすように小説全体を構成するという描写の強さが現れているのかもしれない。人の文章というものに対しても、感性的に接するということだ。
 E.M.フォースターは、それに対して、ヴァージニア・ウルフが分析したように、感覚として、戯画的に、あるいは諷刺画的に描く場面というものがありながら、理性的、理想的ともいえる小説像、急に神の前に佇むとか、個人として救われることがあるといった場面に変化するという。
 この二人の定式化を総合すれば、ヴァージニア・ウルフは感性によって場面を作り、描写する詩的な場面を書く感覚派であるのに対して、E.M.フォースターは、その感覚と理性、理想とのバランスを小説内で併存させる小説家である、ということになるのかもしれない。
 しかし、以上述べた評は、互いにもしかしたら言い訳でも述べたいところなのかもしれない。ヴァージニア・ウルフなんて、死んだ後にそんなことを言われているのだから、水の底からまた這いあがってきて、なんか言い返さないとも限らない。

 フォースターの方の「ヴァージニア・ウルフ」の中で、触れなければいけない小説がたくさんあるにもかかわらず、半ページを「病むことについて」に費やしている。曰く。

小説家は肉体をまるで魂が外界を覗く板ガラスのように扱っているけれども、これは経験に反するというのです。このテーマにはいろいろ発展させることのできる問題がふくまれているのですが、彼女はそれを追求するのにたちまち飽きてしまいます。
(『フォースター評論選』、「ヴァージニア・ウルフ」、219ページ)

 自分がなんだかいろいろ回りくどく言おうとしていたことが、たった半行くらいで言いつくされたような感じがする。ただ、それでいて、こういった本質的な、小説に対する指摘みたいなものは、それがあるだけでじゅうぶんであるという気がする。
「斜塔」にも触れている。どちらも、当時物議をかもしたエッセイだったのかもしれない。エッセイによって、物議をかもすという現象が、当時あったのだとしたらだが。ここの展開が、もともと十九世紀からこのかた、学問を生み出してきた中産階級以上の階級が世界を見られていたのかどうか怪しい、というE.M.フォースターの持っていきかたに、僕は違和感を覚えた。まるで時代の変化について何も感じずに過ごして、普遍的なことをひたすら言いたいかのようだ。
 これから、フォースターの方が、いったいどんな小説を書いているのかという点について、見ていかなければならないという気分に駆られる。

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